意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

対意拳発力関係至巨的「惰性力量」和「鼓蕩」(1)(『意拳浅釈』より)

私は武術の道に関する知識は浅いが、その中に染まってすでに40年余りになる。しかし物理学における「惰性力量」という名詞によって、武技の理論を論ずるのは、恐らく薌齋先生に初めて聞いたのみである。

初めて「惰性力量」によって拳理を解述されるのを聞き、確かに耳目を新たにする思いがあったが、終には一時にはその意を明らかにできなかった。そのため、この一つの名詞は、武技の道とはあまり関連がないように総じて思われた。むしろ薌師は、これによって特異を示して、異を立てようとしているのではないかと誤解した。後に意拳を習って年月を経て、すでに師門を離れていたが、やはりこの一つの名詞と意拳がいかなる関連があるのかを体得することができなかった。しかし薌師が宗勲学長に丁寧に教えられた言葉「道理は誤ってはならない」を思い起こした。薌師の平素の言行を見れば、その言うところには必ず深い意味が含まれていたに違いない。この物理学の名詞について、その指す意を多年にわたって明らかにできず、いつまでも心に宿して解けない疑問となっていたが、しかし長らく打破することができなかった。

その後、走歩の動作の練習中に、新たな体認があった。この感じは以前には決して無かったものである。すなわち走歩時に発力動作を配合する際、ちょうど動作を停頓した一瞬の間に、歩は既に停まっているのに、なおも力量が前方に促す感じがあり、まさに弦を離れた矢のように、身を脱して出てゆくかのようであったが、それでも脚歩の安定性は全く影響を受けなかった。

後に人と推手の練習をしていた際、発力の時にも、有意と無意の間に同じような動作を試みた。そのときは相手もまた、従前の発力とはまったく異なる感じを受けたことだろう。長く練習を重ねると、推手の際にも、自身の形は破体せず、力は出先していないのに、相手は勢に応じて手を外され動きだした。実際には自分は力を用いていない。その時は喜びを覚えたものの、後になってもなお茫然とし、どうしてそのようになったのか、その理由が分からなかった。

その後、何度も実証と思索を重ね、ついに恍然と悟った。このひとつの現象こそが、薌師がしばしば言及されていた「惰性力量」そのものなのである。

「惰性力量」とは物理学の名詞で、別名「慣性力量」ともいう。その定義は「動くものは動き、静止するものは静止する」ということである。すなわち「どんな物体も、力の影響を受けない限り、永久に静止した状態にあり続ける。しかし一旦力の影響を受けると、その力の方向に従って永久に運動し続ける。その後、相反するに遭遇しない限り、その運動は永久に止まることはない」ということである。

天体科学で用いられる宇宙ロケットは、地球の引力と大気の抵抗を離れた後、ロケット自身の推進力は停止しているが、宇宙ロケットはその方向とスピードのまま、とどまることなく運動し続ける。このとき宇宙ロケットを推進する力が、まさに「惰性力量」なのである。

日常生活の中にも、「惰性力量」に関する現象は多く見られる。公共の交通機関に乗車する際に、この現象が最も顕著に表れる。運転手がブレーキを突然かけるたびに、乗客は無意識のうちに体を前方に向かってしまう。もし車両の最後部に立っている人がいれば、急ブレーキの影響で、数歩も前に進んでしまい、ときには転倒してしまう。前に進む距離や転倒の有無は、車両の進行速度やブレーキのかけ方の緩急によって変わってくる。この前方への力こそ、まさに「惰性力量」なのである。

車両が時速30キロで進行中であれば、車内のすべての物体、乗客を含めて、それぞれも時速30キロで進んでいることになる。急ブレーキをかけると、車両の速度はブレーキの抵抗によって突然時速30キロから低下するが、乗客は車体に固定されていないために、直接ブレーキの影響を受けない。そのため、すでに減速した車内で、乗客はなおも時速30キロの速さで前方に進もうとする。これが急ブレーキをかけたときに乗客の体が前方に突き出される理由である。

また、手のひらの上に平らな物体を載せ、それを急ぎ足で前に進みながら、突然足を止めてみると、手のひらは停まったが、その物体はさらに前方にすべり出してゆく。この現象は、急ブレーキをかけた際に乗客の体が前に突き出される原理と同じで、やはり「惰性力量」が働いているためである。

意拳の発力の場合も、上記の状況に酷似している。動作の際、全身がいつも軽松の状態で、均整で、緊張したり力みの部分が全くない場合、前に進撃し相手とちょうど接触した瞬間に、頭から足先まで、突然一斉に、全身で停頓するようにすれば、自分から力を用いなくても、相手の方に力量が向かっていくだろう。相手に向かうこの力量こそが、まさに「惰性力量」なのである。

以上に述べた一切は、あくまで「惰性力力量」の原理と、惰性力力量と発力との関係の一端を解説したにすぎない。意拳の発力は「惰性力力量」のみによって成り立つと言っているわけではない。意拳の発力とは、多くの個別に鍛錬された条件を完全かつ融和させた配合によって成り立つものだからである。見事に成し遂げるには、いずれを欠いてもならない。惰性力力量の制御と運用は、物体の運動により生じる重量を借りた一種の力力量にすぎず、発力の際に最も重要な配合条件のひとつにしかすぎないのである。

しかし、ひとつ特に繰り返し注意しなければならないのは、ここで言う身体の重量を運動によって発生させ、その力量を発力時に配合させるという動作は、想像するほど単純なものではない、ということである。なぜなら、それには多くの他の条件の配合と、絶妙な制御が必要だからである。少しの狂いでも、なし崩し的に発力の障害になってしまうからである。

例えば走行中に、突然止まろうとしてもなかなか止まれず、勢いよく前に進んでしまう現象があるが、これも「惰性力量」の影響を受けているためである。

しかし決して、惰性力量の運用がそのような状況で行われるものと誤解してはならない。それは大きな間違いである。そのような状況では、惰性力量を利用できるどころか、むしろ自分が重心を失ってしまう逆効果になってしまうのである。

惰性力量を活用するには、自身の体重を運動により生み出された力として利用するだけでなく、様々な条件と制御の技術を適切に組み合わさることが必要不可欠である。主要な条件として、まず適切な放松と、松と緊の相互変換を控制する技術を理解していなければならない。運用する際も、大きな速度や大きな動作は必要とされない。

ここで、意拳の最も重要な動作と、より高度な技術について付け加えれば、それらはすべて制御された放松状態の下で、松と緊の相互交代の控制動作として行われ、しかもその動作はすべて極めて微細であり、外部から注意深く見ていない限り、ほとんど判別できない。

これは一般の人々が実戦で行う、肌肉を引き締め、血管を浮かび上がらせ、全力を尽くし、動作が速く変化に富む状況と全く逆のものである。このことが、意拳が人々に理解されにくく、習得が難しい主な理由の一つなのである。

実際の実戦では、時には一瞬一秒の違いが、力の差としては僅かなものであっても、決して見過ごしてはならない。このわずかな差が、勝敗を分ける重要な鍵となるのである。まさに天秤のように、重さが等しく平衡している状態で、わずかに重さを変えれば、すぐさま上下の差が現れるのと同様である。

ただし一般の人々は実戦において、力一杯がむしゃらに力を込める過ちを犯しがちである。日頃の練習の際も、要所の極小の動きと適切な制御の重要性を看過し、ただ単に力と速さを追求するばかりであり、逆効果になりかねない。

意拳の鍛錬のそれぞれは、精神の修養を重視し、精神と身体のあらゆる部分が調和のとれた習慣を作る。惰性力量の制御と運用技術の探求は、鍛錬の一項目ではなく松と緊の制御を鍛錬する中で自然に形作られる結果なのである。ある者はすでにそれができているのに自覚がなく、後に練習の中で徐々に気づき体得していくのである。このように歩法の練習に習熟し、少しずつ心得が生まれてくれば、次第に体得できるものである。

換言すれば、歩法の運用において、惰性力量を制御し運用できれば、純熟の域に達したことになる。そうでなければ、なお練習と体得に工夫を重ねねばならない。

本節冒頭で、「惰性力量」を用いて力の運用を説明したと触れたが、これは恐らく薌齋先生に初めて見受けられるものである。先生はそれを用いて力の運用を説明するだけでなく、さらに進んで「惰性力量」を如何に利用し制御するかを説明し、発力動作に合わせて用いられるようにした。

或る人が1958年に徐致一先生の拳学書を提示したが、その中でも「慣性力量」と称して惰性力量の解説がなされていた。

さて、力の運用を「惰性力量」で解説したのは、薌齋先生の1950年の著書「習拳一得」に初めて見られ、その書の出版の8年前のことであった。しかしその書の解説は、相手自身の「惰性力量」を利用して相手の均衡を乱すという意味であり、一理あるが、薌齋先生が述べる「惰性力量」の利用とは正反対のことを述べている。その書の論点は「惰性力量が発力の累になる」というもので、これは上の世代の武侠小説にしばしば見られる言い回しであり、例えば「用手が古く、収勢が追いつかない」といった類のものである。このような言い方は陳腐なものとなっている。些かなりとも常識のある者なら、皆知っている理であろう。

それに反し、この箇所の解説は、薌齋先生がさらに進んで論じた、如何に惰性力量を利用し、制御し運用するかである。身体の重みを動態の中で力に変え、軽松の状態で強大な動力を発出できるようにするというものだ。

両書の発表時期は前後があり、その論点の観点も全く正反対で大いに異なる。表面的な現象だけで判断しているのか、それとも力学の原理に基づいて一歩進んだ展開をしているのか。熟考すれば、その深浅の差異が判別でき、その中の微妙なところも理解できるはずだ。

「惰性力量」については以上で尽くされたが、補足しておきたい一点がある。意拳の発力は、放松状態で本力が未発の時に、身体の運行で生じる惰性力量を利用して威力を増すことであり、全く自身の力を用いないわけではない。本力は、相手と接触した瞬間に同時に発出する。

ここまで書いてきて、思い出したのは薌齋先生の文章に「慢中快の惰性力」という一節があったことだ。初めてこの文を見た時は不可解な感じがした。惰性力と速さは全く別物であり、「慢中快」という表現もよく分からない。しかし体得を深めるうちに、次第にその意味が分かってきた。

先生は意拳の動作において、身体の重みを力に変えて威力を増すことを惰性力量で説明したのである。この力の生成は歩法に関係する。意拳では手打ちの際も多く動歩の中で行われるので、先生は「手で打つのではなく、歩で打つ」と述べていた。意拳では実際に拳を出す前は、腕筋と手の筋は半ば放松状態で、しかも短い拳が多い。敵に接近して始めて突然収緊して発力する。短く速いので、弾丸が銃口を出るようである。先生は出拳について「実際に力を発し、敵に触れて拳を成す(=按実発力、着敵成拳)」「近きは一寸の間」などと述べているが、これを指している。

歩行中の車上で、腕を振り石を投げる例で説明してみよう。車の速度が30キロ、投げる石の速度が10キロで同方向の場合、その石の実際の速度は40キロとなる。

意拳の出撃では、拳の速さに歩の速さと、身体の速さが加わるため、実際の速さは目で見る感じよりも速い。また、歩行中は常に惰性力量を利用し合わせているので、「慢中快の惰性力」と言われるのだろう。

先生の文章は簡潔で意味が濃く、時に強調のため、時に韻を踏むため、表現が若干無理があるものもある。だから細かく考え抜き、また先生の説く拳理と常に照らし合わせて始めてその真意が分かるのである。

湯又覚『意拳浅釈』意拳研習会より