意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

対手功夫(『拳学新編』より)

対打練習は拳功の一部である。練習の際、虚套と真芸が同じでないことを識別すべきである。諺は「殴り合いの時は拳法を忘れる」と語っている。この言葉は虚套と花法の病を説明しており、美観は実用できず、実用は美しくないことを証明する。拳法の運用は、意に随って敵に応じ、勝利を収めねばならない。敵に発力する際、早すぎず遅すぎずないことを求め、時機を合わせる。勢は相乗して変化は無窮で、微細で計り知れない。

花法の起源を探究してみると、実用的な練習から生まれ、対打の中で演じられる技になったのではないか。対打は対手功夫とも呼ばれ、元々は実戦を想定した練習である。しかし、相手を傷つけないようにという戒心から、実戦の精神と気力は失われ、単に見栄えの良い花法になってしまった。現代の対打套数を見れば、それは明らかである。これを見ると華やかな動きでまるで演劇のように見える対打になっており、拳術の病になっている。花法ばかりが勝って正しい方法が忘れられている。このため、花法ばかりに目が行き、対打功夫の教えが迷走し、今では拳論は虚套ばかりになり、芸を身につけることが難しくなった。

対打の功夫を練習する際、応用を備えるための要点は比較の二字にある。比較とは真実の功夫を比較することである。習う際は、実際に敵と戦うかのように行うのが最も良い。これにより、片方が強く片方が弱いという状態を避け、虚架を支えるだけにならず、花法を演じて他人の前で美しいと思わせる現象を生じることを避ける。そうでなければ、実際の敵との戦いにおける実力が何も得られず、逆に様々な害を増やすこととなり、実際には何の利益もなくなってしまう。

薌齋先生はかつて言われた。「拳を練る際は、意中は身の前後左右に敵がおり、打撃を交えるかのようである」。また、「坐行進退のすべてで空気(敵を想定する)との地位を争うことを求め、久しくそれを練習すれば、真の敵に対しても動きが阻止されることはないだろう」。また、「余暇の時、座ること、寝ること、遊ぶこと、これらまた練習である。練習を特定の時間や場所に限定するなど、真の練習とは言えるものか?」。

薌齋先生は拳を論じる際、「中」という字を非常に重視された。先生はかつて言われた「中を守り、中を用い、中線を保ち、中神を守り、中気を失わず、中力を失わず、中神を失わない(守中、用中、保中線、守中神、不失中気、不失中力、不失中神)」。また、「正中の一点において、敵と我が組み合う際、お互いに注意すべきである」。この力は自身に対し、正中の一点を守ることで敵の力の侵入を防ぐ。敵に対しては正中の一点に向かって、敵を打ち破る。初めて打撃の技を学ぶ際、正中の一点を用いて中の奥妙を説明または体認するのが最良である。正中の一点の妙用を得ることができれば、それから敵に対して手を出す。眼を凝らして相手の様子を伺ってはならず、一動で即座に心志の神気を奪うような勢いがある。そうすれば失敗する理由はない。曰く「招はなく架もなく、一下(=一度発するだけ)である」。これは理の表明で、一下とは万一という意味である。

人の鼻は中央にあり、その両側の長さは僅か七、八寸のみである。交手時に敵の力を撥ね返す場合、この七、八寸を超えれば敵の力は私の体に届かなくなる。これが動きの果である。その動きとは、俗語で云う「妙は一寸の間に在る」である。この言葉は、操拳の際は、両手が高く舞う必要がないことを説明している。先哲の言には、「遠くを求めて美観を欲しがる必要はなく、眼前の寸間の変化に在る」とあり、「姿勢の良し悪しは論じず、ただ進退虚実の大意を見る」ともいう。これの意味するところは、動作が繁簡であるかに拘らず、意に任せ、力を得ることを目的とし、見た目が良いだけでは実用性がないということである。拳を習う時、打圏(=円?)を学べれば十分と言う考えは、極めて精緻である。習拳で打圏を行う際は、大圏を打つよりも小圏を打つほうが良く、小圏を打つよりも形に現されない小さな圏を打つほうが良い。形に現れない小圏を打つよりも、全身が一斉に動くほうが良い。神を全うし、気を全うし、力を全うする。これは拳を学ぶ際の中心を求め中心を用いる道である。

推手は、中線の功夫を探って学ぶものであり、また人と対敵する功夫を試すものである。招架の虚を避け、実際に推し究めるべきである。それぞれの空隙を求め、利用できるところに遭遇した際、即座に進撃し、機会を逸することなく、実際の功をなす。勝敗を喜びや恥とすることなく、どうして勝つのか、どうして負けるのかを考えるべきである。努力して久しく芸を試せば、胆が大きくなり、敵を恐れる心がなくなる。もし招架が虚であり、いたずらに単に来たり去ったりする形式であるならば、自身に利するところがない。何のために学ぶのか? 曰く「相手の功夫が等しくない者を打つことはできない。」とあり、この言葉は人が怯える心を持つこと、あるいは自らを欺き、人を欺く病を防ぐもので、利益を得ることができないことを示している。これを明らかにすれば、手の転圏、足の進退、腰の動転が何に基づいてどのように行われているのかを理解でき、その効果を発揮することができるようになる。身体、手、歩の運用方法を完全に習得できれば、他を求める必要はどこにあるのか?

王薌齋先生はかつて言われた「挽転遊身はまるで空中を泳ぐ(=行空遊水)ようなものである」と。これは「活」の字の功夫を説明している。動静を一体として、勢によって発を生み、八字が霊動し、力が均等に交錯して乗じ合う。左へ向かって右から離れず、右へ向かって左から起こる。左に適していないことはなく、右にないものはない。上下四隅も皆然りで、周到に注意し、一方を気にして他方を失う心配がない。これは争力のための運用である。争力はその環中を得て、無限の実質に応じる。

動に直はないが、直として人に出る。運力は曲がその勁を求めて促す形から生まれ、直から拳の曲を取る意がある。上記はこれを説明している。曲と直が互いによりあって、その変化は形を表さず、力は内側に含まれ、形曲力直である。説明はこの理で、よく体認すれば、争力を得ることは難しくない。

前にも述べたように、対打の功夫を練習する際は実際の打撃に注意する。交手の際、互いに進退し、相互に攻撃する。人の頭部や両脇、前胸、下腹、心窩などは一度拳で打たれれば、重い場合は営衛が截断され、瞬時に命を奪われることもあり、軽い場合は内部に傷を負うこともある。攻撃の要点は敵との決戦の動作であり、練習時にはこのように人を傷つけないように注意しなければならない、これは非常に重要である。