意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

関于摸勁(『大成拳原始訓練与方法』より)

薌齋老先生は「試力は力を得るのための方法である。力は試すことによって知り、知ることによって始めてその用を得る」と言われた。私は恩師の選傑先生から拳法と站樁を学び、二年近く練習した後、ようやく摸勁の練習を始めた。その時、身体の連通性が非常に良く、大きな関節は既に疼き、小さな関節は疼き始めたところで、站樁の姿勢で体中に阻力を感じ、時には微動すると体の各部位が何かにもたれかかっている(=靠)ように感じた。その時、師は私にゆっくりと単手に勁を加えて探るように言った。両手の配合に加え、肩、肘、腰、胯、膝、脚の各部位が同時に松緊を配合することを体認する。この時点で初めて、站樁での功夫がどの程度に達しているか、そして勁をどの程度探ることができるかを理解した。薌齋老先生はこれを「拳法の中で最も重要かつ難しい部分の一つ」と述べている。

摸勁は、本身の勁を感じることを忘れてはならない。本身の勁は站樁によって得られ、身体の各部位の連携、協調によるものである。動作において、手、脚、肩、肘、手首、胯、膝は連携しなければならず、手と身上の勁の変換と配合が一致している必要がある。

站樁で功夫が出なければ、どれだけ勁を感じようとも、単に両腕を振っているだけであり、行家には一目でそれが分かる。外形にいくらよどみがなくても、内部の整体が変化しなければ役に立たない。

摸勁の練習も頭脳を多用する必要がある。ある時、恩師の選傑先生と琉璃廠で散歩していた時、師は栄宝斎の絵がとても気に入ったが、価格が高すぎた。師は私に何度もその絵を体感するように言い、分からなくても見るように、そして感じたことを話すように言った。その絵は縦に四尺の大きな紙に描かれていて、老いた漁師が釣りをしている様子を描いていた。身体は描かれていなかったが、釣竿と釣り糸が太く描かれており、魚が釣れたことが一目で分かる。身上の勁の感覚が非常に上手く描かれており、この絵を理解したことが、摸勁の体感に非常に役立った。中国の拳術は整体性、協調性を強調しており、功夫がどの程度に達しているかは、わずかな動作で鮮明に表れる。これは偽装することはできない。

摸勁の時、時には身体が手を引き、時には手が身体を起こす。外形の転は意味がなく、身上のが転を学ぶべきである。

ここで恩師の選傑先生が私に鈎锉試力の方法を教えてくれた方法を紹介する。

まずは前後の脚は丁八步で立ち、腿の要求は站樁の時と同じである。功夫のない人はよく腿の姿勢を整えてから腕を持ち上げる。両手を肩より少し高い位置まで持ち上げ、手には前後の区別がある。站樁に功夫があると、手は一拍で適当に合わさって勁を得ることができ、自身の中線を守る。肘は少し曲げ、指は広げ、手首や指先にわずかな力を加える。身体で腕を引き、胸の前で拳ほどの位置までゆっくり引き、同時に手のひらを下に向けて身体が両腕を前に推し出す。腕が伸直した後すぐに、両手を内側に回転させて(=翻転)、手のひらが向かい合わせ、同時に身体で手をゆっくり引き戻す。これを繰り返し練習する。

試力の過程で、すべての動作は舒適で自然であり、力量は均しく適切であるべきである。運動の軌跡の中で、身体の各部の変化と転換を感じることが大切で、特にゆっくりとした動作に注意を払うべきである。薌齋老先生の拳論には、「技撃の本能をいつでも含んでいる必要があり、速さを求めれば、経過するすべての道を通過してしまい、どのようにして体認の作用を得るのか?」とある。多くの人が試力の中で重い物を引くような意念を長年持っているが、その結果、力量が体に縛られてしまい、必要な時に放つことができない。だから、站樁の優れた功夫がなければ、どのように試力をしても断続的であり、局部の運動である。一度動けば動かないところがなく、一部を動かしても全身が動く。

「動は微であればあるほど、神は全になり、慢は快より優れ、緩は急に勝る。行こうとして止まり、止まろうとして動く。動いては止まらざるを得ず、止まっては動かざるを得ない」ということを体認することが重要である。微動の中で、全身の各部が動いているかどうか、よく配合しているか、体の各関節、筋骨、肌肉が同時に収縮できるかを感じることができる。最初は一つか二つの勁を感じ、慣れたらもう一つの勁を加える。長い間練習すると、体の外部環境に応じて全身の各部でさまざまな勁力が同時に現れるようになる。最初から整体を求めても、最終的には体に何も残らず、発力は断続的な局部の力になる。大成拳は接触する前は局部であり、接触すると整体になる。

ある程度の認識が得られた後、空気の阻力をさらに体感する。意念で全身の毛髪を立たせ、身体と空気の摩擦阻力を感じる。無から有へ、小から大へ、身体の四肢が空気にしっかりと包まれ、固定されているように感じる。用力がなければ根本の動は動けず、用力があれば空気の阻力を動かすことができる。このような用力の法が発力の始まりであり、動くことが発力である。この時、搭手すれば、自分の身体の各部が発力する時に一度動けば動かないところはないという境地を感じる。この実感は言葉では表現できないほど素晴らしく、楽しみは無窮であり、まさに拳論で述べられているように「全身の点にばねでないところがなく、爆炸は断続しない」である。この時点で技撃の実践の基礎が備わったと言える。

(一)掌重身軽摸勁

大成拳には独特の小技の練功がいくつかあり、趣味で練習する人は全ての時間を站樁に費やせるが、専門的にはこれらの小技も体験しておく必要がある。(真に体験し、人に触れない時は局部的、触れたら整体になる。)

大成拳のすべての站樁や摸勁などの功法は、「梢節が重、根節が軽」である原則を貫く必要がある。

掌重身軽摸勁の練習では、左右の手がそれぞれ大きな鉄鎚であると想像し、拳は鎚の頭、小腕は鎚柄である。両手は拳を握るが、決して固く握ってはいけない。功夫が深まるにつれて、梢節に勁が加わるが、身体は依然として松である。ゆっくり手を操作する過程で、相手が拳を出拳しようとして未だ出していない時に、鉄鎚で相手の頭部や胸部を強く打ち、相手を倒し戦闘能力を失わせる。あるいは整体の根で撃ち出すことを体感する。動きの中で自身の間架を保ち、両拳は眉より高く、口より低くしない。このように左右の手で交互に打ち出す。更に進んで、活歩で摸勁を行い、脚下は摩擦歩で、前後左右上下、単出、双進で連続で打つ(形骸が似るを求めず、神意が足るを求めること)。また、意感で挂上勁を練習し、相手が接触してきたり、搭手したり、引き裂こうとしてきた時に発力することもできる。このような勁はかなりの殺傷力を持ち、自身の本能として身につける必要がある。この勁を掌握すれば、拳で人を打つことしかできなくても、非常に大きな力を発揮できる。

(二)小天星転摸勁

肘関節以下から手首までを小天星と呼び、練習する際は身体を放松させ、両手は拳を握るが、固く握ってはいけない。出拳して相手の体に当たった瞬間、小腕(小天星)を一転させ、力量を相手の体内に打ち込むことを想像する。最初は外見上は転動を行い、内部の関節を体感できたら、外見は動かずに相手の体に触れた瞬間に内部で自然に拧動発力を行う。

運動中に相手が拳や掌に体を貼り付けたり、両腕で小腕を抑え込もうとしてきたなら、拳や掌が相手の体に触れた後に、身体がわずかに含蓄し、小天星が転動して発力し、相手を宙に飛ばせるようにを感じる。(多くの人は自分で練習するときは放松して勁を得ているが、相手と搭手すると勁が出なくなることがよくある。そのため、普段から相手が貼りつこうとしたときの重みを感じる意念持つことが大切である)。

(三)腕関節挺摸勁

敵に触れた時の腕関節の軟弱さは打撃力を大きく減少させる可能性がある。この勁を掌握すれば、拳や掌が相手に接触する刹那に力量が一気に伝わり、相手の五臓六腑に強い衝撃を与えることができる。

練習時は、両手の掌は屈に似て屈に非ず、直に似て直に非ずである。前方に自身の高さと同じくらいのメディシンボールがあると想像し、掌指で球体に抵抗しながら前推と回拉を繰り返す。腕関節は柔であってはならず、腕関節と指関節の挺力を細かく感じる。わずかな拙力も使わず、神意を充分に足るようにする。さらに足元は摩擦歩を組み合わせ、片手、両手ともにゆっくり均一に動かし、腕関節の挺動を感じる。

上記の基礎があれば、両手で拳を握り、体の前方に分厚い牛皮紙があると想像する。拳で牛皮紙を打つと、紙に触れた瞬間に腕関節を挺し、「道(ダォ)」という音で牛皮紙を貫通する。全身は放松し、精神を含蓄させ、左右の手を交互に動かし、繰り返し練習する。長い間練習することで、拳が敵に触れた時に腕部が自然に挺勁を持つ習慣を身につける。

王紅宇『大成拳原始訓練与方法』より