大成拳における視観功法の「視」とは、眼の視覚器官を使って外界の物や環境を見る練用功法の形式を指す。一方、「観」には観察の意味が含まれ、見るという意味だけでなく、察するという意味もある。察には、見る、気づく、感じるという意味があり、気づきを通して本能的な反応や条件反射を発揮するという意味もある。
一、視観功的養生功法
1.遠観功的養生功法
站樁の際、遠くを見つめたり、遠くの物をしばらく注視した後、視線を自分自身に向けて収め、遠くの物との距離は変わらず、まるで近くの物を見ているかのようにする。站樁功の練習では、意は遠くから近くへと発し、両眼は丸く見開いたり、力を入れ過ぎたりせず、わずかに閉じるような意を持つべきである。外を見つめる際は、目の力を集中し、まず遠くを見てから視線を収める。「収視」は決して両目を閉じることと理解してはならない。その意味は、遠くを見ることから視線を収めることである。遠くを見る意は放にあり、視線を収める意は蓄収にある。そのため、王薌齋先生は『大成拳論・総綱』に「収視して内を聴き、神経を鍛錬する」と記している。その意は、練習者に練功の際、神意と視観を同時に訓練するよう求めていることにある。遠くを見て収めることは視観機能を高め、神意と合致し、養と練を一体化することで、遠近、放収の蓄積が神意と合致し、視力の温養に有利となり、内調練功の原則に合致する。この功法は主に視神経系の自律調節機能を調節する。視神経(optic nerve)には動眼神経、滑車神経、展神経が含まれる。正常な眼部神経の調節機能により、眼球外筋、上斜筋、外直筋、瞳孔括約筋、毛様体筋、瞳孔散大筋の交感神経が正常に自律調節され、視覚器官の機能が正常に保たれる。遠観功法の訓練は、眼部神経の調節機能を回復、強化することができ、その内なる意は、全体的な養生や技撃功法との協調的な練習にまで拡張し、効果を高めることができる。
2.透視機能訓練
三才樁や渾円樁を立つ際、前手を両眼で外物を見る視線の前まで上げ、指の間隙から外物を見る。遠くの物を見る時、指はぼやけて見える。近くの指を見る時、外の物ははっきりしない。遠くの物と近くの指を見る時、視線、指、外の物は必ず視線の中心にあり、つまり眼、手、外の物の3点が視線上で一直線を成す。練功の際、手を見ることから物を見ることへ、そして物を見ることから手を見ることへと視線を変える間、決して目を閉じたり瞬きしたりせず、ずっと目を開けたまま見る。この功法は目の痛みを和らげ、近視、乱視、視力低下などの眼疾患を治療することができる。主な原理は、遠くの物と近くの物を見る変視の過程で、長期的な功法の練習により、眼筋の視覚機能を調整し、視覚器官の自律調節機能を高め、視覚器官の機能を強化し、治療と保健の効果を達成することにある。
視覚器官(visual organ)には、眼球とその補助装置、関連する眼部の血管や神経などが含まれる。この功法は主に、神意と調視の作用により、視神経や眼部血管などに作用し、眼球の毛様体(解剖学的には毛様突起と呼ばれる)とその後部の毛様輪(毛様筋とも呼ばれる)を調節し、房水を調節して眼内組織を栄養し、毛様突起を調節する。毛様小帯を介して水晶体に連なり、毛様筋の弛緩収縮機能を正常化し、水晶体の曲率を適切に変化させることで、遠近の視力を調節する作用機能をより良く発揮し、自律調節、養目、保健、治療の養生効果を達成する。透視功を練習するには、長期的に坚持し、正しく訓練することが必要であり、そうすることで顕著な効果が得られる。
二、視観功の技撃功法
視観功は技撃功法の練習において非常に重要な補助的役割を果たし、技撃や実戦において直接応用することができるため、大成拳の習練者は一定水準に達した後、視観功に重点を置くべきであり、境地や水準の向上に役立てるべきである。
1.神注視観功
王薌齋先生は『大成拳論』の中で、「鷹の如く見つめ、虎の如く睨む」、「両眼の神光を収斂する」など、視観や神注に関する記述をしている。俗に「神は目から達する」、「精神が十分に備われば、眼光が充足する」と言われている。神注視観功とは、外を見たり、目標を定めたりする際、精神を真摯に、視観の中に注ぎ込むことを指す。「神視合一」というのがその理である。練功の際、両眼で外を見たり、遠くを注視したりするが、見える、見えたと理解するだけで、単に目標を確定することを目的としてはならない。技撃の初期段階ではこのことが明確でなくてもよいが、一定の境地に達した時、その看、観、視には拳学の目的がある。そのため、強敵を草と見なすのは、主に神松を目的とした視観功の内容である。神光を外に放ち、外物を自分と生死を賭けた敵と見なすのは、まるで虎が鹿や馬を見つめ、鷹がうさぎを見据えるようなものであり、敵と対峙することで相互の関係が生まれる。その関係とは、敵と生死を賭けて戦うという真摯な神の「緊」の神注の内包である。神視は大成拳の本能を回復し、功力を高め、浩然の気を養う功法の練習目的であるため、必勝、不屈、奮闘、従容、自然の総和である。訓練の中で、神注は思考の第一信号の内面での使用であり、視観は精神の内敛と外放であり、視は神と合致し、外視は空ではなく、注は意に含まれ、すべての法は一つに帰結する。そのため、神の仮借を用いて視観の神光の内斂と外注の変化を確定し、視観功法から精神や意念の目的を明確にし、それによって視観の効果と各功法の練習の水準を高める。目を内に向ける時は、神を含み、意を込め、神光を外に放つ時は、物があり、空ではないが、練功の際は、収視と斂神を主とし、専注視観を多く行い、目を見開いて光を漏らすことを少なくする。日が経ち、功が深まるにつれ、目の光は清冷となり、凛として電のようになり、目視は自ずと神と合致し、さらに功法の水準と拳学の境地が大成の境地に達するようになる。習練の際は、多くの体認を重視し、無理に求めてはならない。練功の際は、必ず火加減を掌握しなければならない。王薌齋先生は「過ぎたるは及ばざるが如し、過度であってはならない」と言っている。これは無理に求めることの弊害を指している。
2.実戦視観功法
王薌齋先生は「敵に応じて発し、声を開き気を吐き、敵の心意を観て、声勢を張る」と言っている。上述のように、視は情を看ることであり、観は勢を察することである。正視と斜めに窺うことは、主客双方の位置や角度の違いに由来する。視観の中の看と察は、客の何処、何の位置を看て察するかを指す。これまでの記載や拳界の諸説は一致していない。「客の両目を看るべきである」という説があるが、これは相手の眼神を見て、相手の状況を窺うことを指す。私はこれは拳学の実用理にそぐわないと考える。相手がサングラスをかけていたら、どこを注目すればよいのだろうか。だから正しくない。また、「相手の肩を看るべきである。肩が動けば手が出て、肩が引けば後に発する」という説もある。これも完全に正しいとは言えない。実戦では全身で力を出し、歩が動けば神が随うが、肩が先に動かなければ、どうして勢を窺って機を得ることができようか。だから、技撃で肩を視ることも否定される。さらに、「相手の脚を観るべきである」という説もある。これも必ずしもそうではない。相手が近くにいて、手を伸ばせば撃てる距離であれば、脚を動かさなくても効果を発揮できるため、技撃で脚を観ることも全面的ではない。技撃の実戦では、勢を観ることを主とすべきであり、勢を視るには、必ず客の全体が位置する空間から観察し、正視、側視、余光のいずれを用いても、その位置を観察し、その勢を測ることができる。観察すべきは、相手全体の輪郭であり、感覚、客の動静、身体と手の間架を含む。しかし、客がすでに身を進めた後に、それに合わせて動くことはできない。大脳の思考を経由すると遅くなり、機を失うことになる。視観せずに用いるのは法を失うことである。したがって、正しい視観は感覚に基づいて発することであり、客の位置と距離を簡単に確認するだけで、機に応じて進歩し、手を出すことができる。客がどのように対応するか、その後どのように行動するかは、技であり、本能の使用ではない。実戦では、視観さえ正しければ、手を出すか出さないかは我にあり、進退、起伏は我にあり、正撃、偏進、斜作、横行も我にある。機を得て用いるのである。
いわゆる機とは、客が撃とうとしてまだ発していない時に、主が勢を蓄えて備えた後のことである。視観には必ず重点を置かなければならない。上述の他に、進撃点は客の鼻と頭に定めるべきである。鼻は中央の土であり、これを撃てば敵は必ず崩れる。相手の重心と中線は視観の輪郭の中にあり、進身、進歩の達する位置がまさにここである。神注視観は内意、神合、形備であり、目を見開いて狂うことではない。善良で平和な様子は自然な外示であり、内在する自然の統一である。心の狠さは神にあり、意にあり、含蓄的で内に備えるべきである。したがって、「神は外に溢れず、意は形に露れず」、眼神もそうである。眼神が外に溢れれば、六法は一つに帰し、六到は功となり、敵はすでに神光が外に射る瞬間に撃たれ、勢を失う。そのため、王薌齋先生は「技を競う者は思慮せず、思慮する者は寸歩も難しい。進退転身は、意を形に帯びてはならず、形に帯びれば必ず勝てない」と言っている。したがって、「視観は自然、身形も自然であるべきである。自然に松整すれば、霊敏であることは必然である。突発的に至れば、その時は拳がない。高者が用いるは、本能の間」であるべきである。さらに、「その(客の)位置を視、その距離を観察し、形は意から始まり、神は先に導く。実を撃つのが正しく、機を得れば速やかに」とすべきである。視観の中で「来勢の機を測り、敵の長短を推し量る」とは、主客の距離がかなり離れていることを指す。したがって、近距離では、主はすでに上述の視観の任務を完了しており、「利鈍智愚を切に審らかにし、相手の意を察する」ことになる。「審」とは勢を測ることであり、「一触即発し、爆発力は断続せず」という「手を出せばそこに処する」時機に達することである。これは遠近の視観の実戦における火加減を指している。王茗斎先生の「来勢の機を測り、敵の長短を推し量る」、「利鈍智愚を切に審らかにし、相手の意を察する」という言葉は、実戦では間に合わないと言う人がいるが、これは習う者の拳学の理解がまだ及ばないところがあることを知らないのである。上述の遠くに応用するものは、必然的に有効であり、近くに用いれば必ず機を失い、利を失うため、この言葉は一つを知って二つを知らないのである。要するに、視観功の応用は実戦の中で体得し、使えて効果が出ることを正しい道とすべきである。人と手を動かしたことのない者が、本を書き写すだけで、自ら体認せず、実戦をおろそかにしては、透徹した理解は得られないのである。
3.精神籠罩
精神籠罩は大成拳の練用功法ではない。これを功法の一つとして解釈する人がいるのは誤解である。精神籠罩とは、技撃の実戦において現れる主が客に作用する高次の功法現象を指す。すなわち、主が上乗の功法に達し、精神が凛然として、目つきが電のようであり、客を威圧して制勝する現象である。客は主の神威や気勢に怯え、実力が敵わないと自覚し、すぐに戦う勇気を失い、恐れ入って降参する。主は戦わずして勝つのである。精神籠罩の境地に達して手を交える際、主は突然両目を大きく見開き、神光が電のように放たれ、神威が外に射る。客は正視する勇気がなくなり、怯えて数歩後退したり、極端な場合は撃たれずに倒れたりする。羊が悪虎に遭ったかのような状況で、戦わずして自ら敗れるのである。
和振威『大成拳学』北京体育大学出版社より