意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

龚東先生の著書『習拳筆録』(12)

(十二)

一、功夫を練習するのは、習得できないことを恐れるのではなく、進歩が遅いことを恐れるのでもない。心配なのは間違った方法で学び、間違った方法で練習することである。もしさらに猛烈に練習すれば、事態はさらに悪化する。何百回も同じ間違いを繰り返せば、ますます間違いが重なるだけである。だから功夫を練習する際は、必ず明師の指導を受けなければならない。

二、三体定歩の試力を練習する際は、特に前脚の膝下の部位に注意を払い、できる限り動かさないようにしなければならない。少しでも動けば上下が弱まり、上下が弱まれば勁は合わなくなる。

三、王老は「一つでも法を想えば、それは間違いである」と言われた。意拳の練習でもっとも重要なのは、常に自分の力が応感すれば即発力できるかを検査することだからである。素朴に言えば、思索せず、もしそうでなければ、その練習は間違っている。

四、先達は言った。「頭が正しければ、四肢百骸はみな役割を果たすことができる」。この言葉の意味は、頭が正しくないと、上下と言えなくなり、上下がないと、残りの部位はすべて役に立たなくなるということである。そのため、上下の争いがとりわけ重要であり、王老人が「松緊の枢軸は上下にある」と言ったのもそのためである。

五、推手の基本形は、両手が上にある、両手が下にある、両手が交差するの三種類があり、他はこの三種から派生したものである。

六、両手が上にある応用は、主に提按試力の応用から変化させると上手に行える。両手が下にある応用は、主に勾錯試力の応用から変化させると上手に行える。両手が交差する応用は、主に分合試力の応用から変化させると上手に行える。

七、推手で退く際は頂で退き、進む際は押しながら進まなければならない。

八、推手では進退半歩の間に用心して功夫を尽くさなければならない。つまり相手が進退する際、片足が地面を離れ地面に着く前の瞬間を逃さずに変化を求めるのである。偷半歩とはこの意味である。

九、下発力を初めて練習する際の、身体の下座の感覚は、まるで小さい頃、学校で同級生が立ち上がったのを見て、いたずらで椅子を取り除いた時のようなものである。その同級生は自覚がなく、結局尻もちをついた。我々が欲しているのはその同級生が座った瞬間の失重感である。もちろん我々が練習する際はしっかりと座り込み、一度に座りつつすぐに立ち上がれるようにする。

十、師父は言った。「弓を引き射るという道理をよく悟ること。矢は弦の上に乗っており、一度緩めれば発射される。それ以上の力は不要である。推すことは余計なことである」。站樁でもこれを体得し、試力でもこれを体得し、推手でもこれを体認しなければならない。