意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

交手経法(『意拳正軌』より)

人の本性は各々同じではなく、聡明な者、知恵者、毅然としている者、心が定まっている者、沈着で敏い者、狡猾で陰険である者などがいる。その性が同じではないではないため、行動も異なる。撃の技術も同様であり、形あるものは出て、形ないものは落ち、敗勢は往き、発声は来る。千変万化であり、言い尽くすことはできない。須く功力は純粋であり、胆气は縦に放ち、至る所に法があり、蔵神を動かし、期せずして期となり、至らずして至る。身が素早く動くは馬の如く、手の速く動く様は風の如く。平時の練習は三尺より外七尺より内の大敵に臨むようにする。手を交わす時は無人の境地に入るようである。頸は真っ直ぐ起こし、腰はぴんと起こし、下腹は充実させ、両腕は撑、両腿は挟むようにすれば自ずと頭から足まで相貫する。胆が怯え、心が虚となれば勝つことはできず、顔色を覗くことができないものもまた勝つことはできない。敵が不動であれば、我も沈静であり、敵が僅かに動けば、我が先に至る。いわゆる打顧の要は先に打つことなり。動かざるは書生の如く、動けば龍虎の如くである。動き出すは迅雷に似ており、迅雷は耳で防ぎようがない。故に勝者は動静の間にあり、発と未発の間の動静こそ真の動静である。手は霊であり、足は軽であり、身体旋転の形は猫のようである。身は正とし、目は精を集め、手足は同時に至り勝ちを得る。手が到り足が到らなければ人を打つ妙はなく、手が到り歩が到れば人を打つは草を抜くが如くである。上は咽喉を打ち、下は陰を打つ。左右の両肋は中心にあり、拳打は丈の外より遠くならず、一寸より近くにある。手を出すは巨砲が響くようであり、足が落ちるは樹が根を張るのに似る。目は毒、手は奸とし、歩は中門を踏んで敵の位を奪えば、神手となって防ぎ難い。拳を用いるには爪が透けてなければならず、掌を用いるには気がなければならない。上下の意は相連なり、心によって出入りさせ、眼手足はこれに随う。両足の重量は前四後六で、用いる時は互いに入れ替わる。位が定まるのは歩であり、位が定まらないのもまた歩である。前足が進めば後足は随い、前足は位が定まる。左右前後は虎が山を捜索するようであり、勢いに乗った勇者も遮ることができず、切り落とす拳は中堂の門を奪い、上下に襲いかかる勢いは虎の如くである。隼は落ち、龍は下に潜み、鶏は集まり、河は海に到るが、いずれも慌てていない。丹鳳朝陽(訳註:赤い鳳)の勢いは強く、雲は天地と日月が交わるのを遮り、武芸は長短を見るのを争う。三星を向かい合わせ、四梢を揃え、五行を発して、六合は更に結ばれる。勇者は前進し、縦横高低、進退反側を用いる。縦は放の力であり、勇は戻らない。横は裏の力である。開合は覆わない。高は身を揚げ、身が増長する意である。低は身を縮め、身はあたかも鑽捉の形である。進は身を砕き、退は気を率いる。反は後ろを守り、随わなければならない。打は遠く、気は砕かなければならない。拳は大砲に似て、龍は身を折り、発中は絶を要し、意は随い用い、その意の妙なるところは神の如くと解ける。鷂は入林し、燕は水を払い、虎が綿羊を捉えて奮い起こすようである。勝ちを取るには四梢を均く揃え、疑う心があれば必ず勝つことはできない。声は世界に届き、西を撃ち、南を指して、北を打つ。上虚下実、霊気は自ずと見つかる。左拳を出し、右の拳が至る、単手が到れば双手が来る。拳は心の置き方に従い、鼻の先に向かって発する。鼻は土の中央で、万物の発生源であり、中央を撃てば全体が爛れる。両手は結合して面に向かって出され、自然に五道関に定まって、身は弓、拳は弾のようで、弦が引かれれば鳥は落ちる。敵に会えばあたかも身が着火し、打ち進むもの遮るものなし。打とは何か、顧とは何か。顧は即ち打であり、打は即ち顧であり、手を発することである。謀を用いれば、変化は巧みで、精神を用いて動き回り、心毒は上策となり、残忍な手が勝者となる。閃とは何か、進とは何か。閃は即ち進であり、進は即ち閃であり、美観を求めず、ただ眼前の一瞬で、静かなること処女の如く、動けば雷のようである。肩の窪みは勁を吐き、気は掌心を貫き、意は指の先に達し、気は田から自ずと発し、実際の力を用い、気を吐いて声を出し、敵が来て交われば風雲雷雨が一斉に到る。