意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

緬懐恩師姚宗勲先生:崔瑞彬採訪録(3)

筆者:今、多くの人が次のように話しています。姚先生は当時王老に三年師事しただけで功を成しましたが、なぜ先生の代になると同様に到ることができないのでしょうか?

崔先生:この問題について、姚先生は私にこう言いました。「瑞彬、君は今の私とあの頃の私を比べてはいけない。私が若い頃は、一日中食べては拳の練習ばかりで、何も考えず、金のことなど全く考えなかった。君は今、仕事をしなければならない。仕事をしなければ、誰も食べ物をくれない。君はもうこんなに大きくなったのだから、いつまでも両親に頼ることはできない。だから、仕事もしなければならないし、拳の練習もしなければならない。だからこそ、これを習得するには時間がかかるのだ。私のあの頃は三年必要だったが、君は今六年かかり、もしかしたらもっと長くかかるかもしれない。このような状況下では、君の意志と根性が非常に重要だ。しかしもし磨練に耐えられないなら、将来もやはり成すことはないだろう」。

筆者:先ほど、姚先生が先生に基本功を教えた状況について話されましたが、推手や実戦では、姚先生はどのように先生を教えたのでしょうか?

崔先生:その頃は先生と練習する以外に、私の家や工場にも仲間がいて、毎日実戦をしていました。ある時、姚先生のところで練習していると、先生が私たちを見ながら、私に言いました。「君はなんであんなに派手なことをするんだ? 基本の間架に従ってやりなさい……」。その後、先生は私の基本功が備わったと認めてから、私を「活」にさせてくれました。先生は私にこう言いました。「最初は大胆に、果断にやらなければならない。打てそうなら打っていい。打てなかったらそれは後の話だ。この基礎ができてから、細部に注意するのだ」。

筆者:意拳の実戦の細部にはどのようなものがあるのでしょうか?

崔先生:いわゆる細部とは、手法の暗示、脚法の暗示、歩法の暗示、精神の暗示です。最高レベルは精神の暗示です。もちろん、神光籠罩のようなものもあります。これらがあって初めて、より繊細に、より豊かに、より充実したものになるのです。姚先生は私に実戦について、場所が広い時はどうするか、狭い時はどう探るか、相手が急いでいる時はどうするか、相手が急いでいない時はどう迫るかを教えてくれました。1981年以前は、姚先生は私とよく推手や実戦の練習をしていました。1981年以降は、しばらく間を置いて推手をし、実戦をして、そしてその中身について教えてくれました。ある時期、姚先生は私に、他人と実戦をする時は、三分間を一回とし、一回で三拳しか出してはいけないと規定しました。この三拳はいつ打ってもいいので、三分間の中で、私が一拳出す度に、穏、准、狠でなければなりませんでした。先生はこのような制限の方法を用いて、実戦における歩法、身法などを向上させ、機会を捉え、火加減を計り、打撃の質を把握する能力を高めてくれたのです。

筆者:姚先生が先生と推手や実戦をする時は、本当に推したり、本当にやったりするのですか?

崔先生:そうです。先生が私と推手をする時、私も本気で推します。機会があると感じたら、すぐに発力します。年寄りをどうにかしてやろうとも思うのです(笑)。若かったからね。私が一度発力すると、姚先生はぐっと一緊し、「わっ」と一瞬で、まるで数百斤のものに押しつぶされたような感覚になります。そう感じたかと思うと、突然そのものが風に吹き飛ばされたかのように、「さっ」と消えてしまいます。だから「力は海のように溢れ、身は山が飛ぶに似る」と言うのです。その虚実、動静、緊松は、計り知れないものを感じさせます。先生が私と実戦をする時も、私は本当に命懸けで打ちますが、どうしても当たらず、蹴れません。多くの場合、私の拳が先生に当たったような感覚があっても、まるで先生に触れただけのようで、力を入れようがありません。先生の動きを見ても速くはありません。しかし、先生の大きな手は常に目の前にあり、私がどう動こうと、左に避けようが右に避けようが、飛び上がろうが飛び下がろうが、先生はまるで予め知っているかのように、その大きな手のひらは、いつも目の前であなたを待っていて、打てと言えばすぐに打てるのです。よくこんな感覚がします。私が前に進む時、先生は後ろに下がり、手を後ろに引くと、私の頭は自然と先生の手に引っ張られるように感じ、先生の手が止まると、私の頭は先生の手に当たってしまう。まるで吸い寄せられるようです。

筆者:敖石鵬先生は生前、私にこんなことを言っていました。気功ブームの頃、敖先生が姚先生に気功の発功のことを話し、意拳にこういうものがあるのかと聞いたそうです。姚先生はこの外気のことを話したがらず、敖先生が何度も聞くので、一度咳をし、片手を上げ、食卓越しに敖先生の顔の位置に向けて、小さな発力動作をしました。敖先生はその時、大きな紙の塊で額を打たれたような感覚があり、びっくりしたそうです。先生は姚先生と長年一緒にいて、このようなことに触れたことはありますか?

崔先生:姚先生はずっとこのことを話したがりませんでした。先生の書いた本にもこのことを否定しています。先生は拳を練習する人が誤った道に陥ることを望まなかったのです。実は、このようなことは存在します。先生が私にそれを話したのは1978年のことです。当時、私は拳の練習のためによく病欠を使い、多くのものを犠牲にしていました。

筆者:先生はその後、拳の練習のために退職されたのですか?

崔先生:それは1981年以降のことです。当時、田舎ではそのような環境で、この拳がどれほどの前途があるかは誰にも分かりませんでした。だから、姚先生が私に発功のことを話したのは、将来私に生きる道が一つ増えるようにとの考えからでした。先生は「君は今は若いから戦えるが、60歳になってもまだ戦うのか」と言いました。だから先生がこのことを話してくれたのは、医療や治病に非常に役立つからです。このことについては体験があります。当時、私たちの工場の病院に張慶春という女性同志がいて、胃下垂でした。私は「小張、私が治してあげよう」と言いました。彼女にそこに立ってもらい、私が発功しました。最初はまだその中の変化を掴めていませんでした。その頻度はずっと強く、3~5分ほどで、彼女は耐えられなくなり、汗をかき始め、立っていられなくなり、気を失いそうになりました。私は彼女をソファに座らせ、もう一度ゆっくりとやると、彼女はすぐに楽になったと感じました。今、体の具合が悪い友人がいると、私はこの方法で治療することもあり、効果は非常に良いです。

筆者:姚先生が人を教える時は非常に厳しかったとおっしゃいましたが、その当時、姚先生が先生に叱ったことはありますか?

崔先生:ありました。先農壇で訓練していた時、私と光子(姚承光)が実戦練習をしていると、姚先生が部屋の中から窓際に立って見ていました。私たち二人が打ち合っていると、姚先生が突然窓を開けて、私を叱りました。「瑞彬!何をしているんだ?」と。私は聞いて驚き、なぜ先生が私を叱るのか分かりませんでした。その時、姚先生が部屋から出てきて、また光子を叱りました。光子が言い訳を始めると、姚先生は怒って言いました。「瑞彬がお前を殴らないなら、私がお前を殴る!」。そして、姚先生は私に向かって怒って言いました。「瑞彬よ、瑞彬よ、お前が今彼を打たないなら、将来他人に彼を殴られるのを見ていたいのか?」。このことから、姚先生が拳を教える時、自分の弟子に厳しく要求するだけでなく、実の息子に対しても決して甘やかさないことが分かります。実際、先生がこのようにしたのも、完全に光子の将来のためを思ってのことでした。

姚先生に師事して拳を練習した年月の中で、姚先生に叱られた回数は多くありませんでしたが、先生が自分の息子を叱る度に、私はそれが私への叱責でもあると思いました。先生が自分の弟子を叱るのは、結局のところ息子を叱るようにすぐには口にしないからです。しかし、私は心の中で、光子の拳の練習中に現れた欠点は、私も必ず注意しなければならず、先生が指摘した同じ問題を二度と繰り返してはいけないと分かっていました。

1982年、私たちは先農壇で合宿訓練をしていました。ある日、訓練が終わった後、姚先生が私を呼び止めて言いました。「瑞彬、しばらくしたら私と一緒に行こう。私の家に来なさい」。私はまだ用事があると言いました。姚先生は「明日にしなさい!」と言いました。私は聞いて、先生が私に用事があるのだと分かり、姚先生と一緒に家に帰りました。その時、姚先生は馬甸に住んでいました。家で食事をしながら、姚先生は私がこの拳を練習している何人かの友人と付き合っていることについて話し始めました。先生は、私が義理堅い人間だということを知っていて、他人に何か聞かれたら、全て言わないわけにはいかないのです。しかし先生は、そういう人たちはまともに練習せず、いつも色々聞きたがるので、何でも言ってはいけないと考えていました。姚先生は私に「言うことを聞きなさい!」と言いました。

その後、私たちは先農壇の訓練の話をし始めましたが、先生は突然声を張り上げて言いました。「これからの先農壇の訓練はお前が管理しろ!」。私は「先生がそこにいるのに」と言いました。姚先生は「誰か聞かない者がいたら、私が言ったと言え!」と言いました。それ以来、私が先農壇で訓練を指導するようになりました。その後、姚先生が河南に行く時、出発前に私に言い付けました。「瑞彬よ、私が行った後は、ここをお前が見張っていなさい。もし交流に来る人がいたら、お前が対応しなさい」と。案の定、姚先生が行った後、あるボクシングを練習している人が来て、私は彼と切磋琢磨をしました。その日は(薄)家騣が審判を務めてくれました。切磋琢磨の時、相手のレベルが高かったので、私は手を重くしました。結果、意拳研究組の侯志華コーチが私を叱って、手を重くし過ぎてはいけないと批判しました。彼は私に、相手は今部屋で横になっていると告げました。その頃は血気盛んで、よく人と拳を競っていました。

筆者:ずっと以前から、意拳の貫通力は恐ろしいと聞いています。先生が外部の人と拳を競う時、姚先生から何か規定はありましたか?

崔先生:最初はありませんでした。しかし後に、あることがあって、姚先生が私を叱り、厳しい規定を設けました。そのきっかけは次のようなことでした。1982年4月25日の午後、石景山体育場で散打選抜試合が行われました。当時、私の階級に対戦相手がいなかったので、私は人を連れて行き、その場で意拳の実戦を披露しました。試合が終わって、人々が散り始めた時、私たちも帰ろうとしていました。その時、石景山の楊(勇徳)コーチが私のところに来て、「崔先生、拳を競いたい人がいます。彼と試合できませんか?」と言いました。その時、何人かの審判も来て、私に「崔先生、もし彼と試合するなら遠慮しないでください。この人はあちこちで場を乱し、先ほどの試合でもこの人と競いたい、あの人と競いたいと叫んでいて、本当に嫌われ者なんです」と言いました。私はそれを聞いて同意しました。その人は、私と試合すると聞いて、防具を着けることを提案しました。私は当時の散打で使用していたフィンガーグローブを一組持参しました。私は事前に相手に、好きなように使ってよいが、私は今日は手だけを使い、腿は使わないと告げました。

試合が始まると、相手は左右に揺れ始めました。私は前手で下向きと上向きの暗示を見せ、相手のしゃがんだ体が起き上がろうとした時、私は突然前に出て、削掌を相手の肩と首に当てました。彼はどさっと座り込み、顔は真っ青で、大きく息を荒げ、急いで防具を外しました。私は彼に言いました。「こんなところで試合をして、この人ともあの人とも競いたいなんて、お前はどこの人だ?」。私は彼を少し叱りましたが、彼は何も言いませんでした。彼と一緒に来た友人が彼を支えて外に出ようとしましたが、試合場を出る前に、彼は急に地面に倒れ込みました。彼らは彼を控え室に運び、4時間以上横たわらせました。翌日、先農壇で訓練した時、私はこのことを人に話しました。それを姚先生が知ったのです。先生は私を指さして、非常に厳しく言いました。「瑞彬、私が言っておく。これからは私の同意なしに、人と拳を競ってはならない! もし人を殺したらどうする? 彼一人ならまだしも、彼が十人いたとしても、我々一人と交換はしない!」。先生は、私がこれからも軽率に行動して、何かあれば、先生が私を育てたこれまでの苦労が水の泡になることを心配していたのです。

筆者:以前、先生は姚先生の手先だったと言う人がいましたね。

崔先生:そういう話がありました。私はその頃、他の師兄弟よりも人と拳を競う機会が多かったのです。それは1981年のことでした。上海の『解放日報』に記事が掲載され、上海のある王姓の拳師が、1937年に煙台で「武林の大物王薌齋」を打ち負かしたと自称し、大きな影響を与えました。姚先生は私に工場に休暇を取らせ、私を連れて上海に行き、『解放日報』編集部を訪ね、この記事を掲載した編集者の程康宣に会いました。姚先生は「私の知る限り、王老師は煙台に行ったことは全くない。王が王老師を打ち負かしたと言うなら、私は直接彼と確認したい。田舎で10年間ほとんど練習していないが、私も彼と切磋琢磨できる。もし彼の弟子が交流したいなら、私も弟子を連れてきているので、彼らで試してみてもいい」と言いました。程康宣は、王が記者に言ったことは掲載された記事よりもはるかに大げさで、彼が全て削除したと言いました。姚先生の意見を聞いて、程は了解し、すぐに「王先生、王先生……」と呼びましたが、振り返ると人がいなくなっていました。彼は「あなた方が入ってきた時、王先生はここにいたのですが……」と言いました。上海武術協会主席の顧留馨と上海体育学院武術学部主任の蔡龍雲先生は、姚先生の同意を得て、二人で宴席を設け、王を招いて姚先生とこの件について説明するよう求めましたが、王はその日来ませんでした。私たちは王が普段弟子と練習している公園を聞き、彼らを探しに行きましたが、そこでも彼らに会うことはできませんでした。後に、影響を挽回するため、『解放日報』は張長信師伯による王老師が当時上海で意拳を教えて轟動を巻き起こした様子を紹介する記事を掲載し、この件は収束しました。1985年に姚先生が亡くなった後、私は天津に趙道新大爺を見舞いに行きました。ドアを入るなり、趙大爺は「小崔よ、ご苦労さま、ご苦労さま」と言いました。それを聞いて、私は姚先生が生前、私たちが上海に王某某を探しに行ったことを趙大爺に話していたことが分かりました。私は「私の先生が大爺に話したのですか?」と聞くと、趙大爺は「もう全部知っているよ、知っている」と言いました。私が座ると、趙大爺は言いました。「そもそもね、君たちが上海に行く前に、君の先生が天津に来て、私とこの件について相談したんだ。私は本来、君の先生が彼を探しに行くことに同意しなかった。王老師はもう故人になられたのだから、私たち後輩はこのようなことで彼ら(王某某を指す)と争う必要はない。しかし話を戻すと」ここまで言うと、趙大爺は一声咳をして、言いました。「君の先生がこの大旗を担いでいるというのに、誰がそうさせたんだ!」。

筆者:今、インターネットや雑誌で、また王薌齋をどのように打ち負かしたかを自称する人がいます。

崔先生:知っています。そのようなことを言っている人は皆もういません。この問題について、私は趙大爺の当時の観点に賛成です。どうせ嘘だろうと、聞き流しておけばいいのです。実は、私は王老師が負けたことがないとは言いません。どんな拳術家でも調子の悪い時があり、誰も生まれながらにして完成しているわけではありません。王老師自身も弟子たちに、若い頃は駄目だった時のことを話していました。あれほど打たれ、あれほど投げ飛ばされたと。しかし、ある目的のためにでっち上げてはいけません。そういう話を作る人は、作り話がうまくつじつまが合わないのです。

筆者:客観的に言えば、後に拳術家になったような人でも、人生の中で体調が良くない日や、油断して注意を怠ったために失敗する時があるでしょう。このようなことは多いものです。多くの人は、師父や師祖が失敗したという事実を認めたがりません。感情が入っているからです。師父や師祖が失敗したら、自分の流派はもうダメだと思うのです。しかし、そんな必要はありません。なぜなら、何らかの理由で偶然失敗しても、それらの拳術家の功夫が駄目だとか、その流派の拳が良くないということにはならないからです。

崔先生:ボクシングの王者アリも百戦百勝ではありませんが、それでも世界が認める偉大なボクシングの王者です。ある拳術家の功夫の高低や拳術における造詣を評価するには、その人が現在残しているものが何かを知るだけで十分です。それでその人がどのような人物であるかが分かるのです。私は、生きている人は、本当に拳を練習しているのであれば、精力を先人が残したものを研究することに注ぎ、次の世代を育てることに注ぐべきだと思います。彼らを実戦に耐えられる人間にしなければなりません。これこそが正道です。

筆者:武術は机上の空論ではありません。

崔先生:そうです。王老師は、技撃は末技だと言っていましたが、まずこの末技を備えていなければなりません。拳術家になるには、この過程が必要なのです。ある人は私が姚先生の手先だと言っていましたが、後に王玉祥大爺が他の人に、「瑞彬は単に戦うことができるだけでなく、拳が分かっている。拳理について私に非常に明確に話してくれた」と言いました。1994年、私は窦(世明)師叔と一緒に深圳に拳を教えに行きました。アルゼンチンの佟国藻、カナダの湯汝昆師叔も皆人を連れてきました。拳を教えるのは最初から最後までビデオ撮影されました。このビデオはまた霍震寰先生に渡され、先生は私のためにもう一本複製してくれました。このビデオは、後に韓嗣煌師叔を通じて(白)学政に渡され、学政はまた私に渡してくれました。ビデオには私の師範と講話が収められており、韓師叔たちは皆見ました。韓師叔は私を自宅に呼んで、私に言いました。「瑞彬よ、以前は接する機会が少なくて、よく分からなかったが、これからはよく来るように。実戦の面でもっと彼らを指導してあげなさい」。

筆者:先ほど、先生がこの拳のために退職したことについて話されましたが、一体どういうことだったのですか?

崔先生:1981年のことでした。私と姚先生は上海から戻ったばかりでした。北京市は散打の普及を始めようとしていました。呉彬は私をそちらに異動させて散打をやらせようとしていました。つまり、後の北京市技撃研究会です。しかし、私たちの工場は絶対に認めませんでした。呉彬は私に助言してくれて、「君が2週間だけ借り出されるなら、私は君を異動させる方法がある」と言いました。しかし、私たちの工場は断固として認めず、私には方法がありませんでした。その後、私が本当に行けないことが分かると、呉彬はようやく梅恵志をそちらに異動させました。

筆者:これは意拳を発展させる機会だったはずですね。

崔先生:そうです。私はその時、歯を食いしばって辞職すればよかったのです。このことで私はずっともやもやしていて、それ以来、仕事にも積極的ではなくなりました。すぐに私はいろいろな口実で、あまり出勤しなくなり、ほとんど毎日姚先生と土城で拳の練習をするようになりました。その頃は普段、私と光子だけでした。時々普雷や小南なども来ていました。栄子はその頃もう結婚していて、姚先生と一緒に住んでいませんでした。敖(石鵬)大爺は私たちがこんなに練習しているのを見て、私たちを心配し、豚足や豚肉、豚の腰の部分を買ってきて、師母がそれを煮込み、中に昆布を入れて、私と光子の栄養を補給してくれました。豚の腰花だったら、師母が私と光子のために一人一皿炒めてくれ、必ず食べなければなりませんでした。豚の腰花を食べるのは面白いことで、時々姚先生が上機嫌で、師母が私たちのために炒め終わるのを待って、自分で厨房に入って私のために一皿炒めてくれ、「瑞彬、お前が師母の炒めたのを食べ終わったら、私が炒めたのを味わってみろ」と言いました。

筆者:先ほど、先農壇体育場で合宿訓練をしていた時、科学研究以外に、姚先生は意拳の訓練方法を利用して、多くのスポーツ競技の指導をされたとおっしゃいましたが、その時の状況を具体的に教えていただけますか?

崔先生:1981年末から1982年初めにかけて、北京市体育科学研究所に意拳研究グループが設立され、意拳の訓練方法を他のスポーツ競技に応用するための多くのスポーツ実験が行われました。修瑞娟の「微小循環系は人体の第二の心臓である」という科学研究テーマについて、私たちは彼女のために多くの実験を行い、その論点が正しいことを証明しました。また、私たちは国家体育委員会に行き、私、光子、高長有が、トレッドミルの上で陸上選手と一緒に1500メートルを走ったことを覚えています。走る前に血圧や脈拍などの測定を行い、走り終わった後、誰が最も速く走る前の状態に戻れるかを見ました。私たちは選手ほど速く走れませんでしたが、全力を尽くしました。私が最も速く回復し、4分ちょっとで平静な状態に戻りました。站樁と試力で回復しました。選手は彼らの方法で12分かかってようやく平静な状態に戻りました。事実は、回復に要する時間が長ければ長いほど、大量の運動トレーニングに影響を与えることを証明しました。姚先生は、私たちの国のアジア円盤投げ3連覇の李偉男の訓練を助けました。当時、彼が世界大会に出場するには、61メートルの大台を突破しなければなりませんでした。その日、李偉男の試合とトレーニングのビデオが意拳研究グループに持ち込まれ、私たちに見せてもらいました。姚先生は私に「瑞彬、彼にどんな欠点があるか見たか?」と聞きました。私は李偉男が円盤を投げ出す瞬間に注目しました。私は「彼の頭が曲がっています」と言いました。姚先生は微笑みました。投擲競技は全て同じで、投げ出す瞬間に、上下の力がなければ、遠心力が弱まります。これはちょうど車軸のようなもので、軸が曲がっていたら車輪はどうやって回転するのでしょうか? 姚先生が李偉男の円盤投げのトレーニングを助けるのは、もちろん意拳の訓練方法を用いて彼のトレーニングを補助するためです。

筆者:具体的にはどのような意拳の方法を用いたのですか?

崔先生:彼自身の問題を解決するために站樁を教えるだけでなく、円盤の運動形式に基づいて、彼が円盤を投げ出す瞬間の直前の動作を、手に何も持たずに行わせました。手に円盤がなければ、試力をするのと同じです。右手で円盤を持つなら、左手は右手と呼応しなければなりません。左手を外に伸ばす意識、意境の遠近が非常に重要なのです。つまり、意拳の訓練は、単に站樁や試力をするだけではありません。站樁だけを取り上げても、それはすでに精神、生理、心理の三者が一体となった訓練なのです。この三者の関係も円のようなもので、相互に影響し合っています。北京市体育科学研究所でのこの時期、姚先生は非常にこの機会を通じて、意拳の訓練方法を現代スポーツ競技に結びつけ、選手たちの成績向上を助けたいと考えていました。1981年の旧正月3日、その頃姚先生は小関児に住んでいました。昼食を食べた後、私は昼寝をしました。目が覚めた時、北京市体育委員会と国家体育委員会の二人の責任者が、姚先生と話をしていました。私は姚先生がこう言うのを聞きました。「私にボクシングの訓練をさせてもらえるなら問題ありません。私が3年間訓練したら、何個の金メダルが欲しいですか? 私が5年間訓練したら、何個の金メダルが欲しいですか? 数を言ってください。私は他の条件はありません。ただ一つ、私が訓練するなら私の言うことを聞いてもらわなければなりません。他に指導員を派遣しないでください」。

筆者:姚先生の「教練員中心制」は、当時は確かに通用しなかったでしょう。

崔先生:だから、この件は後に立ち消えになりました。私が今、人を育て、訓練した経験から言えば、この指導員がいなくてはなりません。なぜなら、人の思想工作が最も難しいからです。しかし、指導員は立場をわきまえなければなりません。越権してはいけません。

筆者:今、姚先生を見ると、私は先生がこの面において、その意識の新しさ、視野の広さ、思想の先進性は、中国伝統武術の先駆者と言えると思います。

崔先生:姚先生が射撃チームに講義をしたことを、私はよく覚えています。射撃の三点一線は、それが前後が主要であることを決定づけているからです。人間の上下が主要なのと同じです。銃を上げて照準を合わせる時、銃は必ず上下左右に揺れます。姚先生は選手たちに、銃口と的の中心を連結させ、勁を引き上げると、この線が真っ直ぐに引っ張られれば引っ張られるほど、狙いが正確になり、この勁が強ければ強いほど、揺れが小さくなると言いました。これを「精神てこの拡大」と呼びます。事実、それらの選手は後に皆優れた成績を収めました。

姚先生はまた、国家サッカーチーム、水泳チーム、ウエイトリフティングチームにも講義をしました。その頃、訓練以外に、科学研究所はよく私たちに「意拳をどのように他のスポーツ競技のトレーニングに結びつけるか」についての文章を書かせました。国家体育委員会科学研究所の水泳コーチの于仙貴先生は、姚先生の講義を聞いて、意拳に強い興味を持ちました。彼も研究をしていたので、姚先生に師事し、意拳のものを水泳のトレーニングに応用しました。今でも彼は姚先生の指導を忘れたことはありません。後に彼は何度も私に、時間があれば行って、一緒にこのことを研究し続けようと言いました。彼はアメリカに交流に行く時も、意拳のことを話さずにはいられません。これは貴重なことです。その頃、日曜日に小花園で拳を練習していた時、ある時姚先生がサッカーチームに講義を終えた後、私を小花園から栄子の家に呼びました。その頃は、練習が終わると皆栄子のところに行っていました。食事をしながら、姚先生は私に言いました。「これ(サッカーチームなどへの講義のこと)は今後、私はあまり行けない。君たちは覚悟しておきなさい。君たちが行くべき時は行きなさい」。張立徳は以前、私たちの国のボクシング界の北拳王でした。彼は姚先生を非常に尊敬していました。1980年、1981年の頃、日曜日に時間があれば、展覧館に姚先生を訪ねて、私たちと一緒に練習していました。彼が姚先生に会う度に、90度の深々とお辞儀をするのを見ました。張先生は本物の実戦家で、大物で、時代の発展に遅れまいとして絶えず革新する拳術家でした。誰の本領が大きいか、誰が本当の功夫を持っているかを知っていました。彼は意拳の栽錘を自分のボクシングに取り入れました。

筆者:科学研究所ではどのように実験をしたのですか?

崔先生:科学研究所で実験をする時、私たちの体には多くの配線が差し込まれ、機器と繋がっていました。私たちはみな撑抱樁をし、姚先生も立ちました。私たちの站樁は機器上で起伏する曲線として表示されましたが、姚先生のはこれくらい(約2インチ)の幅の帯状で、何も表示されませんでした。医者は非常に理解できず、機器を見たり、姚先生を見たり、機器を見たり、姚先生を見たりしていました……。姚先生はあのような帯状でしたが、頭から汗をかいていて、体内で高速運動をしていることが分かりました。先農壛で合宿訓練をしていた時、陸上競技のトレーニングをしている賀コーチが、姚先生が上半身裸で歩きながら練習しているのを見ました。発力していない時、姚先生の体は完全に松弛していましたが、発力の動作をすると、背中にすぐに筋肉の縄目が現れました。これに賀コーチは非常に驚きました。私を上海に連れて行った時、私たちは一緒に風呂に入りましたが、姚先生の下腹部は本当に風船のようで、非常に丸いのを見ました。ここには三つのレベルの問題が関わっています。一つは小腹松円、一つは小腹常円、一つは小腹実円です。