意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意拳(大成拳)詞彙詮釈(『意拳詮釈』より)

1、抱間架与間架結構

拳学において「抱住間架」または「抱着間架で進む」などの言葉がよく見られる。その間架とは、手、手首、肘、腕、肩の相対的な空間的構造の位置を指し、頭、顔部とその整体との関係も含まれる。抱住間架とは、上記の間架が頭部と協調して守る意を含み、同時に間架が松散せず、合理的で厳格な構造が求められることを指す。抱着間架とは、手、腕、頭上の体位や手の引く構造が合理的に協調している状況を言い、例えば抱着間架を進めて相手を迎え撃つ、または抱着間架を応用するなどである。「間架構造」とは、人体の手、手首、肘、腕、肩、頭、胸、背、胯、腿、膝、脚の位置や相対的な空間距離、角度などの整体の構造的協調形式を指す。形体の局部や各部の協調構造も局部の間架と見なすことができる。例えば、上手位が駝形または雲手の間架など。一般に間架の意味は、手、腕、肩と頭部の上体、そして腰、腿、膝、脚の下体との間の攻防関係の構造を指す。例えば、試力功法の間架構造など。

2、武術、拳術与拳学之含意

「武術」とは、拳を打つこと及び武器を使う技術のことである。「拳術」とは、技撃に対応するための鍛錬方法の一つである。「拳学」は武術・拳術を研究する一つの学問分野で、その学術的研究内容には、歴史的変遷、科学的訓練、改造生理、養生健身、病気の予防と治療、寿命の延長、技撃と自衛、武徳の修行、理論研究などが含まれ、さらに生理学、心理学、解剖学、生物力学、生物化学、医学、哲学、養生学などの生命学科や多岐にわたる周辺学科領域の関連知識を総合し、系統的に科学的に研究する学術である。

3、拳学中的力量伝導与力量発放

拳学における「力量伝導」とは、功法の実践や断手の際に、力が根節から発力部位へと伝達される過程を指す。力は脚に根ざし、腿に発し、腰背を行き、手の指先に達する。つまり、自身の動能は、脚と地面の間の摩擦力の支点と、地磁気の引力に反する争力の間で、肌肉の松緊によって、骨格と関節から成る間架の角度や位置の変化の下で形成される動能の伝導運動過程を指す。

「力量発放」とは、人体が動能によって発放する力で、さらに自身の力の伝導によって形成された動能が、相手と接触した際に、両者の接触部位(指、掌、拳、肩やその他の部位)を通じて、主体側の力能が伝導点(接触部位)から相手側の身体に伝達され、相手に作用する力となり、撃、放、推、拉、摔などの具体的な発力効果を生み出す。このような発力の具体的な形式を力量発放と呼ぶ。

発力効果は、発力形式の正しさや力量の伝導の円滑さを検証する指標となる。自身で発力功法を練習する際も、想定した外界の物体や人に対して力量発放することができる。この形式は、発力の初期練習時の自練功法に過ぎないが、条件があれば動く人体同士で相互に練習するのが最適である。

4、神亀出水試力与其它試力功法的関係

神亀出水試力は大成拳の試力功法動作としては比較的複雑なため、その要領を掴むのも難しい。その試力動作には上下前後左右の六面がすべて含まれているが、身体と腕の動作方向は逆になっているため、他の関連する試力に基礎があった方が要領を掴みやすい。神亀出水試力に関係する試力は以下の通りである。

一つ目は提按試力で、上下の勁が主である。
二つ目は偏手試力と側手試力で、左右の勁が主である。
三つ目は平行試力と平推試力で、前後の勁が主である。

上記の試力には、上下左右前後の六面の力の動作と、勁に内在する変化の機能が含まれており、その動作範囲と形式が神亀出水試力に近いところがあるため、神亀出水試力の練習前の基礎訓練となり、相互に参考にすることで体得でき、実践時の要領の掴みやすさと功効の向上につながる。

5、力(勁)的剛柔

「柔力」は綿整松沈が主体で、多円で蓄がしやすく、変化の機に利があり、霊活の妙を持つ。「剛」は渾実で、力は単一方向で竪直であり、方である。動作が循環して連続するのは主に柔力で、力が直で間歇的に発するのは主に剛力である。しかし、剛と柔は相互に存在し、柔と剛が共に備わっているのが最高の作用である。過ぎた剛は方向性が強く、変化に乏しい欠点があり、過ぎた柔は虚しく脅威が少ない短所がある。練習時は剛柔を並行させ、体得し入り組んだところに自ら明らかになり、理にかなうようになる。

6、渾噩一体

「渾噩一体」は拳勁における専門用語の一つである。「渾噩」とは完整で漏れがないことを指し、「一体」とはすき間なく充実していることを指す。身体は気の塊のようにすき間がなく、各部分がつながり分かちがたい一体となっている。しかし、力の蓄は全体的で、勁の運用も全面に行き渡る。逆力にも順応し、六面の力が均等で変換しながら蓄発でき、六面力がすべて含まれながら側重点に変化がある。

姚宗勲氏は神亀出水訓練について、この試力の主眼は身体と腕の間の渾円争力と螺旋力を探索し体感することであり、意拳訓練体系における半旋転試力に過ぎず、いわゆる平面での提按、推拉、偏挂などの試力の総合ではない、と解説している。この試力の練習は、特に手の小螺旋試力や滄海龍吟訓練の後に行うのが良く、推手、散手、力の発放などに重要な実践的意義があり、意拳体系の中でも重要な訓練手段の一つである。

7、形曲力直

「形曲」とは間架の各部の角度、位置、方位が複雑で曲がっており多くの棱角を成していることを言う。「力直」とは力量の発放が明確で直に達することを指す。両者を総合して用いると、形曲の中で力を蓄え、発放・運用する際には意と力が一つになり、直で瞬発で用いることができる。「形曲力直」と「形曲意直」に矛盾はない。大成拳では「意力合一」であり、意に従えば力は自ずと至り、力に従えば意は必ず達する。

8、順力逆行

「順力逆行」は拳学における勁の専門用語で、動作の力量の方向と、力量を発放する際の反作用による力の方向が正反対になるほど、力量の効果が大きくなり遠くに及ぶことを指す。しかし、練習時にはその心法を解明する必要がある。後ろに動けば力は前に、上に動けば力は下に、左に動けば力は右に向かう。試力の中でゆっくりと意を導きながらこの心法を体得し、実践時には奇妙な効果が得られるだろう。

9、大成拳中的「透」字解

王薌齋先生の論述には「透」の字がよく使われている。例えば「指端力透電(指先の力が電気のように透過する)」「透脊達背(脊を通り脊に達する)」「如風透体、有如穿堂風(風が体を通り抜けるかのように、櫓を通る風のよう)」などがある。拳学にも「練時包透功、放敵必腾空、若悉三要則、功到自然成(練習時は透徹し、相手を放てば必ず空中に舞う。三つの要領を熟知すれば、自然と功が成る)」「透為意、亦為行。諸法備、妙為穷(透とは意のことであり、行のことでもある。諸法が備わり、妙が究め尽くされる)」とある。「透」には拳学において以下のような解釈がある。

透:「指端力透電」とは、身体から発した力が最後に指先に伝わり、力が電気のように一気に貫いて相手に作用することを指す。

透達:「透脊達背」とは、意力がその胸を通り抜け、相手の背骨の深い位置に達することを言う。

穿透:「如風透体」とは、站樁の功法を練習する際、外界の空気(風)が自身の体を通り抜けるかのように意識することを指す。実際、風や空気は皮膚を通って体の筋肉、骨格、内臓を吹き抜けることはできない。これは站樁の緩んだ状態で外界に対する微細な感覚のことで、「如風透体」の「如」は風が体を透過するかのようだという意味である。

神意形力の全面的透徹:「練時包透功」「透為意、意為行」とは、拳の練習には透徹することが目的とされており、神、意、形、力、気、声の六つの功をすべて用い、すべてに透徹させることを意味する。また、諸功を合わせて透用するという意味もある。
参悟の透徹:法要を参透し、法要を悟り透し、その真髄を悟り透し、功用を練り透し、運用を達透することを指す。

三要則:参透すべき三つの功夫、三つの段階を指す。一つ目は三種の功夫と三つの練習内容、二つ目は三つの練習の要領、三つ目は三種の練習段階の異なる形式的効果を指す。

10、陶冶

「陶」は不利な要素を取り除くことであり、「冶」は精錬のことで、鉄の精錬のように陶冶を通じて拳学の素養、道徳、情緒や心の境地の水準を高めることを指す。

11、斜進竪撃、長撲短用

「斜進竪撃、長撲短用」の文言は、王薌齋先生の著書『意拳正軌』に由来する。「斜進竪撃」は「十、龍法」に、「長撲短用」は「十一、虎法」にある。龍は変化に富み、隠現が無定で、斜進豎撃は変化した形で用い、形を変えて突然発し、斜めに進み、横から出手し、直で竪撃する効果を得る。そこには斜蓄直発の心法も含まれる。虎は気勢が豪猛で、霊強、強壮に長があり、長扑して勢を取り、遠くへ速く進む。撞冲や扑掴の勢で前に進み、短く至り、近くの敵を捕獲し、制勝する機会を得て用いる。拳学ではそれらを融合し、変化に対応し、機を得て蓄発し、猛進し、力撃する。すなわち龍虎二者の長所を借りて喩え、拳学の練習と運用の髄理を体得する。

12、順力逆行

王薌齋先生は「順力逆行」について繰り返し論じている。「手を後ろに引けば、力は遠くまで及び、手を前に伸ばせば、力は後ろから来る」と説明している。ここでは力の運用形式を説明しているだけである。本質的にはこれは運動力の平衡問題で、後ろに動くのは手段であり、前に進んでその中心を制するのが目的である。素朴に言えば動的な円運動の力である。しかし、それだけではない。「借力」「四両拂千斤」「粘連黏随」や長勁と短勁の巧妙な実際の応用は、この運動形式の範疇を超えていない。具体的には個人個人で水準が異なり、見解や認識も異なる。経験、見識、影響を受けたことも、異なる理解の原因となっている。総じて、「順力逆行」の意味を深く認識することはできない。今後の拳学の発展にとって極めて重要であり、私自身の意拳への絶え間ない探求努力から、その中に浅薄な認識しかないことを感じている。大成拳に触れた者なら誰もが共通の認識があり、平素は気づかれないが、ふと振り返って再学習するか、たまたま啓発を受けると、ごく単純な動作や要領がその時この時重要であることに気づく。それぞれの要領を細かく詳しく探求することが、大成拳の円運動の力を豊かにする必経の道なのである。円運動の力は多くの内力と外力から成るため、円運動の力の構成を詳細に解体すべきである。大まかに言えば、円運動の力の構成は、間架支撑力、鼓蕩弾性力、霊活変換力、精神激発力に分けられる(詳細には16種類もある)。

13、間架支撑力

まず合理的な間架支撑が必要で、合理的な間架支撑の条件下でのみ、渾円力の立柱(建築の支える柱のようなもの)を樹立できる。いかなる力も間架支撑の条件の下で発揮されるものである。この間架支撑の柱を離れれば、すべての力は孤立して存在できず、反作用力は支撑力の作用下で発揮され派生するのである。間架支撑とその要領については、姚宗勛氏の著書『意拳:中国最新実戦拳学』で詳しく述べられているので、ここでは割愛する。私が説明したいのは、間架支撑力と支撑反作用力における「順力逆行」である。大動作、小動作、無動作の「生々不己の動」のいずれも逆向きの運動を包含している。その間架は堅固で動的でなければならず、「死架子」ではいけない。外形的には不動に見えても、順力逆行の勁力がある。したがって順力逆行は常に渾円力の全体を貫いている。逆向きの運動には、表面的な大動作、小動作、微動作の内動がある。

逆向きの運動を利用して体の平衡を調節する。つまり、体を前に衝く際には同時に、胯骨と腰椎を後ろ下がり、体の動的平衡を保つ。体を左に力を発すれば、臀骨と腰椎を右に引き、自身の平衡を保つ、と次々と行う。内動は高次の動作で、表面的には体の大きな逆向きの動きは見えない。発力したり動いたりする際、体の平衡を調節するのは尾骨の先端で、尾骨の先端は力を出す方向の前足の裏を真っ直ぐ指す。勁力が地面に貫き、前足の支撑力が瞬時に反作用として接触目標に伝わる。同時に全力を尽くして脊椎の後弓を維持する。これこそが王薌齋氏の言う「腰脊の力」「腰椎板は牛に似る」なのである。他の発力要領も同時に作用し、渾円力を強化し豊かにする。

14、鼓蕩弹性力

鼓蕩と弾性は初級段階では分けて練習するが、最終的には一体となる。「鼓」は「弾」の必須条件であり、鼓は間架支撑力の再生と継続である。鼓とは肌肉を相対的に拉緊することで、ゴムを引き伸ばせばはね返る効果が生まれるようである。

拉緊後の伸縮に蕩勁が生まれる。両脚裏で支え、全身の重量配分を変化させる。「鼓」にはさらに深い次元として、胸の横隔膜の上下協調、呼吸運動、「兜丹」、「蹲踞」の要領があり、これは王薌齋先生の言う「呼吸弾力」である。「鼓」は跳ね返りで、跳ね返りの余波の力を掴めば高振動を制することができる。真の弾性力は体の伸縮から生まれる力量である。上下の伸縮と支持反作用が、巨大な弾力のもとになる。「上下の争こそが全身の争の妙」であり、実際には体自体が伸びているわけではないが、体は収縮できる。体の上下の弾性の力は、脚の伸縮と大きな脊椎の「身弓」から生まれる。いわゆる「一身に五つの弓がある」というのはこのことである。大成拳の動的な円運動の力は、まるで気体で満たされた皮球のようで、些細な動作も弾性があるが、単なる機械的運動ではなく、弾性の中の逆向きであり、逆向きの中での変位なのである。

15、霊活变换力

身法と歩法の霊活性の訓練は、主に「用力」のゆっくりとした摩擦歩である。両腿で力を入れて重心を押さえ、両腿は二本の弓のように弾性としなやかさを備えている。必ず片腿で全身の重さを支え、上は頂し、両手を下に押し引き戻し、自身の体を引っ張ってくる際には、体の上争と下墜が共に備わっている必要がある。臀骨が平衡を保つ重心の源で、陰嚢内側を引っ込め、尾骨の先端を会陰に引っ込め、肛門を引き上げ内側に引き込む。手と体は逆向きの運動をする。だから「用力」と言われる。そうでなければ偽りである。

ゆっくりとした運動を習得した後でなければ、「一身に五つの弓がある」ことを体感できない。意のみで力を用いない状態なら、「弓」は存在しない。「弓」とは拉緊されたものである。重心の転換頻度、衝撃の距離と速度は、肌肉の収縮強度に影響される。つまり硬直するほどの「力」を用いてはいけないし、逆に「弛む」ことも避けなければならない。適度な回転の余地がある程度が適切である。両腿は体の重さを支えながら、常に松緊を交互に調整しなければならない。だから下肢の松緊を掴むのが最も難しいと言われている。

肩の霊活性:「接骨兜榫」である。肩は力量を伝達する一方で、霊活に変換する必要がある。だから肩の訓練は更に困難である。逆向きの運動がここで重要な役割を果たす。大動、小動、微動、不動に至るまで、常に体と腕が逆向きの運動をするか、または勁力が逆向きの運動をするのである。

手首の霊活:手は力の終点である。手首が摟、劈、鑽、刺、翻、揚、裏、擰のいずれであれ、五本の指は相手の口と鼻を真っ直ぐに指す。手首は相手に向かって「鼓」する。手首の急速な運動はすべて、体の運動に引っ張られ、体と逆向きの運動をするのである。どのように変化しても、相手と接触する点は鼓である。

腰椎の霊活(活力は蛇のごとく):上肢の力は腰椎の支撑と腰椎の旋転から来る。兜丹と尾骨の内収入は、腰椎の支持力を強化することが目的である。腰は体幹部で最も弱い部分である。腰椎を引き伸ばし後弓に曲げると同時に、腹部内圧を高めることで、腰椎を「太く」する効果がある。丹田自体は力を生み出せない。過去に丹田が力を生むと考えられていたのは根拠がなく、古代人が解剖学や生理学、運動力学の知識がなかったためである。

螺旋力と遠心力はいずれも腰椎の回転の結果である。腰椎の回転と上肢の打撃動作は、目標に接触するその刹那に逆向きとなる。臀骨は常に動くことができ、自動車のシャシーのようなものだが、しっかりと竪固で安定していなければならず、弛んではならない。膝関節も弛んではならず、支持反作用力を伝達する要である。肘関節も90度以下に曲げてはならず、90度未満は「くぼみ」と見なされ、渾円とは言えない。

上記の霊活性の境地に全身で達すれば、まさに「玉が皿の上を転がるようで」、動かずとも山のようで、動けば山が飛ぶかのごとく、まるで「霊蛇が驚いて変わる」かのように、相手に攻撃の隙を残すことはない。明師からの言伝身教と自身の「悟り」がなければこの境地に達するのは難しい。大動から小動や不動に至るまで、作為的なものではなく、単なる表面的な現象でもない。一定の力の境地に達した表れであり、「体は鋳造のように整っており、筋肉が一つに纏まり、毛髪は戟のようで、身体は鉛で鋳造されたように」という四如の境地の現れである。ここで強調したいのは、「腰椎板は牛に似る」な腰椎の力がなければ、すべての動作はばらばらで、いわゆる大成拳の「徽」とは程遠いということである。

16、精神激発力

これは心理訓練の範疇である。上記の境地に達した時はじめて、精神訓練に踏み込むことができる。精神訓練の実質は、人々が常に言う「意念」のことである。意念とは何か? それは思考や心の働きのことである。仮に大敵が目の前に現れ、自身の生命が脅かされたとしても、相手に怖気づくことなく、生存権を相手と争うことを誓う。つまり、身分の高低に関わらず、生死に関わる場面での反応は、死に物狂いとなることである! このような大胆不敵な気概がなければ、たとえ深い功力があっても無駄になってしまう。大成拳は単にこのような心理的な資質を鍛えるだけでなく、最終的には「清逸大勇」を持つことが求められる。清逸大勇とは賢明な勇気、心胸が開放的で明るく、世に処するのに節度と礼儀があり、危機に際して恐れることのない厚い徳と果断さのことである。真に意拳の精髄を学ぶことは、その人でなければ学ぶこともできず、その人でなければ教えることもできない。

楊紹庚『意拳詮釈』天地図書有限公司より