意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

蓄意(『大成拳法要(基礎篇)』より)

過去、私は師父に何年も学んだが、発力のことは一度も教わらなかった。本当の断手のことも教えてもらわなかった。普段、私は師父と関係が非常に親密で、時々意図的にではなく、これらのことを尋ねることがあったので、少し本当のことが分かるようになった。ある時のことを覚えている。師父は長年風呂に入らないので、体に独特の匂いがあった。ある日、他の人がこのことについて話し始めた時、師父は精神を集中させて私の前に歩いて来た。その状態は非常に良かった。師父は「どうだ? 人は到着していないが、匂いが先に到着した」と言った。師父はそう言い終わると、鋭い目つきで私を一瞥した。私はその時すぐに理解した。他の人はまだそこで笑い話として聞いていたが、私は非常に恭しく師父に応えた。師父は私が理解したことを知っていた。つまり、断手の時には、「身体の外に意がなければならない」ということだ。これは非常に重要だ。

「身体の外に意がなければならない」というのは、難しい言葉だ。王薌齋先生は「精神笼罩」と言っている。精神は相手を包み込むべきであるという意味である。師父が歩いてくると、その気勢はすでに相手と接していて、すでに相手を包み込んでいる。

志朗師父はまた一つの話をした。弓道の人を見ると、彼らは小さな力でゆっくりと弓を引く。巨大な弓が壁にかかっていて、毎回弓を引く前にそれに一礼する。それに手出しすることは許されない。彼らは心の中のこの無形の力、心力を蓄えようとしている。心がいつも想法を持っている時、この想法はゆっくりと力に変わっていく。発力も同じである。

師父は発力を示範せず、発力を教えなかったが、いつも発力のことを話していた。それはあなたにこの考えを持たせるためだ。後に、何年も経ってから、ある日、私たち二人で発力のことを話していた時、師父は体を動かしているように見えなかったが、手で私の体を引っ張るようにした。まるで糸を引くように、引き戻すように、ただ意識だけを引き戻した。私は突然一つのことを理解した。発力は単に力を蓄えたり、形を蓄えたり、勁を蓄えるだけではなく、もっと重要なのはその意を蓄えることなのだ。私が意を蓄えることを知った時、すぐにそれを理解した。昔の人は、楊露禅の三人の弟子、全佑、凌山、万春がそれぞれ楊露禅の皮、筋、骨を得たと言った。これは非常に道理のある話だ。

意を蓄えることができるようになると、意を体の外に置くことができるようになる。どの位置まで蓄えるのか? 肉の中まで蓄えると、皮はなくなる。肉が最も外側になる。骨まで蓄えると、肉はなくなる。骨が最も外側になる。皮まで蓄えると、もちろん皮が最も外側になる。このようにして相手と搭手した時、選び取って開くことができ、その理をはっきりと理解できるようになる。もし私が皮に定位すれば、相手の力を私の皮と接触する場所で止めることができ、皮の中に入れないようにする。もし私が肉に定位すれば、「吃着勁推」という推手がある。それは肉の上で推すことである。さらに骨に定位する方法もある。それは骨まで入り込むことで、肉と皮の概念はなくなる。このようにして、私たちが以前に学んだ知識をゆっくりと全て使えるようになる。

于鴻坤『大成拳法要(基礎篇)』九州出版社より