意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

習拳六要(『拳学新編』より)

第一節 要知拳益

薌齋先生曰く「拳を学ばない者は性命を求めない愚か者である」。拳功は人身に極めて重要であり、性命を養うことができる。すべての人々はこの理を知り、この拳を学ぶべきである。我々が人々に練習することを勧める理由は、全てこの一言でを述べている。人々が習拳の楽しさ、習拳の利益を知り、功夫の練習に力を注げば、辞めようとしても辞められないだろう。誤った道に入って、吃力と努気のよって身体を傷つけることは誤った学習である。それは拳にあらず、習うことはできないだろう。

拳功が妙境に至り、秘訣を得るには時間を要する。他者の目からは熟練しておらず、見た目も良くないと感じられることもある。故に習拳は己のために行い、他者のためではないことを知るべきである。これは防身、養身、貼骨の事である。更に、平時の一心を拳に留め、気血を養い、いつどこで何をしていても拳でないものはなく、全てが操練である。限定された時間での功夫より、限定されない時間での純粋で正確な功夫の方が大切である。故に固定された時間や、特定の場所でしか練習できないという考えは必ずしも正しくない。

第二節 要明拳理

拳には拳の理、拳の法、拳の意があり、その法、理、意を得て拳ができると言える。故に拳法を持ちながら、拳理を持たぬ者は誤りであり、拳理を持ちながら拳意を持たぬ者もまた誤りである。法とは規矩であり、套路や招法のような固定の方法ではない。拳の動はその法が一つではなく、その中に原理が存在する。動静は変化し、神機には方がなく、自然に出て、神妙より達する。これらは一意の支配により、理を得て法を尽くすことで、その用を成す。故に拳を学ぶ際、理の字が最も重要である。理の字は規矩から得られ、規矩の中でその理の字を深く理解することができれば、成果が得られる。深い洞察は自らにあり、学びは自成である。拳を学ぶ者は理を掴んだ後、気力について言及することができる。気と力があっても、理に合わなければ、有用な気力ではない。その理を知りながら、気や力に応用できないのも真理ではない。理と気が合い、気と力が謀り、動静けさが理に合致すると、気力が用をなして、気力の神妙さが自ずと現れる。けれども、その用の神妙さは依然として意に還る。故に、拳を学ぶ初めに、その法、理、意を深く認識して、従うべきである。

第三節 要重樁法粗跡
世の人々は拳を技として捉え、一度習う価値もないと考えることが多く、まして拳の根本の論についてはどうだろうか? 拳は我々の動の基であり、その理は簡単で明快であり、その形跡は粗くはっきりしているが、その妙用は微細なところにある。故に、拳理を論じるとき、深く言及する者は微細なところに根ざし、浅く言及する者は粗い形跡を本としている。形跡がなければ、微細な理は存在せず、微細な理がなければ、その形跡は間違っている。この形跡とは、極めて簡単で易しい動作方法である。この形跡を得ることで、変化は無窮となる。しかし、これは現代の拳套や招法のことではない。拳の形跡とは何か? それは樁法であるが、その簡単さゆえに見過ごして良いのだろうか? 拳の功用が神に至った者で、この站樁から生まれなかったものはない。拳を学ぶ際、まずは本当の功夫の門から取り掛かる必要があり、拳の取っ掛かりは站樁である。久しく站つことこそが、功夫の門である。これを省いては、真に取り掛かることはできない。故に、学ぶ者はこの教えに従い、必ずこの方法で学に、ここに焦点を絞り、意志もここに向ける。日々、深い内省を持って自得しする。学びの道はこれに過ぎない。微なるかな! 微なるかな!

第四節 要作体認功夫

拳を習う際には「心伝意領」の四字を知る必要がある。これは力を得る分かれ目である。この四字は「体認」の二字の中で求められる。体認は実行の功夫であり、意の支配により運用され、自身の知能と体能の作用を発揮する。脳が受け取るものを身体で実行し、身体を以って体験し、その知らないものを求めるのである。心伝口授は真学や真知ではない。自己が実行することで、実学や実識を得る。故に、拳を学ぶ際は体認の功夫を重視し、空想から実用的な実功へと変える。また、精神気力の変化は、体認なしでは自知、自発、自成が不十分である。

体認の功夫には、内省、外観、実験の三つの要点があり、一つも欠けてはならない。内省は自分の意象がどうであるかを直接観察することである。外観は自己を内省しつつ、他者を外観し、その表現を通して内容を確認し、内省の助けとする。実験は内省と外観から得たものを自分自身に行い、実際の効果を得ることである。

拳を学ぶ際には、師から得るものと、己から得るものがある。師から得るものは規矩であり、己から得るものはその規矩に従い、体認を通して身体の妙用を得るのである。拳を学ぶ際、身体で得ることができなければ、その規矩は自分にとって無益である。

体認に関して、元々は力、気、神の三歩の功夫がある。力、気、神はすべて体認の功夫であり、分言すれば、拳功の深浅の境界であり、合言すれば、心と気が一致して万力が足りている。力、気、神は本来分離することのできない性質を持ち、三者は実際には一気により統一されている。気が調整されれば、神経の訓練、血気の調整、筋骨の鍛練など、すべてが体認の実功を得る。故に三歩の功夫と言われる。樁法が示す要点はこの気を養い、人生の基を培うためのものである。

第五節 要去三病

拳を習うには三つの病がある。一つは努気である。二つ目は吃力(即ち拙力を用いること)である。三つ目は胸を突き出し(=挺)、腹を引き上げる(=提)ことである。これら三つの病に染まると、動静が理に合わず、拳功において力や気を得ることが難しく、神はその用を失う。注意せよ! 注意せよ! 拳を習う際の吃力は、一つの大病である。現代の拳を授ける者は、快や用力によって初学者を指導することが多いが、これは誤りである。快や用力によって教えることは、彼らの手足の用力を望むものである。四肢が力を用いれば、心身の真の勁力は必ず滞り、久しく続けば害は甚大となる。現代の拳を学ぶ者は、この害を明かにし、これを避けるべきである。そうすれば、近道を選ぶことができ、誤った道に入ることを避けられるである。

王薌齋先生は言われた。「今、拳を学ぶ者の多くは拳套に焦り、暴力を使って迅速や美観を求めている。全身の気孔はこれにより閉じられ、気血の流通に実際に大きな害が生じる。暴力を使うすべての拳家は、目を凝らし眉をしかめ、足を踏み響かせている」。これは先に気を閉じて力を使い、練習が終わると長く息を吸い込み短く息を吐き出し、息を切らし、元気に傷をつけている。故に数十年の功夫を積んでも、結局門外漢となるものが多い。これは、拙力を用いていることに原因であるではないか?

第六節 要做実功

拳を習う際は高きを求めて、速さを求めることを避けるべきである。恐れるべきことは、到達しないことである。ある年私は発力について質問した。薌齋先生は答えられた。「お前は既に環中の味わいを得ているので、自信を持つべきである。発力の要点に関しては、恐らくまだ理解していない。発力の種類は多く、応用した経験がなければ、容易には理解できない。熱心に功を用い、届く時が来れば詳しく教えるだろう。今すぐ教えても、理解できないだろうし、理解できても行動に移せない。高く求めるあまり、低くなってしまう」。先生はまた言われた。「功夫は長く続けるべきである。朝晩、練習を重ね、常に進め。新たな成果を得ることが、真の進歩であると言える」。諺曰く、百折不回の真心がなければ、万変無窮の妙用は得られない。薌齋先生は言われた。「功を用いれば全身の気血が川のように流れる(身体の外には物がある)。神を養い、性を集め(=斂)、身体に滞りがないのは、初歩の功夫である。全身から嘶くような音が聞こえ、歩くこと、座ること、一度触れることのすべてが丈外に転落(=跌落)するのは、中乗の功夫である。身の外から気が生まれ、光芒が四射し、その光を人の目で見ると、その人は知覚を失い、徐々に神化の境地へと入っていく」。