意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

樁法後論(『拳学新編』より)

拳を習い站樁する時、時間が長くなればなるほど、その妙が増す。站樁する際の身体の現象は、功夫の深さによって異なる。初めて站樁を学ぶ者は、数分しか持たず、汗は流れ落ちる。さらに数分後、腹部の蠕動を感じ、全身に及ぶことすらある。しかし、長く練習した者は、自らの身体が嘶き響いて、気血の動蕩が、源泉が煮えたつようになる。初めて站樁する際、気血はまだ流れておらず、両足は苦しく辛い感があり、疲れたならば少し休んで再び立つのが良い。無理に続けると吃力となってしまう。拳功は日々積み重なっていき、間なく行うことを要とする(站樁の時間は徐々に増やすことが大切である)。站樁が終わると、気は伸びやかになり神は清らかになり、周体は心地よく緩み(=松快)、その妙は言葉では表現できない。李恕谷曰く:「邪気を洗い流し、血脉を動蕩させ、精神を流通させ、中和の法を養い、その偏った気質を救う」。站樁の功用はこれに尽きる。

初めて站樁をする際、気血の流れが円滑でなく、妨げるものがあると震動の現象が起こる。この種の震動は、誤りでも病状でもないことを理解すべきである。長時間の練習を経て、なおこの現象が続く場合、気血の流れが平静でなければ、良好な効果を得られることは恐らくない。震動が発生した場合、神経(精神)の変化でそれを分解できる。この分解を経て、まだ震動する場合、姿勢の変化や、神経と姿勢の同時変化も可能である。何より平静であることが最も重要である。

拳を練習する際の動静、殊操、喧寂の異なる趣の現象は最も避けがたいものである。これは站樁の功夫が到っておらず、心神が混乱しているためである。普段の練功では、心を落ち着かせ、浮き立たせないようにしなければならない。気が厳かであれば、胆は壮となり、心が静かであれば、神は清らかとなる。これを守れば、自然に動が合わないことはない。もし、拳を練習する際にこの方法を取らず、別の方法を探求するならば、心力を無駄にすることとなり、統一の妙を尋ねることは難しいであろう。

初めて站樁を学ぶ時、必ず全身がぐったりとして、まるで力がないかのように感じる。しかし、気血が徐々に通じると、真力(すなわち筋骨気血が心意の支配を受け、自然に力が発達するもの)が生まれ、動静は分けられず、気力が全身を貫通し、その力の強大さは信じられないものとなる。功が到れば自ずと知り、学ぶ者は自らを求めるべきである。

薌齋先生は言われた。「拳を習う際の用功は、常に神気を集めて離れさせず、站樁の時のように、自分の神は外に散らばらず、意は外を想わず、精は妄動せず、気は軽く浮かず、神は乱れず、站樁の形がなくても、その実効を受けるならば、それは不可思議の妙である」。

ある者は言う。「站樁の益を深く考えると、学び手が感じないのは、その心意が手に集中し、腰や全身に集中していないからである」。この言葉は、じっくりと味わい深く理解すべきものである。また、「拳を習う時、心が動き身体が動かないのは無駄であり、身体が動き心が動かないのもまた無駄である。身心が一致して力を加えるなら、站樁の外に第二の法門はない」。心動は心意の動用であり、身動は筋骨や関節の動用であり、気血が合って生まれる全身の動用である。故に、拳を習うには站樁から功夫を積むべきであり、そうでなければ有用な精神を無用な場所に置くこととなる。

站樁の功夫は、我々の生命力を内部で動かすものであり、ただ自然に任せることで、生理的な損害の恐れはまったくない。故に、真の拳の達人は、その人が必ず気力が充実し、精神が足り、肌は滑らかで柔らかく、筋骨は強健である。皮肉が厚くて鉄のように硬い者ではない。

站樁の方法を練習することは、習拳の基本の学であり、一勢から千百勢が生まれ、その千百勢は一勢に帰する基である。実際に勤勉に学び(その理を知り、その事を学び)、実践することを要とする。これは拳学だけではないのではないか?