意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

論重心与松緊(『神州意拳』より)

意拳の重心は三七の転換であり、前三後七、前七後三、相互に転換し、倒錯して互いに用いる。これは非常に深奥で精妙な課題であり、樁桩功、試力、発力および実戦が成就できるかどうかに関わる鍵である。

技撃樁の三七重心は実際には最終的な結果であり、決して最初からできるものではない。もし五五、四六重心転換の過渡期がなければ、この三七は本当に「虚歩」になってしまう。なぜなら、站樁の基本的な要求は前腿に支撑力があることであり、前腿の支撑力を高めるための鍵は重心を後ろに移動させることだからである。前腿の支撑力は重心を後ろに移動させることで前に突き出す(=頂)ことで得られるものであり、争って出てくる前への力量であって、前腿が主動的に力を用いるものではないと言うべきである。したがって、重心が前三後七であることは、樁功の最大限の支撑状態である。争力が最大であるため、人体の牽拉が極めて顕著で、運動量も非常に大きい。真の高手だけが重心を前三後七にすることができる。

ある人は三七樁を練習しても前腿に支撑力がないため、下盤に力がなく、脚部の弾力を生み出すことができない。腿部の力がなければ、どうして渾厚な「土力」を形成することができるだろうか。どうして大地と争う作用力と反作用力を形成することができるだろうか?

運動中の重心の伝導は前後の水平的な位置移動ではなく、上下の移動を通じて前後左右を促進してこそ優れている。水平的な前後の位置移動は自分の力を弛緩させ、脚下に根がなくなる。したがって、位置移動の際には必ず胯部の上下動を行わなければならない。下がる時は大地を圧迫し、上がる時は大地を蹴り踏む(=蹬踩)。このようにすれば、下肢は常に力強い支撑状態にある。試力でも発力でも、これを基準にしてこそよい。

内家高手の爆発力が強いかどうかは、自身の本来の力や体格の大きさにあるのではなく、腿部の弾力、および下盤と大地の合力にある。站樁は、下盤を地下に埋めたように、大地に根を下ろすように鍛えることである。もし下肢の力の伝導がなければ、上肢は整体発力とは言えない。いわゆる「その跟は脚にあり、腰が主宰し、手指に形成される」である。ゆえに、上虚下実、上松下緊こそが内家拳の奥妙である。

内家拳は力を用いないのではなく、力の用い方が外家拳とは異なるだけで、松であるところは松で、力を用いるべきところは必ず力を用いなければならない。真の松は力加減が適切で、過不足なく同期して働き、王薌齋先生はこれを「均衡」と呼んだ。知っての通り、下盤に力を用いれば、上肢は意図して力を入れなくても力が入る。したがって、内家拳は力を用いないのではなく、こっそりと力を用い、他人に気づかれないようにしているだけなのである。これが視覚以外の真相である!

松は練功の一種の手段であり、その目的は全身の各節をできる限り舒展放開させ、舒適な状態で骨と肉の反対方向への力を得ることである。これにより、肌肉は松開した後に下向きの拉力を生み出し、骨格の空間的位置と上向きの挺力を生み出し、対争を形成する。このようにすれば、肌肉が松沈下墜するほど、骨格が堅実に挺抜する「骨と肉が争う」状態が生まれる。

もし練功の際に骨架も松としてしまえば、肌肉の松はすぐに「懈」の無力状態になってしまう。「松而不懈、緊而不僵」とはこの理を言っているのである。肌肉の松は骨架の緊のためであり、つまり肌肉は放松し、骨格は支撑するということである。もし肌肉と骨架が同時に松あるいは緊になれば、「尽争の妙」である渾圓の力を形成することはできない。いわゆる「綿で鉄を包む」や「綿中に針を隠す」と言うのは、外柔内剛であり、松緊が互いに為すことを言っているのである。

「剛柔相済」は肌肉の松緊転換でも、動態中の力の大小の変化でもなく、松の中に緊張があり(骨格の支撑力を失わない)、緊の中に松がある(肌肉の弾力性と感受性を失わない)ことである。松と緊は反対方向に同時に力を用いることで生じる合力の効果である。このようにしてこそ渾圓一体であり、陰陽の区別が難しい整体、つまり「矛盾統一」の状態なのである。

松は肌肉の働きの状態を指し、緊は骨架の働きの状態を指す。決して松と緊をある一つのものの相互変化と見なしてはならない。もし思考までも混乱させてしまえば、練習しているのは一体何の意拳と呼べるだろうか?

高臣『神州意拳』九州出版社より