意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

樁法前論(『拳学新編』より)

第一節 樁法為操練全身之功夫

我々の一身は、身、手、頭、足、五官百骸と分けられるが、内外ともに本来は一体で整っている。習拳、操練では、人の全身は一体であり、内外表裏、身手頭足、五官百骸を分けて議論できず、分けて操練することもできない。拳理の是非はここにあり、習拳が道に入るかどうかもここにある。

意拳の樁法は、意志を統一し、動作を統一し、力、気、神を統一する基礎功夫である。また、全身を統一して発達させ、力、気、神を増強する法である。

拳は全身の動作であり、五官百骸、十指四肢から毛髪まで、それぞれに軽重緩急の用があり、一つでも欠ければ完全な人ではなく、一つでも動かなければ万全の動ではない。全身が一致して命を受けるということは、意の所使、心の所系、気の所運、神明の感、自然の反応である。故に、練習する時は自ずと、習身、習心、習手、習足であり、全身が同時に一致して練習し、分けることはできず、偏ってはならない。その本能を尽くし、一命により統べる。もし命を受けない各部が自ら動作すれば、それは自らを解体することであり、拳の能力は日に日に失われてしまう。

第二節 応知自身之位置

拳を学ぶ者は、まず自身の位置を知るべきである。一度立てば、天を戴き地を履き、上下、左右、前後、中における自身の位置は天地四表にあり、空気の中に身を置いている。これは人々が知っていることで、特に言及する必要はない。拳を学ぶ者は、まず自身の位置を得ることを求めなくてはならない。この法は自身の外に四面八方を見たのち、自身に向かって見ることによって中心を得る。その基は円であり、中を得て、中を用い、その妙用は無窮である。

第三節 須明動静曲直

拳を学ぶ者は人の能生が能動にあることを知らなければならない。その動は静から生じ、静直動曲、一動一静、一曲一直(形曲力直)であり、拳理はこれに尽きる。故に拳を学ぶ者は静によって気を整え、動によってその用を果たす。このようにして気を用いて、血を活発にし、力を強め、全身を運動させる。その動静は互因互生であり、拳を学ぶ者はこの動静も学ぶのである。動静の学び初めはを慎重に取り組むべきである。その始めは、直から曲へ、静から動である。形曲力直であり、動は依然として静の時である。静中に動があり、動中には静がある。その法則は站樁によって求めうる。

第四節 習拳基礎功夫為樁法

拳を学ぶ際の站樁では、意を用いて全身の動静を体察する。功夫が到れば一度立つと、妙は尽きず達することなく、無法不備の滋味がある。拳功の妙用を尽くしたいなら、まず站樁の法に力を注ぐべきである。凡百の運動は皆この上に基づいている。この議論は我を欺くものではなく、故に古人は実践を通じて、この滋味を探求する唯一の法門を尋ねた。学ぶ者はこの上に努力を注ぐべきである。拳は站樁を基とし、行動によって用いる。基がしっかりしていなければ、行動には根拠がない。故に習拳は站樁なしに行うことはできず、反すれば即ち自身を誤らせることになる。一身の功夫は根本から始めるべきであり、まさに真実である。