(十)
一、拳を学ぶ上で最も忌むべきは機械的なことである。外形から言えば、動作には大小の範囲があるだけで、必ずこうでなければならないという固定的なものはない。養生の動作の要求は少し緩くてもよく、身体を鍛えることができればよい。技撃は力の問題に関わるので、動作の要求はより厳しく、より細やかでなければならない。
二、古人は言う。天地は大自然であり、人は小自然である。そのため、人が天地の法則に合わせ、自然の規律を蕴むことを望むなら、体得から言えば、人と天地の合一は、站樁の外形が動かないのが最も妙である。
三、仏門では、心が動けば法であり、動かなければ心であると言う。心が動けば万法を生み出すことができ、心が静かであれば一法も生まれない。動と静はすべて心によるものである。そのため、意拳では、一法不立、無法不備と言う。
四、站樁、試力など多くの法門は、その要旨はすべて周身の動静が一意の支配下にあることから離れない。
五、単重と双重の真の意味は、単重は片面的ではなく、双重は絶対的ではないということである。単重と双重の妙を得るには、その根本的な要点は意力を失わないことである。これを達成できる者は、意に執着せず、象に執着しないことが必要である。
六、昔、「達磨が西から来た時、一つの文字もなく、すべて心意を用いて功夫をする」と言われた。いわゆる意とは心の声であり、心は意の中に存在する。心と意の二文字を離れては、意拳を別に論じることはできない。そのため、意拳では、時々心を存し、処々に意を留めると言う。心を存することは意を存することであり、意を留めることも心を留めることである。これは一つの理である。
七、過去は沈肩墜肘と言っていたが、意拳では肩撑肘横を強調する。その理は同じだが、追求には違いがある。沈肩墜肘はすべて一つの「松」の字にかかっている。松ができれば自然に沈むことができ、また自然に垂れることができる。もし本当に沈むことと垂れることに力を入れるなら、たとえ功夫が家に至ったとしても、同じように肩は沈むことができず、肘も垂れることができない。意拳の肩撑は、支えることができれば、肩は自然に松となることができる。肩ができ、松ができれば自然に沈むことができるが、肩撑は肘横から離れない。そのため、肩と肘にこの撑があり、この横があれば、肩の松の妙用を得ることができる。
八、世の中で意拳を練習する人で、摩擦歩の上下に大功夫がある人は、非常に少ない。これも意拳の妙用を得る人が非常に少ない理由の一つである。いわゆる来勢の機会を察知し、自分の身体の長短を測ることは、まさに歩の妙用を指している。師父はよく現代の自動車の理屈を例えに言っていた。どんなに良い車でも、何もかもが良くても、車輪がなければ、それは役に立たない。同様に、意拳を練習しても歩法をしっかり練習しなければ、身体を養うことはできるが、技撃には全く役に立たない。
九、站樁では時々自分の身体と勁比べをしなければならない。通じなければ通じるまで立ち、痛みがあれば痛みがなくなるまで立たなければならない。いわゆる通じなければ痛み、通じれば痛みはない。そのため、站樁時に身体にこのような状況があれば、必要なのは二つである。堅と持である。
十、意拳の腿法は、専門の練習以外に、最も重要な基本功は、一つは独立樁をしっかり立つこと、二つは摩擦歩をしっかり歩くことである。