意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

月刊秘伝2015年3月号

韓氏意拳という拳学

  • 登場する先生
    • 韓競辰
  • 内容
    • 韓競辰先生インタビュー

印象に残った言葉

ご存知のように王先生は形意拳意拳に発展させました。それには必然性があったと言えます。なぜなら王先生は形意拳を学ぶ中、形意拳に限らずおよそ中国の伝統武術が失ってしまった問題に気づいたからです。それは形はあっても意がなくなったということです。そこで意に核心を見出し、姑椿によって力を勁に換えることを提唱しました(韓競辰)

その頃の王先生の教伝はどういうものだったかと言えば、姑椿だけを教えていました。趙道新や父は王先生に出会う頃には実戦経験があり、実力もありました。王先生は武術的に優れていた学生には換勁だけを教え、ときどき試力も教えました。「どう用いるか」を教える必要はなかったのです(韓競辰)

では、韓氏意拳の探求する純粋自然・自然本能とは何か。站樁を例に挙げましょう。一般的に行われている站樁は自然を求めると言いながら、概念を満足させているに過ぎません。緩んだり、緊張させたりすれば「力が強大になる」とか「具体的に実戦に近い力が養われる」と言われています。弛緩も緊張も自然と生まれるものです。だが、やろうとしてやってしまえば、それは不自然な動作です。どれほど自然を強調しようとも、それは思考を満足させることでしかありません。そうはいっても特定の力を得る目的のために姑椿をしているのですから、行えばなにがしかの結果は生まれます。それは嘘ではありませんし、現実的な真実ではあります。けれども自然の本質とは違います(韓競辰)

ところが自然界の動物はそうではありません。人を警戒しています。自然界ではいつ何が起きるかわからないからです。そうした危機感と瞬間的に動ける活力のある「状態」がないと生きていけません。人間もかつては「状態」がありました。いつでも動き出せる感じ。全身のまとまる感じ。そうした状態がないと生きていけなかったからです(韓競辰)

站樁が解決するのは自然状態の把握であり、自然本能に入るための唯一の門だ(韓競辰)

技術を学ぶなら姑椿はいらない。站樁で自分自身の生命を理解するのです。空想ではなく”状態“から探求する。これが原理原則です(韓競辰)

試力とは、蒔いた種の芽が出るようなもの。どこに向かうかは決まっていない。地中から芽が出て石にぶつかれば、それを避けて伸びる。そのとき初めて方向が発生する。そして花が開くとき、そこに正しいも間違いもない(韓競辰)

自然界の争いは生命の争いです。それが拳の本質です。技能の比べ合いではありません。危機感や切迫感、圧迫感によって運動の強度が高まります。強いものに出会えばそれに応じて強くなるように。思考やイメージが強度を強めるのではありません(韓競辰)

力を用いると自然の状態から外れます。父は健身功を『運動の中の睡眠』と呼びました。つまり自然のメカニズムが働くという意味です。それが全身全霊です。摂生とは生命を体験するのだから、やるほどに活力が湧いてきます。韓氏意拳の養生と気功やジムでの運動の違いはそこです。ただ疲れるのであれば生命の浪費でしかありません(韓競辰)