意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

葉希聖先生の著書『意味集』

三天三地

站樁:天を頂き地に立つ
走摩擦歩:天を戴き地を履く
実作:天を翻し地を履く

似是而非

笑っているようで笑っておらず、尿するようで尿しておらず、曲に似て曲に非ず、直に似て直に非ず、頂くようで頂かず、扣くようで扣かず、座っているようで座っておらず、靠るようで靠らず、跪くようで跪かない……。

打顧

断手は打顧であり、搭手は顧打であり、打顧は顧打である。互いを根として用いる。

矛盾

人として矛盾があってはならないが、意拳においては矛盾が多ければ多いほどよい。

増字歌訣

試力は「春雨のようにまとわりつくよう(=纏綿)」で、発力は「不意に決壊し(=冷決)、てきぱきと素早く(=脆快)」であるべきである。

填鴨
搭手の時は、相手が求めれば与え、求めなくても与える。

動静之間

敵が不動であれば、我も不動である。敵が動くことを「欲した」なら、我は先に発する。

撮句串焼

どこであっても少しでも意を留めれば、身体はどこもばねでないところはなくなる。
支点は力を転がし、松緊は滞らない。

七多

人には七情があり、学には七多がある。多見、多聞、多学、多問、多思、多練、多体認である。

功夫図案

十字に円を加えれば、拳術は自在に変化する。その秘を深く理解し、意念を最も重視せよ。

不得了

渾円争力が得られなければ、鼓蕩の爆発は得られず、もし争力が得られなければ、結果はやはり得られない。

意中人

平時には、意は人の中にある。練功時には、人が意の中にある。なぜなら、練習時には人は假借の意境の中に没頭すべきだからである。

意拳不是門派

意拳は拳学であり、拳派ではない。王老は言われた。「拳学は一道であり、単に一拳や一脚の拳ではない……」。また、歌訣では「切に拳学を唱え、元始を復古することを欲する」と言われた。

得其環中

節々を曲松とし、胯を重視する。胯が松となれば先導し、妙用は無窮となる。

形与意

意拳は精神假借と意念の導きを重視し、故に意の名を冠する。実際には形と意は一瞬たりとも分離できないものである。技撃の動は意の使い方であり、必ず形を通して表現されなければならない。意を語り形を語らないのは、形より意を尊んでいるだけである。故に薌齋老先生は「神意が足りるのを求め、形骸が似るのは求めず」と語られた。

根節中之根節

人の身体は三節に分かれる。

上肢---手は梢節、肘は中節、肩は根節。
下肢---脚は梢節、膝は中節、胯は根節。
全身---上肢と肩の上は梢節、肩より下で胯の上は中節、下肢は根節。

上述の観点から見ると、胯は実際には根節中の根節であり、この大きな関節は全身の関節の総合的な中枢であり、その重要性は明らかである。もし胯が松とならなければ、全身は皆機能しなくなる。

一二得一

技撃は一動ごとに、打の意があり、また顧の意もある。両者は一気呵成であり、一二を分けることはできない(一度に脅かすことしかできない)。

不要擺死架子

站樁の間架には規範があるが、少しも変えてはならないわけではない。方向、角度、距離の尺寸、円圏の大小、手の長短、体形の高低などによって、適切に調整できる。面々が円を備え、随所に鋒が出て、平衡均整で、のびのびと力を得られるならば良い。

气功乎?意功乎!

気功師の気功は外気を放出し、還元などを行うが……これらはすべて意念の活動に依存して表現される。気功だと言えるのだろうか? それとも意功と言うのだろうか?

意拳、气功?

意拳の站樁を初めて学ぶ時は、間架を正しく配置し、呼吸を自然にし、軽く緩んで(=松)立つだけでよい。さらに意念の活動(例えば球を抱くなど)を加えれば、すぐに気を得ることができる。これを気功と言えないだろうか?

意拳樁法之良能

王薌齋先生は樁法の良能について次のように述べている。「勁を生むのに利があり、実戦に役立ち、打顧に優れ、気学に通じる」。意拳の樁法の主な順序としては技撃を練習することだが、その初期段階の過程で気功の効果が得られる。しかし、王老は気功という名前を掲げず、養生の法としているだけである。意拳の技撃を練習しながら、養生の利益を得ることができるのだから、どうして楽しくないと言えるだろうか!

樁不在多

意拳の樁法では、その内涵を把握できれば一つで十分である。内涵を把握できなければ、千も万も無駄である。

意を用いれば十分である!

拳を練習する人の中には、風に吹かれる弱い柳のように(過度に緩んで)いる人がいる。これは「不用力」という言葉を誤解している。

また、「コートラック」のように(過度に硬直して)練習する人もいる。これは「用力」という言葉を誤解している。

紙一枚、カップ一つ、水筒を持ち上げるとき、どれだけの力を使うか考えたことがあるだろうか? しかし、私たちは本能的に適切な力でそれを行う。これは明らかに「意」の作用であり、「意」がそう望むなら、「力」もそれに応じて従う。私は、拳を練習するのも同じであると思う。「用力」「不用力」と考えることなく、さらには「用力」という言葉すら使わず、「用意だけで十分」である。

打人如走路

普通の人が歩くとき、上半身は自然に伸びている(意が緊であればなお良い)、胯も自然に放松している。不思議なことに、拳を練習するときは前俯、後仰、左斜、右歪、鶏胸、鶴背、曱甴(ゴキブリ)肚、螳螂(カマキリ)尻など、不自然な姿勢が現れる。「人を打つのは歩くように」という訣は、一つで三つを反映するものである。

松緊

站樁(健身樁)は軽松して立つとされるが、「松は怠けすぎず、緊は硬直しない」が最も適している。力を求める場合は、「松は即ち緊であり、緊は即ち松となり、松緊緊松は過度にしない。実は虚であり、虚は実であり、実と虚が中道を得る」。拳の発動には、「松は透徹し、緊は十分である」ことが必要である。

不要這明天

武術-舞術-無術!

結語

私のようになりたいと望むなら、皆が私でなければならない。断片的な理解を避け、ご理解をお願いする!