意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

筋力六梢的訓練:站樁(『中国拳道・神意拳: 王薌齋原伝拳法』より)

勁を求め、筋力を求めよ! 易筋、易骨、易髄は唯、樁のみである!

『筋力六梢解析』の一節で述べたロープのA端とB端の理論によると、後天的に形成された六梢の運動に影響を与えたり阻害したりする肌肉の作用を取り除いてこそ、人体は六梢の整力を得ることができる。そのためには、六梢を同時に運動させ、余分な肌肉が六梢の運動に参与しないようにし、しかもそれらの肌肉を適度に弛緩させることができる運動方式が必要である。

古人は長期の活動の中で、人体が直立し放松した状態での静止運動である「站樁」では、大量の肌肉が関与しないため、これらの肌肉は適度に放松することを総括した(次の『站樁姿勢与六梢簡釈』を参照)。このような状態で、意念の誘導(神経の指令を通じて)により六梢の筋をゆっくりと運動させる(わずかに張る)と、六梢は運動を得る。長期の訓練を経て、六梢の筋力は増大し、六梢の運動に影響を与える余分な肌肉は徐々に分離し、人体に別の用力方式、すなわち神意拳に必要な六梢力の用力方式を形成する。

站樁は、六梢を鍛錬しながら人体の大量の肌肉を比較的放松した状態に保つことができる唯一の運動項目である。人体の力量である筋六梢の力は、站樁を通じてのみ獲得できる。これこそが神意拳の站樁、すなわち渾円樁である。

站樁では、全身の肌肉を放松させながら基本的な間架を維持することを要求される。基本的な間架の維持は少量の肌肉と一部の筋のみに頼って行われ、大量の肌肉の参与は必要とせず、全身の肌肉も放松する。この時、意念の活動を通じて大脳神経が徐々に六梢に対して相応の独立した指令を形成することができるようになる。これが王薌齋先生の『拳道中枢』で言う「温養神経」である。したがって、神意拳の站樁における六梢の訓練は、主に神経系統の訓練なのである。

王薌齋先生が『拳道中枢』で繰り返し強調している「根松梢緊」の梢とは、人体の両足、両手、尾椎、頭の六つの梢を指している。于永年先生は次のように語っている。「ある時、王先生の家で、人々が王先生に站樁の仕方を尋ねると、王先生はさっと手を伸ばしてドアの後ろのハンガーにかかっている服を指さし、『あそこにかかっている服が見えるだろう、あのようにするのだ』と言われた」。その後、筆者が李見宇先生に尋ねると、李見宇先生は次のように答えた。「これを提綱挈領と言う。つまり、六梢を吊るしてから周身を放松させる。これこそ先生の言う舒適得力である」。神意拳は站樁、試力、試声から武舞、さらには用法に至るまで、すべて六梢の運動を中心に展開されていると言える。李見宇先生は次のように語っている。「六梢は この門の拳の核心である。站樁は六梢を站つことであり、試力は六梢を試すことであり、発力は六梢を発することであり、実作は六梢を用いることである。六梢が整うと(力が均等に用いられる)、勁が整う。六梢が整わないのは局部の力である。」

李見宇先生は次のように語っている。「先生の発力は、梢と梢が争うことによってなされる発力であり、まるで二本のロープを両側に引っ張るようなものだ。したがって、身体は決して勁を置いてはならない。ロープの真ん中のように、常に松でなければならない。これこそ站樁の時に先生が常に『根松梢緊』を強調する理由である」

站樁は、身体の健康に有益であることを前提として、後天的に形成された肌力の運動に影響を与える余分な肌肉を捨て去り、乳児期の整力を見出すあるいは回復することができる。これこそ王薌齋先生が『意拳正軌』で言う「樁法換勁」である。站樁を通じて、後天的に形成された肌肉の局部力を使う習慣を先天的な筋の整体力を使う習慣に変えるのであって、現在の人々が普遍的に考えているように、站樁は身体の肌肉を上から下へ、左から右へ、前から後ろへと繋げて一つの整体にするものではない。このような整体は、身体を硬直した状態にしてしまう。この硬直した状態は、人体の外への発力を妨げてしまう。身体の硬直と整力とは、二つの異なる概念である。全体力と整力の区別は、肌肉または筋の参与の多寡にある。その中に絶対的な筋の力の使用も、絶対的な肌肉の力の使用もなく、筋力あるいは肌肉力はすべて相対的なものなのである。


李見宇先生は次のように語っている。「なぜ站樁をするのかがわかれば、どのように站樁をすればよいのかがわかる。古来口伝で伝えられてきた站樁とは、『季鳥(知了、蝉)が木に止まる』(蝉眠)と呼ばれるものだ。その作用は筋力なのだ。もう一つは未病を治すことだ(『黄帝内経』に「上医は未病を治し、中医は欲病を治し、下医は已病を治す」とある)。この二つは表面的には、一方は技撃のため、もう一方は生理のためのようだが、実は目的は一つ『衛生』である。站樁にはそれほど多くの理屈はない。身松梢緊(根松梢緊)で眠れればすべて備わっているのだ。現在のようにあれこれと立ち方について多くの理屈をこねる必要はない。これらはみな人々自身が複雑にしているのだ。明清以降、中国の多くの武術門派が站樁を重視し、現在のボクシングや散打の練習でも站樁をしている。しかし、実際には彼らの站樁と実際の運用とは噛み合っていない。なぜなら、腕を曲げ伸ばして人を打つのに使うのは主に肌肉の力であり、筋力とはあまり関係がないからである。だから站樁をしてからパンチを繰り出しても意味がない。これらはみな站樁とは一体どういうものなのかを知らないからであり、自分の理解と好みに従って站樁をしているからだ。腕を上げさえすれば(站樁を指す)、すべてが備わると考えている。さらに大部分の人は、人に教えてはいるが、本人は站樁について何も知らない。ましな人でも、半分しかわかっていない。どんな理論であれ、片っ端から站樁に当てはめようとする。太極理論、陰陽学説、中医理論など、中には王薌齋先生の拳法と原子の衝突理論を結びつける人もいる。そしてこれらの理論を使って他人を煙に巻く。だから現在、站樁は千人千様なのだ。十年、二十年後にこれらの人を見ても、相変わらずである」。

李見宇先生のこの一連の話から、筋力を求める唯一の方法は站樁であり、それ以外の方法では望むべくもないことがわかる。現代人の普遍的な誤解とは異なり、站樁は単に全身の肌肉をつなげて整体にすることではない。むしろ肌肉の力を減らし、筋の力を増やすことによって六梢を運動させ、整力を得るための方法なのである。

站樁は、王薌齋先生が『意拳正軌』で述べているように、肌肉から筋への「換勁」の方法であり、古来より伝えられてきた健康と技撃のための最良の練習方法なのである。現代の武術家たちが站樁について様々な理論を述べているが、それらはみな的外れであり、本質を捉えていない。真に站樁を理解し、正しく実践できる者はごく少数なのである。

石墨『中国拳道· 神意拳: 王薌齋原伝拳法』学苑出版社より