意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

対意拳発力関係至巨的「惰性力量」和「鼓蕩」(2)(『意拳浅釈』より)

次に、発力に極めて関係の深い「鼓蕩」について述べる。

「鼓蕩」という語句は、そのままの字義では形容詞的に用いられることが多い。例えば海水の激しい動きや、気流の波動を表す言葉として使われる。しかし意拳の文章では度々「鼓蕩」という語が出てくるので、人体の実体にはそぐわない言葉のように感じられる。人体がいかに激しく動いても、鼓蕩という表現は相応しくないようにも思えるからである。

しかし意拳の修練に些かなりとも経験があれば分かるように、鼓蕩という言葉で形容されているのは、形体の変化ではなく、身体の内外における感覚のことである。この感覚は力の運用と発力に極めて重要な関係がある。

例えば、動歩試力の練習をする時、突然止まって発力する動作を試すことがある。文中で「惰性力量」の件に触れた際にも、試力の時たまに冲前力を感じることがあると述べた。後ろ向きの動作でも同様の感覚が得られることがある。もし上記の二つの逆方向の動作を続けて行えば、前後に相互に衝突する鼓蕩式の力量が引き起こされるだろう。

これは大桶に水を満たし、その桶を動かした時の水の波立ちに良く似ている。桶の内の水が桶の壁に当たる逆方向で抵抗を受けると、鼓蕩が引き起こされるのと同様である。

意拳の文字で説く「鼓蕩」とは、惰性力力量の運用を巧みに制御することで生じる変化現象、つまり惰性力の技術的な活用法と解釈できよう。

惰性力量の原理から発出される力と、肌肉の緊張から発出される力は全く異なる。後者は発力時に肌肉を緊張させなければならず、力量が大きければ大きいほど肌肉も激しく緊張する。しかし意拳の惰性力量とは、身体の重みを運用することで生じる力であり、肌肉の緊張のみから生じる力とは根本的に異なる。さらに全身の発力の一瞬手前までは、肌肉は半ば放松状態なのである。そのため控制は格段に楽になり、発出される力は惰性力量と本力の合力なので、肌肉の緊張のみから発する力よりも大きな威力を持つ。

鼓蕩とは、惰性力量の運用から生まれた全く相反する二つの力を連続的に制御・継続させることである。一般の技撃の経験では、相手がこうした発力をすることはほとんどない。

そのため、惰性力量の運用と鼓蕩の制御作用を理解できれば、意拳に勝つための極意の一端を掴んだと言えるだろう。

例えば推手の練習で、惰性力量と鼓蕩作用、争力を巧みに組み合わせて制御できれば、相手は何か強大で抵抗しがたい力に引っ張られ、支配されているような感覚を受けるだろう。そして相手の足が地面から離れて、打たれた皮球のように跳ねるかもしれない。

意拳の文章では「仮借」という語もしばしば見られるので、最後にこれについても触れておきたい。

一般の拳術文章で仮借と言えば、相手の勢や力に乗り、自身の力でそれを引き込んで方向転換し、勢や力を増幅させて相手の均衡を崩すということを指す。

しかし薌齋先生の文字における仮借はそれ以上のことを指している。初心者が站樁の練習で、意念によって肢体を錬磨する際、一切の想像上の抽象的事物はすべて仮借と呼ばれる。

本文で述べた惰性力量や鼓蕩の運用によって、自身の体重を力に変えるといったことも、仮借に当たる。

先生の文章に仮借の語がしばしば出てくるが、読み手はそのことが分からず、または誤解することが多いので、ここで一言説明させていただいた。

湯又覚『意拳浅釈』意拳研習会より