意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

大成拳的自然力(『大成拳精典探秘』より)

中国の拳術は博大精微で、拳術に特有の力の獲得方法は様々であり、その力の描写の仕方も一様ではない。例えば少林拳の「寸勁」、形意拳の「整勁」、太極拳の「爆発力」や「弾勁」など、大成拳においては、立樁と試力を通して得られるのは本能から出た自然力であり、本能力とも呼ばれる。王薌齋先生が『大成拳論』に記されているように、「本拳の重んじるところは、精神にあり、意感にあり、自然力の修練にある」。

いわゆる自然力とは、訓練時には方法を重視し形式にとらわれず、人体の良能を発揮することを旨とし、触覚の活力を練り上げる。実用時には、自身の本能の触覚に基づき、自覚的か無自覚的かを問わず、内在する潜在力を発揮し、相手に強い穿透性や発放性のある一種の勁力を加える。全て自然に任せ、本能から出たもので、何の強要もない。

我々は、運動の過程で生み出される力は、全て肌肉の収縮に依存していることを知っている。そのため、多くの拳家は、全身を緊張させて生じる爆発力を、拳術の上級の力と見なし、一瞬の間に身体を緊にする程度が良ければ良いほど、発揮される力量が大きいと考えている。大成拳にもこのような力はあるが、本質的な違いがある上に、上級の力とは見なされていない。実戦時に生じる「爆発力」は、全身の緊張を招き、力の発揮を妨げるだけでなく、本能力の発揮をも妨げる。王薌齋先生は「試力も発力も、身体を松和に保たねばならない」と戒めている。

走行中の自動車が物体に衝突すると、大きな慣性力が働き、大きな衝撃力が生じる。これが自動車の本能力と言えるだろう。これは自動車が大きな質量と速度を持っているためである。速度が大きければ大きいほど、衝突時の慣性力も大きくなる。しかし、それは自動車の爆発によるものではない。もちろん自動車の爆発にも殺傷力はあるが、それは自動車の運動の本能力ではない。また、雄牛が突然走り出せば、牛の本能力が現れる。その大きさは、牛の質量と速度次第である。この時、牛は全身を緊張させて初めて人や壁を倒せるのではなく、本能力を発揮する際に、筋肉は緊張すべきところは緊張し、放松すべきところは放松する。意識的に控制するものではない。

人体の質量(体重)は限られているが、站樁と試力を通じて最大限に発揮できる。その際、自身の重力感を高め、速度を上げることが最も効果的な手段である。稽古の際は身体の放松に注意を払い、肌肉の緊張を排除すれば、自然と全身の重力感を体感できる。站樁と試力の段階を経るごとに、その重力感はより明確になる。試力の際は動作を緩慢均一にすることで、実戦時の加速度を大きくすることができる。手足の重力感と加速度をうまく組み合わせれば、本能の慣性力、即ち本能の惰性力を生み出せる。これこそが大成拳の自然力であり、速度が大きければ大きいほど、重力感が際立ち、その勁力も大きくなる。

速度、発力時の速度と言えば、人々は無意識のうちに緊張と結びつけがちだ。発力直前に身体を意識的に緩めた上で、出手する瞬間に全身を突然一緊させ、いわゆる「爆発力」を生み出せばよいと考える向きもある。しかし、そうしてしまえば意識の支配下に置かれ、精神的負担が増す。対手と交渉する際、いつ身体を放松させ、いつ緊張させるか気を配ることはできない。気を配ったとしても、それは本能ではない。大成拳の本能力は触覚によって支配され、突然加速度を上げる必要はあるが、全身を緊張させる必要はない。放松した状態を保つべきである。もし身体の一部が緊張しているとしても、それは意識的なものではない。本能力を発揮する際、緊張すべき部分は緊張し、放松すべき部分は放松する。松緊はその状況に任せる。

近年、大成拳の中興の祖と呼ばれる、我が国の著名な武術実戦家王選傑先生が、海内外の多くの名家と較技を行い、圧倒的な強さで勝利を収めてきた。王先生は相手を投げ飛ばす際も、力を発するときも収める際も、全て本能に従っている。全身は軽松の状態で、特別な緊張は見られない。まさに炉火純青、上上乗と言えよう。

大成拳の勁力の属性を正しく認識することは重要な問題である。この勁力の自然な本能性を認識できなければ、たとえ稽古に熱心に打ち込んでも、効果は上がらない。王選傑先生は『王薌齋与大成拳』の中で、「数十年功夫が篤実な者でも、悟性が低ければその功夫は平凡なものとなる。一方で悟性が優れていれば、たとえ2、3年の功夫でも、その造詣は上乗に達することができる」と指摘している。この悟性には拳学理論の総合的理解が含まれ、その中でも勁力の自然性の理解は重要な側面である。自然力がどういうものか分からず、つまり拙力や本力との違いが分からなければ、成果は得られない。自身の稽古だけでなく、多くの疑問を抱き、名師に質問し、他者の実作時の発力の様子を観察し、ある程度の経験者と推手や実作の稽古をするのも良い。他者に自分の身体で試させるのも良い。様々な経験を積み重ね、常に脳裏に感覚的な知識を残すことが大切だ。具体的な体験や観察の機会がなければ、站樁の時間を長くしても、逆に身体が硬直してしまう。そのため站樁は時間だけでなく、質を重視すべきである。適切な精神と意感の下で、できる限り放松することで、先天の本能を取り戻し、自然力の培養を高められる。そうすれば站樁時間を長くすればするほど良いが、そうでなければ死樁になってしまい、逆効果となる。

大成拳の自然力は、勁力の増長の科学性にも現れている。基礎の立樁では、経絡を通すことは求められず、舒適得力が重視される。全身を立体的に発達させ、肌肉を育て、「内気」を養う。次に「内気」を「内勁」に化し、自ずと気血の動きを感じ、全身の毛髪が伸び上がるようになる。そうなれば、「身体の筋骨は練らずとも自ずと練られ、神経は養わずとも自と養われ、全身が通暢となり気質も次第に発達する」。

大成拳の自然力は、実戦時の霊活多変で、無限の応感性を備えている。本能的なものであるが故に、手足の触覚の要求に応じて、様々な形、方向の勁力を自在に発揮できる。進退攻守、劈打、鑽打、順歩打、横歩打など、相手のいかなる角度でも、接触の有無に関わらず、本能的に相応しい打撃を与えられる。平常の稽古で形にとらわれていると、実戦で使えなくなってしまう。つまり本能を身につけていないということだ。初心者は相手と距離があれば勁力を出せるが、接触すると障害があり勁力が出せなくなる。これでは自然力の動的な属性を備えていない。自然力は大成拳の内在する功力の表れであり、様々な勁力の総称でもある。

その特性としては、金木水火土の五行の力がある。具体的な応用と発現形態としては、開合力、二争力、渾元力、纏綿力、弾力、梃子力、整体力、磁力などがある。これらはすべて自然力の範疇に属するが、どの勁力を応用する際も、その「自然」の特性を現さねばならない。自身は松緩柔順で「得勁」した感覚があり、相手は威圧的な気勢と、穿透力のある発放された勁力の強烈な威力を感じることになる。

李照山『大成拳精典探秘』奥林匹克出版社より