意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

王薌齋先生の著書『意拳正軌』

技撃の道を言い表すことは甚だ難しい。詞経が拳術の武勇を伝え、礼記が力比べを伝えたのが技撃の起源であり、漢代まで遡る。華佗が作った五禽之戯もまた技撃の本質である。当時は習うものが甚だ少なかったので、それ以降は聞かなくなってしまった。梁天の中頃、達磨が東にやって来て、経典だけでなく鍛錬筋骨の術も弟子に説いた。動物の霊性の特徴を取り入れ、洗髓易筋の法を用いて、意拳を作った。心意拳ともいう。熟練した者はとても多かったため、少林の名は有名になった。岳武穆王は各流派の優れた点を集め、5つの拳、散手、撩手などの法をまとめ、形意拳と名付けた。後世になると、国は治安が良くなり、日毎に文を重視し、武を軽視するようになった。また拳術に通じた物は激しく冷酷に闘うことが多く、学のある者は離れていってしまったので、拳術の奥深い理論をみることはできなくなってしまった。過ぎ去ったものを受け継ぐことは簡単ではない。後世への道は郷里の間で細々と伝えられるうちに多くは埋没してしまったが、その技術の名前はあえては述べない。これは後世の学者が深く惜しむところである。清の時代には、晋の太原郡の戴氏兄弟がこの技を熟知しており、その詳細を直隸深州の李洛能に伝えた。先生が教えた者は甚だ多かったが、李先生の絶技を身に付けたのは同郷の郭雲深先生だった。郭先生は形意を習い、まず站桩から学んだ。学ぶ者は多かったが、教えを受け継いだ者はそう多くはなかった。郭先生は彼らが学び、伝承することができないことを嘆いていた。私と郭先生は同郷であり、幼い頃から家族の付き合いがあった。先生は亡くなられるまで、私の聡明さを見て絶技を示しながら、注意することを大事にして教えてくださった。近頃の流儀は古くはなく、奇異なものを好む学者が多くなり、真法や大いなる道が平常の生活の中にあることを知らず、世の人は近くにあるからとそれを疎かにしている。道は人から遠くはないが、人が道を遠ざけているという言葉が象徴的になってきている。私はこれは望まず、広まって欲しいと思っているが、近頃はますます劣悪になってきている。実際を求めず、虚に力を注ぎ、儲けに走り、学問をせず、窃盗などを働き、武器で生計を立て、荒唐なことを述べたて、手を弄して人を惑わせ、蜃気楼のように消え、想像に近く、高山の流水のように消える。学者はそれぞれを説明できず、五里霧中に陥り、真偽を判別することが難しくなっている。一般の無知な人々はまだ聖人の道をたどり、賞賛することはできない。あぁ、他人のために尽くすことが道であり、大道は盛んになり、夜は深く思い、どうして勝利は称賛されるのか。私は天性に聡くはないが、技撃の道を通じて心を満たし、真法大道に感化され、毎日価値のある語源を記録して、綴って本とした。自分のためではなく他の人々、特に弟子であるかに関わらず同嗜するものにとって利があることを望んでいる。これを以て序とする。(中華民国十八年菊月深県王宇僧)

樁法換勁

技撃の妙用を求めるなら、まず站樁で勁を換えることを根として始めなければならない。いわゆる弱を強に転じさせ、拙を霊に変えるのである。禅を学ぶ者は、始めは戒律に従い、精進して定慧を極め、心源を証し、虚空を了悟し、極地に至って初めて、道を学ぶことができる。禅功はこのようであり、技撃もまた同じである。なぜなら、初学者の時の樁法はかなり繁複で、降龍樁、伏虎樁、子午樁、三才樁などがあるからである。ここから繁を取り去って簡にし、各樁の長所を取り、合わせて一つにし、渾元樁と名づけた。これは勁を生むのに利があり、実戦に便利であり、打顧に優れ、気血が通じる。学者が旬日鍛えれば、自ずと効果があり、筆墨ではその神妙を表すことはできない。樁法の学において、最も忌むべきは身心の力を用いることである。力を使えば気が滞り、気が滞れば意が停まり、意が停まれば神が断たれ、神が断たれれば愚となる。特に頭を挙げて腰を折り、肘や腿が曲直が過ぎるのを忌み、全体としては曲に似て曲に非ず、直に似て直に非ずが適しており、筋肉の伸展を是とする。頭は頂として、全身の毛孔は松に似て松に非ずである。このようであれば内力は外に発し、弱点が強勁に変わり、自ずと要領を得ることは難しくない。

鍛錬筋骨

力は骨より生じ、筋に連なり、筋が長ければ力は大きく、骨が重ければ筋は霊となる。筋を伸ばし骨を縮め、骨が霊であれば勁は実となる。手首と頸の筋を伸ばせば、全身の筋絡は開展する。頭、頸、歯は合い(=扣)、足根は含蓄し、六心は相印し、胸背は円くなって、気は自然に開展する。両腕は横撑で平であり、兜抱、開合、伸縮の勁を用い、両腿は提、挟、扒、縮、蹚、崩、拧、裹の勁を用いる。肩は撑、胯は墜とし、尾閭は中正にして、神は頂を貫き、夾脊の三関は丸宮を透す。骨の重きは弓の背のようで、筋が伸びるは弓弦に似て、勁を運ぶは弦が満ちるようで、手を発するは矢を放つに似る。力を用いるは絲を抽くようで、両手は綿を裂くようである。手首足首を伸ばせば勁は自ずと実になり、気を沈めて歯を合わせれば骨は自然に堅くなる。身はその形を象り、龍墩、虎坐、鷲目、猿神、猫行、馬奔、鶏脚、蛇身となり、骨はその勁を調べ、腰を伸ばし、気を沈め、胯を坐らせ、膝を上げ(=提)、撐截裏墜、粘定化随とする。もしこの要素を得れば、敵に遇う時自ずから機に応じて動き、変化は無窮である。敵が巨力偉大であっても、一指が動けば千斤を動かす。いわゆる身は平准に似て、腰は車輪に似て、気は火薬のように、拳は弾のように、霊機一動で鳥は飛べない。さらに心を小さく、胆を大きくし、面は善く心は悪く、静かなことは書生の如く、動けば龍虎の如く、総じて虚実は不定で、変化は跡がない。これを原則とすれば、自ずからその神妙な変幻を得ることができる。郭云深大師が常に言われていた「有形も有意は偽りである。技が無心に至りて始めて奇を見る」とは、まさにこれである。

用勁

拳術の妙は、勁があることに価値がある。用勁の法は、剛柔、方円に外れることはない。剛は直竪で、柔は霊活である。直竪は伸びて攻守の力があり、柔は縮んで驚弹力がある。剛勁の形は方に似る。柔勁の外は方でありながら内は円である。伸縮、抑揚、長短を互いに用い、剛柔が相助ける。左に剛があり右に柔があり、左に柔があり右に剛があり、梢節が剛で中節が柔で、また時に剛で時に柔で虚実の変化の妙がある。半剛半柔を運用する精緻さもあり、さらには柔で退いて剛で進み、剛で退いて柔で進む。周身の光線は不断で枢軸となり、横撑、開放して、光線が茫茫としているのを方と言い、提抱が含蓄して中に生気を蔵するのを円と言う。筋は力を出し、骨は棱を生む。いかなる時も手を出す時は、提頓、撐抱、兜墜、鑽裏を用い、順力逆行し、方を以て円を作る。落手の時は、含蓄と缠绵が滔滔と断たれず、円を以て方を作る。円勁は抽提ができ、方勁は転頓ができる。開合は連環のようである。まるで万缕の柔らかい糸が百折千回し、人は捉えることができない。その玲瑯開朗は、駿馬が澗を跳び、斜面を矯めて鳴き、神彩が麗しく、壮気が森々として、精神は内に固まり、大敵に臨むように、剣戟は林のようで、刀斧が山のようでも、無人の境にいるようである。身は強弓硬弩のようで、手は満たされた矢を放つ弓のようである。手を出すときは、蛇が食べ物を吸い込むようで、人を打つは地を震わせる雷のようである。勁の道は、過度に剛であってはならず、剛に過ぎれば折れやすい。過度に柔であってもならず、柔に過ぎれば進まない。竪勁で側から入り、横勁で吞吐しながら回り込むべきである。このような勁を使う方法は、心が領して神が悟ることなくしては得られない。操が純熟すれば勁は自然に円くなり、体は自然に方になる。気は自然に恬で、神は自ずと一となる。学ぶ者はこれを怠ってはならない。

勁を求める法は、慢が快より優れ、緩は急に勝り、拙力を用いないことが最も妙である。運動する時には、全体の関節を自然に任せ、少しも滞りがなく、骨は霊活で、筋はどこも伸展させ、肉は伸びやかに緩め、血は川のように流れるようにしなければならない。このようにして初めて一身の法、一貫の力があり、本力も外に溢れない。拳套を急いで舞うようにして、粗暴な力を用いて速さと美観を求めれば、全体の気孔を塞ぎ、血の流れにも大きな障害が生じる。粗暴な力を使う者を見ると、目は見開き眉をひそめ、足を踏み鳴らし声を出し、先に気を閉じてから力を使い、終われば長い息を吐き、ため息をついており、自らの元気を大きく傷つけていることを知らない。何十年もの純功を積んでいるにもかかわらず、最終的には門外漢となり、その証拠は目に見える通りである。これは拙力を用いているために起こるのではないか? 一方で、百日の功を用いて妙をあげる者もおり、これは誤った道が人を誤らせることがいかに甚だしいかを示している。学ぶ者は力を求めるこの法則について、注意深く汲むべきであり、そうすれば自ずと天籁之機を得ることができる。これは凡庸な者には得られない道である。

練気

孔子は治めるために性を養い気を練り、黄帝は道を楽しむために神を練って気とした。達磨は参禅し、道を伝えるために東に向かい、洗髓易筋の法を伝え、意拳及び龍虎の椿を創った。故に技撃の山を開いた宗派である。古来より有名な賢者や大学者、聖人や偉人は金剛仏体であり、不養生で気を練っていない者はいなかった。荘子は技は道となると語った。技は小道ではありけれども、学理はことさら尽きることを知らない。技を学ぶ者は凡そ、豊かでなく、垢抜けておらず、軽薄でなく、俗の気に当てられていない。賢人や有名な学者、優雅な音楽に合わせられる人はこの技を学ぶことが不足している。もし気を練る学を用いて効果をあげようとするなら、鼻呼吸で長く吐いて短く吸う。息は引き切らず尽きることがないようにし、気が浄化され虚の極致に至るように任せる。先天は食気の出入りする道であり、後天は賢気が昇降する道である。後天を以て先天の術を補う、これが周天の転回である。周天の学を初めて行うときは鼻孔によって清気を引き入れ、直接気海に入れ、気海から尾閭を通り、腰間を旋回し、腰から両賢の中心に至る。賢は先天の第一で、あたかも臓の根源であり、賢水が足りれば、督脉を上昇して丸宮に至り、やはり鼻間に帰るのである。舌を接すれば賢気は下に行き、下腹は充実し、徐々に丹の田に入る。これが周天の要義であり、周天の秘訣と命名する。学者はこれを軽視している。

養気

養気と練気は共に一気を源とするが、性命の動静の学であり、有形無形の術は同じではない。養気の学は命から離れず、神は性であり、気は命である。故に養気の術は須く性命から入る。性命の道については、言語で詳細を書き表すことはできない。道の本体は説明することができず、説明する者は道にはない。故に孟子は道の本体は存在しないため、これを表すことは難しく、無理があるのであるといった。道の本体は天地の源であり、万物の根である。人には生死があり、物は壊れるが、道は永存する。その大きさには外がなく、その小ささには内がなく、視れば無形であり、声を聞くことができず、心意は全てを忘れることができる。それは即ち妙なる圓である。境に対して境を忘れ、六賊の魔に対して遅れることなく、塵(訳註:俗世のけがれのこと?)にあって塵を超え、あらゆる縁から落ちることがない。誠によって内からその心を観れば、心は心になく、外形を観ても形はない。遠くから物を観れば、物は物になく、三昧を悟り、見れば虚空であり、空は無を欲し、無の無は無である。多くの人の神は静が良いが、これは乱れようとする。故に神は性から離れることができず、気は命から離れることができない。形を模して従うなら、いささかも違うところがない。

五行合一

五行は生克制化の母であり、万物発源の本である。世俗では五行は、金は水を生み、水は木を生み、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生むという。いわゆる相生である。また金は木に克ち、木は土に克ち、土は水に克ち、水は火に克ち、火は金に克つという。いわゆる相克である。この朽ち果てた論は拳理に近づき難く、拳術が何者か知らないのである。ある拳がある拳を生み、ある拳がある拳に克つという論にも似たものがあり、もし拳理を研究したとしても相手と相対したときにこれらを行う暇があるだろうか? 目で見て、心で思い、その後手を出してこれを制するというのは私には信じ難い。技撃とは手足が至ることであると知っていたとしても、脳力で図り、心意で思い、手を出して着き、技を操りつなぐ、これによって人を制することができると敢えて言うことはない。これは門外漢であって、拳を論ずるに不足している。拳術の五行は言い換えれば、金力、木力、水力、火力、土力のことである。全身の筋骨は鉄石のように硬く、その性が金に属す、これが金力である。いわゆる皮と肉は綿の如く、筋骨は鋼の意である。若い樹のように四体百骸のどこにも樹木のような曲がった直線ではないところがない、その性が木に属す、これが木力である。体が動けば、神龍が空を遊び、勇ましい蛇が水を遊ぶが如くで、水が流れるようであり、どこに行くかは定まらず、活発に従い転じる、その性が水に属す、これが水力である。手を出せば爆弾が爆発するが如く、動けば火が身を焼くが如く、猛烈にただならない、その性が火に属す、これが火力である。全身が満ちていて、土の山のように落ち着いている、意は山岳の重きのようで、どこにも鋭さを感じないところがない、その性が土に属す、これが土力である。ささいな一事一動も皆このようであり、天地を網羅し、六合を覆い、乾坤を塞ぎ、宇宙に内包される性命の学であり、また天地の陰陽である。気を養い、命を修めようとするなら、心意は不動、心は君火、動は相火、君は不動、相火は不生、気念は自平として、念神は自清でなく、神を清めて心意を定める(訳註:『内経』による)。故に一念が動けばすべて火であり、万縁は寂净であたかも生真となり、常に気は関節を鋭敏に通り、自然に谷神で満たされる。動の動は不動から出て、有は無から出て、無は神に帰り、神が帰れば万物は寂となり、物が寂となれば気は消え、気が消えれば万物は生まれない。五種の力を合わせることを五行合一という。まとめれば、不動の時は全身に力が一貫しており、動いた時は大小の関節に上下前後左右百般の二争力があり、全身の渾元力を得たようである。

六合

六合には内外の区別がある。心と意が合い、意と気が合い、気と力が合うのが内三合である。手と足が合い、肘と膝が合い、肩と胯が合うのが外三合である。また、筋と骨が合い、皮と肉が合い、肺と腎が合うのが内三合である。頭と手が合い、手と身が合い、身と足が合うのが外三合である。これらは神が合い、勁が合い、光線が合い、全身の法相が合うことをいい、形や勢が合うことをいうのではない。六合を誤る人は甚だ多く、慎重にこれを学ばなくてはならない。

歌訣

歌訣は拳術の精粋である。その意を深く理解し、その理を究め尽くせば、自ずと道は得られる。

心は通じ、意は三昧、精は堅く、気は安らか、神は生き生きとしている。これが技を学ぶ五大要素である。
渾噩が身を貫き、形あるものみな散じることなく、拳が出ること流星の如く、手が変わることは稲妻に似る。
舌を巻き歯はさらに合わせ、舌は肉の梢であり、肉は気の袋である。舌を巻けば気は降り、気海に注ぎ、腎気に引き入れられ丹田に入る。歯は骨の梢であり、合わせれば骨は堅くなる。頭は吊るすが如くであり、頭は六陽の首であり、五関百骸は代わることできない。頭を吊るせば、三関九竅(訳註:練丹術の用語)は通りやすくなり、白雲朝頂(訳註:気が上昇すること)となり、霊光が頭上にかかる。これは禅学の要素である。
両目の神光は輝き、精光は収縮して鋭く尖り、鼻息と耳は収斂し、心目は内は視る。鼻で長く吐いて短く吸い、耳目心は視るは収、聞くは反を用いる。腰が回るは滑車のようであり、足が進むはドリルのようである。これらは全て提淌(=滴る)裹扒縮、旋滾(=転がる、沸き立つ)锉(=やすりで研ぐ)兜擰、動静の力を用いる。
手足の指は抓の力で、毛孔は稲妻のようであり、指は筋の梢であり、合わせると自ずと充ちる。全身の毛髪は血の梢であり、血は気胆である。毛髪が立たなければ、血は充ちず、血が満ちなければ気は振れず、気が振れなければ力は実とならず、実とならなければ戦う力は失われる。

交手経法

人の本性は各々同じではなく、聡明な者、知恵者、毅然としている者、心が定まっている者、沈着で敏い者、狡猾で陰険である者などがいる。その性が同じではないではないため、行動も異なる。撃の技術も同様であり、形あるものは出て、形ないものは落ち、敗勢は往き、発声は来る。千変万化であり、言い尽くすことはできない。須く功力は純粋であり、胆气は縦に放ち、至る所に法があり、蔵神を動かし、期せずして期となり、至らずして至る。身が素早く動くは馬の如く、手の速く動く様は風の如く。平時の練習は三尺より外七尺より内の大敵に臨むようにする。手を交わす時は無人の境地に入るようである。頸は真っ直ぐ起こし、腰はぴんと起こし、下腹は充実させ、両腕は撑、両腿は挟むようにすれば自ずと頭から足まで相貫する。胆が怯え、心が虚となれば勝つことはできず、顔色を覗くことができないものもまた勝つことはできない。敵が不動であれば、我も沈静であり、敵が僅かに動けば、我が先に至る。いわゆる打顧の要は先に打つことなり。動かざるは書生の如く、動けば龍虎の如くである。動き出すは迅雷に似ており、迅雷は耳で防ぎようがない。故に勝者は動静の間にあり、発と未発の間の動静こそ真の動静である。手は霊であり、足は軽であり、身体旋転の形は猫のようである。身は正とし、目は精を集め、手足は同時に至り勝ちを得る。手が到り足が到らなければ人を打つ妙はなく、手が到り歩が到れば人を打つは草を抜くが如くである。上は咽喉を打ち、下は陰を打つ。左右の両肋は中心にあり、拳打は丈の外より遠くならず、一寸より近くにある。手を出すは巨砲が響くようであり、足が落ちるは樹が根を張るのに似る。目は毒、手は奸とし、歩は中門を踏んで敵の位を奪えば、神手となって防ぎ難い。拳を用いるには爪が透けてなければならず、掌を用いるには気がなければならない。上下の意は相連なり、心によって出入りさせ、眼手足はこれに随う。両足の重量は前四後六で、用いる時は互いに入れ替わる。位が定まるのは歩であり、位が定まらないのもまた歩である。前足が進めば後足は随い、前足は位が定まる。左右前後は虎が山を捜索するようであり、勢いに乗った勇者も遮ることができず、切り落とす拳は中堂の門を奪い、上下に襲いかかる勢いは虎の如くである。隼は落ち、龍は下に潜み、鶏は集まり、河は海に到るが、いずれも慌てていない。丹鳳朝陽(訳註:赤い鳳)の勢いは強く、雲は天地と日月が交わるのを遮り、武芸は長短を見るのを争う。三星を向かい合わせ、四梢を揃え、五行を発して、六合は更に結ばれる。勇者は前進し、縦横高低、進退反側を用いる。縦は放の力であり、勇は戻らない。横は裏の力である。開合は覆わない。高は身を揚げ、身が増長する意である。低は身を縮め、身はあたかも鑽捉の形である。進は身を砕き、退は気を率いる。反は後ろを守り、随わなければならない。打は遠く、気は砕かなければならない。拳は大砲に似て、龍は身を折り、発中は絶を要し、意は随い用い、その意の妙なるところは神の如くと解ける。鷂は入林し、燕は水を払い、虎が綿羊を捉えて奮い起こすようである。勝ちを取るには四梢を均く揃え、疑う心があれば必ず勝つことはできない。声は世界に届き、西を撃ち、南を指して、北を打つ。上虚下実、霊気は自ずと見つかる。左拳を出し、右の拳が至る、単手が到れば双手が来る。拳は心の置き方に従い、鼻の先に向かって発する。鼻は土の中央で、万物の発生源であり、中央を撃てば全体が爛れる。両手は結合して面に向かって出され、自然に五道関に定まって、身は弓、拳は弾のようで、弦が引かれれば鳥は落ちる。敵に会えばあたかも身が着火し、打ち進むもの遮るものなし。打とは何か、顧とは何か。顧は即ち打であり、打は即ち顧であり、手を発することである。謀を用いれば、変化は巧みで、精神を用いて動き回り、心毒は上策となり、残忍な手が勝者となる。閃とは何か、進とは何か。閃は即ち進であり、進は即ち閃であり、美観を求めず、ただ眼前の一瞬で、静かなること処女の如く、動けば雷のようである。肩の窪みは勁を吐き、気は掌心を貫き、意は指の先に達し、気は田から自ずと発し、実際の力を用い、気を吐いて声を出し、敵が来て交われば風雲雷雨が一斉に到る。

龍法

龍法に六あり、曰く滄海竜吟、雲竜五現、青竜探海、烏竜翻江、神竜遊空、神竜縮骨である。その精神を推し量るに、伸びては縮み、剛になっては柔になり、昇れば降り、隠れては現れる。動かざるは山岳の如く、動けば風雲のようで、天地のように無窮である。太倉のように充実し、浩然の気は四海のようであり、玄曜は三光のようである。一度向かい合えば、敵の長短を探し出す。静は動を待ち、動中に静があり、進むことで退き、退くことで進み、真っ直ぐに出て横に入り、斜めに進んで真っ直ぐ撃つ。柔で来たら驚撃し、剛が来たら巻きつく。出は骨は縮み、落は勁を放ち、縮は発することである。放つことはまた縮であり、爪は骨を通って随に入り、発勁の意は数尺の間にある。

虎法

虎法に六あり、曰く猛虎出林、怒虎惊啸、猛虎搜山、餓虎摇头、猛虎跳漳である。その性霊を探れば、強くて精壮であり、横に突進し(=冲)縦に衝突し(=撞)、両爪で山を排し、猛烈に進み猛烈に退く。長く扑き短く用い、食を剖くかのように、頭を振るが如く、狸猫が鼠を捉えるように、頭はつっぱり(=頂)爪で掴む。周身を鼓蕩し、手を起こせばヤスリのように、斬、抗、横、兜、順を用いる。手を落とせば鉤竿のように、劈、摟、搬、撒、撐を用いる。沈託は分擰し、伸縮には抑揚がある。頭は人を突き(=撞)、手は人を打ち、身は人を摧き、歩は人を越え、足は人を踏み、神は人を逼り、気は人を襲う。法を借りるは易く、法に乗るは難しいが、法に乗ることを最も先とする。技を競う者は思慮せず、思慮する者は一歩も動けない。一思いに進むことを教え、一思いに退くことを教えない。意は有るが形に帯びず、形に帯びれば必ず勝てない。まるで生き生きとした龍虎のように、吟じ啸き叱咤し、谷が応じ山が揺れる。龍虎の気のような壮大さがあれば、どうして勝たざる理があるだろうか? 総じて、龍虎の二法は、操る定勢はなく、勢は虎が三千里を奔るように、気は龍が万里を飛ぶように、勁は断たれても意は断たれず、意は断たれても神は連なる。口で伝え心で受け継ぐものでなければ得られず、これについて大意を述べるも詳細は話さない。

意拳正軌

意拳の正軌は古勢の老三拳と龍虎の二気である。龍虎の二気は技であり、三拳は撃である。三拳とは践裹鑽である。践は外は剛で内は柔、静力もしくは挺力を有し、虚中で発せられるのを待って用いる。鑽拳は外は柔で内は剛、鉄でくるんだ綿の如く弾力あり、実中で動けば反撃するのに用いる。裹は剛柔相済で、驚力を有し、化中で自ら動くのに用いる。敵は千差万別であり、一度驚けば敗になる。環中を得て、無窮によって応じる。