意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

楊鴻晨先生の著書『推手功法之浅見』(1)

中華文明の歴史の中で、一部の伝統文化は輝かしい功績を残したが、時の流れとともに薄れたり遠ざかったりしながら、今に伝わって人々に鑑賞されたりしている。一部の科学技術の発明は、天才的思想の萌芽となったり、後世の発明創造の雛形となったりしている。それらは歴史の光環を纏って、次々と博物館に収蔵され、豊かな中華文化として積み重ねられ、人々の憧れの的となり、後世に啓発を与えている。中華武術は異なり、歴史上の輝かしい功績を残しただけでなく、今なお完全な形で、生き生きと人民の間に存在し、人民の健康に実質的に奉仕し、強大な生命力と発掘されるべき潜在能力を保持している。これは中華文明史上、さらには世界科学技術史上でも絶無仅有の奇跡であり、唯一の常緑樹である。

これは一体なぜだろうか? 伝統科学として、これは中華武術自身の深く、堅固な学問の内容によって決定されている。中華武術の理論体系とその実践体系は、二つの大きな支柱として中華武術の学術的主体を構成している。まさにこの二つの支柱が、中華武術が数千年の時空を超えて、古今に流れ、長く衰えることなく支えているのである。これは中華武術の根であり、武術の魂であり、「神機」の存在である。

台湾逸文出版社の劉康毅氏は、長年にわたる中華武術の発掘、整理、継承の困難な作業の中で、中華武術の研究、普及に多大な努力を払い、有益な議論を行ってきた。内容的にはほぼあらゆる側面に触れており、研究方法としては多様な方法、多様な経路、多様な水準、多様な学問分野の研究手段と方法を採用している。これらの研究は、現代と今後の研究のために、成功しているものも不十分なものも、大量の基礎的な作業と有益な議論を行ってきた。これらの研究は、その性質上、各拳法の理論と功法の整理、説明、検証に属するものであり、真に新しい概念、新しい理論、新しい法則を提起したものである。内容的には、ある理論、あるいはいくつかの具体的な理法と技法に関する理論研究、全体的な研究と武術理論体系の構築、特に無視できないのは、発展傾向から見て、現代的な思考方法と方法を指針とし、中華武術自身の発展法則の研究から、劉康毅氏が率いる学術チームの今後の困難なプロジェクトとなっていることである。

このシステム工学は、基礎的で素朴な『易経』や『内経』などの理論と効果的な技法を、ありのままに、全面的に体系的に、集大成し、創見を加え、実質的に描き出し、現代人を指導し、後世に残すことを要求している。根を残してこそ、高い出発点から継往開来することができるのである。このプロジェクトが実施され完成すれば、21世紀の中華武術に新たな発展をもたらすだけでなく、21世紀の中華文化の復興と世界による新たな認識と評価に積極的に貢献するだろう。21世紀の中華武術の発展戦略を考えるとき、まず盛衰興亡の戦略的高みからこの二つの支柱の維持と強化を見極め、対処しなければならない。根を残してこそ、継往開来ができるのである。

なぜなら、理論は実践を指導し、実践からは絶えず生き生きとした豊かな栄養を吸収し、その発展と向上を促すからである。

このような明確な方向性と支援の度合いは、まさに現代の発展史上の濃い一筆であり、中華武術の愛好家や従事者を大いに鼓舞するものであり、筆者も深く感動している。以下では、体認実践功法の中の推手という重要な技法について、筆者なりの点滴の体験を述べ、私見を述べて、これに応えたいと思う。

一. 中華武学的独特功法

推手は、中華武術の技法の中で最も民族的特色を持つ功法の一つである。世界中のあらゆる対抗格闘競技を見渡しても、この功法を伝承しているのは我が国だけである。我が国の各派武術の中でも、意拳(大成)、鶴拳(称搖肢)、形意、八卦、無極、太極などの数派が、この功法の研鑽を重視している。長年、官が主催する各級の教学と試合における推手は、太極という拳法の推手種目であるが、ここで筆者が述べる推手の技法は、意拳と鶴拳を例としている。これは、両者の原理と技法が基本的に同じであり、他の拳法の推手も、これと類似または近似しているからである。

推手は、ゆっくりとした実戦訓練であるだけでなく、双方の試力でもある。試力の「試」という字には深い意味がある。それは、試してみて可能かどうかを探るという意味だけでなく、力を試すという意味でもある。なぜ力を試すのか。それは、拳法に必要な力が、日常生活で慣れ親しんだ力の出し方とは全く異なり、站樁や歩行などの厳しい訓練を経て得られる先天的な整体の渾元の力だからである。この力の特徴、深浅、変化は、すべて試してみなければ体得し感知し運用することができない。双方の試力とは、自分自身を体得するだけでなく、相手の力の性質と運用の変化を感知し制御する必要があることを指している。したがって、推手試力は、試すことから知り、知ることから変化を知り、再び用いるという重要な技法なのである。

推手にはさらに二つの深い意味がある。

1.双手実戦は、推手、断手と呼ばれる。いわゆる、搭上の点を推す(双方の上下四肢が接触する)のが推で、距離を開けるのが断である。断手は実戦、実作とも呼ばれ、断手とは相手の力と来勢を断ち切った後に攻撃を加えること、あるいは相手と距離を開けた後に機と勢を尋ねて攻守の格闘を行うことである。相手の急所を打つ時、相手は必ず受け止めたり防御したりして、両手四肢が触れ合う機会が生じるが、多くの格闘術では手を引き戻して再戦するのに対し、推手に精通した者は専門的にこの機を求めて「間架を打つ」のである。そのため、中華武術史上、「人を打つのは易しいが、人を発するのは難しく、人を発するのは易しいが、制御するのは難しい」という言葉がある。この制御の技法は、推手の訓練を通じてのみ習得できるのである。

2.もちろん、初学者の推手の試力は、この「試」の字が、戚継光の「酒を飲み詩を賦し、馬に乗り剣を試す」という「春営馬を試し、虎帳兵を談ず」という意味も含んでいる。この「試」の字には、武術に対する理解、習得、修正を深めること、そして国家を守り、血を流して疆場に臨む英雄の気概が体現されている。

二.推手的要点

推手は拳法の中で非常に重要な功法であり、推手の要点を掌握してこそ、推手の練習の目的を達成することができる。推手は単推手と双推手の二種類の形式に分かれているが、その原理と要点は基本的に同じである。以下、推手の要点について重点的に述べる。

1.推手の要点とは、推手功法の要領と重点である。推手は、站樁、試力、歩法などの功法の基礎を掌握した後に練習すべきであり、そうでなければ形だけの推手になり、推手功法の特徴と効果を発揮することができない。

2.推手の時は、全身の動作と力量が均整でなければならない。一つ動けば百が動き、局部の力と局部の動きを使わない。つまり、必ず樁が動き、脊柱が四肢を動かすことで、整体力を運用することができるのである。

3.推手の時は、点緊、身松が求められる。身松が主であり、相手と接触する点は整体と協調しなければならず、強張った拙力を使ってはならない。力の松緊は互いに転換し、松と緊を互いに用いなければならない。

4.推手の時の動作は霊敏でなければならない。そうしてこそ、反応が迅速で、身、手、歩を自在に運用し、転動、変化を心のままにすることができるのである。

5.推手では、点で相手の勁力を聞かなければならない。力量の大小、動作の快慢、虚実、松緊などを理解し、相手に適応し変化に対応する。彼を知り己を知ってこそ、時に勢を得ることができるのである。

6.推手の練習を始めるときは、まず慢から練習し、要領を掌握してから速度を変え、快にすべきである。推手では「慢が快に勝り、緩が急に勝る」という原則を掌握すべきである。なぜなら、ゆっくりとした推手でこそ、拳法の中の推手の「勁」、つまり「もの」を見出すことができるからである。そのため、推手では、ゆっくりとした中で功法を体得し、要領を掌握し、効用を求めなければならない。

7.推手の時は、目で相手を観察し、神と意を集中させなければならない。思考が散漫になったり、意が充実しなかったりしてはいけない。そうでなければ、神と意を失えば、功力と反応の効果はすべて失われ、効果は上がらない。

8.推手には、偏、卦、拉、擠、推、跟、定、控、撞、放、弾、抖などがあり、応用の際にはそれぞれ異なるが、それぞれ特徴と応用の条件がある。必ず自分に有利な時にこそ応用でき、条件がないのに勝手にやるのではない。そうでなければ、理想的な効果を出すのは難しい。

9.推手で相手を放すことができるかどうかは、推手の実戦的効果を検証する鍵である。相手を放すことができず、お互いに本気の力で押し合う推手は、功夫が足りないことの現れである。基礎功法の中から真摯に原因を見つけ出さなければならない。相手を放すことができない要因は多く、実際の局面から原因を見つけ出さなければならない。例えば、功力が小さいのか、動作が遅いのか。整体力を発揮できないのか、神意が正しくないのか。基礎功が確実でないのか、個々の功法を全面的に掌握していないのか。先生の教え方が正しくないのか、自分が十分に練習していないのか。推手の経験が不足しているのか、本人に推手の訓練が欠けているのかなどの問題である。原因さえ見つかれば、解決することができるのである。

10.推手の功法を学ぶことは、どんな技芸を学ぶことと同じである。水準の高い先生の指導を受けてこそ、推手の学習と練習の効果を高めることができるのである。

11.推手の練習は站樁とは異なり、推手には相手の功法がある。站樁は自分一人でも練習できる。そのため、推手の時は必ず相手との関係を生み出さなければならない。自分がどうすればいいかを想像するだけでは間違いである。必ず相手を理解し、相手に適応し、相手を控制してこそ、相手に勝つことができるのである。

12.推手の練習と応用の際には、時間の長さだけを求めるのではなく、推手の応用の各局面を掌握しているかどうか、練功と応用の効果を追求することにある。推手の練習では、力を大きく使い、体力を多く消耗すればいいというわけではなく、整体松緊力の応用と、相手と推手する時の正しい発揮にあるのである。そのため、自分のものは必ず全面的で、正確で、熟練していなければならない。

13.推手の練習では、点を断ってはならない。つまり、相手との接触点である手首や前腕を勝手に離してはならない。点を断つ推手は半分組んで半分離れるもので、推手の功法の要求から外れ、別の搭断手功法になってしまう。時には主導権を得ることができるが、推手を深めるには不利である。功夫が深く厚くなってこそ、半搭半断、搭搶断を組み合わせた訓練に移行することができるのである。

三.推手的形式和四技

推手の功理練用には、単推手と双推手の形式がある。単推手は定位で立ち、双方が右側または左側の手だけを出し、二人が前腕で触れ合い、推手の練用を行う。双推手は双方が向かい合い、それぞれ両手の前腕で触れ合い、活歩(動歩)推手の練用形式を行う。推手の功は、主客双方の前腕の接点で、力を聴き、定め、力を制御して、相手を放り投げ倒すことを求める功理の用効である。功理練用の過程では、接点(前腕が触れる)で、前後左右の弧環(片手)、または前後上下左右の弧環(両手)の動作を行い、これによって勁を聞く。すなわち、接触する点を通じて、相手の勁力の大小、力量の方向、動静、虚実、緩急、速度を理解し、その中から相手の勁を掌握し、自身の勁を正しく運用し、変化や変化しないことの中から発力の機会と制御の用を求め、相手を放り投げ出すことを至上の用として求めるのである。

推手はまた、四技の用を熟練させる必要がある。

1.  聴

拳学には「勁を聴いて敵を知れば、遒放は総じて適当になる」という言葉がある。これは「聴」が相手を理解する手段であることを示している。「聴」は耳で聞くことではなく、この術語は点上の触覚による探査判断と神意の本能的な神速の反応を指している。拳学における聴とは、相手と接触することで、相手の力量の大小、動作の快慢、力量の方向、動作の方向、虚実、動静、位置、角度、重心などの状況と変化を理解し、相手のあらゆる状況を把握することである。聴勁の効果はどうか? 判断は正しいか? 長期の基礎功法訓練で得られた樁桩功、試力功、推手功、練用中の点緊身松や細かな部分の体得、静中に求め、緩中に取るなどは、いずれも聴勁の訓練と密接な関係がある。聴は相手を理解するのに最も実行可能な方法だが、必ず本能で聴き、本能の変化と本能の反応を求めなければならない。そうすることで、瞬間に正しい変化と効果を生み出すことができるのである。『拳道中枢』の「一触即爆発」とは、聴いた後の瞬間の本能的な反応によってのみ達成できる結果なのである。

2.  控

控は聴いた後の行動と意導の過程である。控とは、聴いた後、相手の状況を理解した上で、相手を理解し、相手を知り、相手を掌握する過程である。控は制御を指し、掌握した後の合理的な制御の過程スである。拳理には「相手の変化を知ることから、相手のすることを制する」「先機を掌握すれば、必ず強敵に勝つ」という言葉がある。つまり、牛を引くように自在に操ることができるのである。したがって、一触即発、瞬時に変化に対応することこそ、拳理の核心なのである。控は聴の次の段階である。

3.  定

定とは不動という意味で、静定はともに不動である。静中不動は自身のすることであり、定の不動は他人に制せられることである。拳理には「定まらなければ、放ってはならない」という言葉がある。つまり、定まる前に人を放してはならず、放しても良い効果は得られない。定は拳学において、瞬間に相手との接触の中で理解すること、あるいは双方が相対的に整体静止した状態に達することを指す。定は時には相手が不動の静である。二人の推手の中で、自分が相手を制御し、相手を瞬間的に全体の神意気力気血の停滞した僵抗状態に達せしめることで、これこそ自分が主動的に相手を定める局面を形成するのである。

4.  放

放には弾抖のような、電気に触れたような感覚がある。放とは松整の力であり、放は突き飛ばす、押す、突くことではなく、整体の力で双方を弾き投げ出すことである。放手の初中級は叩き当てることであり、高級は弾抖の放を指す。放の時、相手の接触点に痛みはない。人を放す時、動作の快、慢に関わらず、放の効果を達成することができる。動作の大小は威力に区別はない。放は松整の勁を用い、強張った本力の衝撃力ではない。放は多く惰性力、炸力、驚抖力、弾抖力、二争力の反向逆収力などの動物の勁力を用いる。つまり、拳学の自然力、純功力なのである。だから放は拳学の発力において最も威力のある功力の体現なのである。

単推手の組手の力意念の誘導は、接触する点、つまり相手の前腕と接する点にある。一方、自分の間架構造は、手指が相手の中線にあることである。いわゆる中線とは、相手の頭と鼻、前胸の中間部分を指す。手指とは、手指が相手の中線に向かっていることを指す。拳学の心法から解釈すると、意(意念)、力(力量、勁力)、形(手)はいずれも相手の中線に対応すべきであり、二人の手が円(輪を描く)を描く時、どのような角度、方向であっても、その前腕の接触点の意と力は常に相手の中線を指している。これが単推手の心法の具体的な鍵となる要点である。

さらに、点の接触によって、推手の中で常に相手の力量の大小、力量の方向、動作の方向、緩急、虚実、動静、角度、快慢などの細かな部分の勁を聞き(理解し)、変化があるかどうかなどを知る必要がある。相手を理解(聴勁)すると同時に、自分は彼を知り己を知る条件の下で、適時、適勢、適機、適用の択(即ち反応または本能的反応)を行い、変化と不変の中で相手の重心を掌握し、相手の力量、方向、位置を制御し、相手を定めるようにする。つまり、相手が進むことができず、逃げることができず、動くことができないようにするのである。もちろん、「定」は瞬間的な一時的な定位であり、自分は相手が自分の制御を受けざるを得ない優先条件の下で、瞬時の発力を行い、相手を放り出し、弾き倒し、または衝突させて飛ばすのである。

放つ前に、自分には蓄力、適形の準備が必要である。例えば、含胸緊背、屈腿松腰、変換力向、短蓄含発、吸按指中、近身取勢など、つまり、含蓄待発で、備えあれば患いなしで、具形欲反の勢である。これこそが単推手の前手(敵の手に組む)の心法の要則と身体内に含まれるものである。後手は前手の肘の下部を横に支え、一つは相手の突進に備えて防御のために堵をする。二つ目は、前手と同時に肩、腰、身体、頭の整体勁の練用に合わせて随跟の動作を行う。三つ目は、放発する時、後手は補助として用い、随時の補益の備えとする。

発力して人を投げる時の放は、双方の勢に応じて、実戦では二つの選択肢がある。一つは主動的に発し、先んじて、優位を取って用いる。もう一つは緩やかに準備し、運用の機会を収め、相手が放とうとしてまだ発していない間、あるいはすでに発して用いた後、功力、変化(力量の方向、動作の方向、角度、松緊、距離、長短、虚実)を用いて、後発先達の機会や接抗変勢の用を求め、先に放ち、突発して敵が進み我が迎える上乗の効果を求め、相手を投げ飛ばし放り上げるのである。

双人推手の功理練用は、動歩双人試力の功である。単推手と同様に、いずれも接搭、聴勁、控、定、放、発の意味がある。双推手の功は、双方の間で両手の前腕を互いに組んで功を求めるものである。練用の過程では、手で推し、身体を動かし、歩を用いる。その功理練用の心法の要点は、手、身体、歩が有機的に統一されることにある。そのため、双人の相互練習を行う前に、双推手の試力と歩法の配合訓練の基本功を行うべきである(単推手も単人推手の試力功を練習すべきである)。双推手は手、身体、歩の配合で練習し、運用するため、単人で自ら推手の試力功と歩法の配合を練習することは非常に重要である。これは双推手に必ず練習すべき心法の一つである。

二つ目は、神応は勝利と敵を制することに重点を置き、目は相手を正視すべきであるが、目の注目する方位は相手の頭と顔の間だけを指すのではなく、相手の中線(身体の中心線)を主とし、余光で相手の全身各部の間架構造の角度、距離、重心、および両足の前後の立ち位置、虚実などを見るべきである。双人の相互の推手の中で、両手の接触する点(前腕の組む位置)で相手の勁力の大小、力量の方向、動作の方向、長短、緩急、虚実、動静、さらには相手の双点の異なる位置、変化、力量(勁力)などを聞く(理解する)。自分は力整、身松、肩催、歩帯、腿発、頭撞の整体的な配合と各部の分段、二争の機会を重視し、分合、提抬、掛偏、頂挤、欺圧、按拉、撲撞、抖弾の各種の形式の中から機会を求め、用を達する。頭撞、身催、脚蹬、腿発を発力の用とする。備蓄の中では、吸帯、座屈、含胸、緊背、緩腰、溜臀、吸胯、頂膝、扣脚を要点とすべきである。撑指、頂腕、正頭、竪頂、松肩、墜肘、含胸、円腹は補助勢である。腕の螺旋力、肩胯の扭転力、腿身の伸屈力、両腕の循環力などの勁力は、推手の搭、控、定、放の中で、分けて用い、統一して勢を択び、用を達する内含と神意の備、用を持たなければならない。機に応じて勢を得ることを適時の至効達用とする。用いる時は、緩行突変、力摧欺取、順行反用、斜進直達、横偏正至、両向争放、踩進力摧、奪位沖撞、横掃偏劃、先松後緊、定控放発などがある。功夫は多くを知ることにあるのではなく、用いる時は精選して適切に求めるべきである。そのため、推手を用いる功夫は多いが、それぞれの項目を練習して効果を出した後に、さらに他の項目を研究すべきである。諸項目の中から自分に適したものを選んで用い、高い効果を求めて精練すべきである。そのため、「諸用はすべて均しく熟知すべきだが、自分に適した式を選ぶべきだ」という論がある。つまり、功理練用の中で自分に適したものを選ぶことが、拳学心法の良い選択なのである。