意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意感、動感和力感(『螺旋宝塔—崔瑞彬五十年体認如是説』より)

松緊転換の問題は、前に述べた「一想即止」と本質的には同じことである。王老師は「『動静』という二文字は研究すると終わりがなく、行えばさらに複雑になる」と述べている。動静がそうであるように、松緊もまた然りである。

恩師は「意拳は站樁を基本功とし、精神から肢体の松緊を訓練する」と言った。我々が何度も松緊および松緊の間の転換を強調するのは、松緊が人体の運動を構成する基本的な矛盾であり、力量、速度、耐力、霊活、協調性などの身体の資質がすべてこれから派生し、そのいずれもが人体の肌肉の松緊に制約されるからである。したがって、意拳のすべての訓練内容から言えば、いかにして正しく松緊を掌握し運用するかの問題である。

いわゆる松緊は、肌肉の松緊であり、また精神と意念上の松緊でもあり、まず精神と意念上の松緊であるため、意拳は「意」の字を際立たせる必要がある。これについて、恩師は「一般的に先に放松を練習し、さらに進んで松緊の相互転換を練習し、松緊の協調に達する」と説明している。

恩師の話は非常に味わい深い。站樁から言えば、まず放松を学ぶ必要がある。おそらく放松は誰でもできると言う人がいるかもしれないが、実際はそうではない。我々がここで述べる放松には、精神上の放松もあれば、身体上の放松もあり、そしてこの基礎の上で松緊の転換を体得する。例えば、我々が意念で手を使って細い糸を引っ張り、意念で両手を微かに引っ張るが、これが最も初歩的な一緊である。この一緊は意緊を指し、一緊即松であり、ここでの松は、我々の注意力を両手と身体を使って意緊から得られた感覚を体得することに移すことである。この中には自然と最も初歩的な松緊転換がすでにあるが、言葉では表現しにくい。簡単に言えば、意念上の一緊と身体が体得できる感覚が完全に同期しているかどうかということであり、我々は通常、一緊した後に身体に感覚が生じるが、ここには遅延があり、緊になると同時に身体が感じるのではない。この点については必ず明確な認識を持たなければならず、一時的に意感が同期ができなくても問題ないが、必ず切実な体得がなければならない。なぜなら、意感がまだ同期できないのであれば、意動一致の功夫については言うまでもないからである。したがって、初めて練習する時、この引っ張る時間は長すぎてはならず、動作も大きすぎてはならない。時間が長すぎたり、動作が大きすぎたりすると、松緊転換の速度、つまり頻度が遅くなる。我々は「一想即止、このような少しの意思があればよい」と繰り返し述べており、以後の訓練における多くの意念活動もこのような方法であり、すべて体察の功夫である。

さらに言えば、始めたばかりの時は、頻度が速くなることはあり得ず、まず一回の松緊転換の頻度を比較的速くすることを達成する必要がある。我々がここで速さの問題について述べるのは、すべて一種の善巧方便であり、やむを得ず言うのである。真の意味での松緊転換は、松即是緊、緊即是松であり、どれだけ速い転換も速いとは言わず、速度がないことが速度であり、速度がないことが最も速い速度である。王老師はこれを「超速運動」に喩え、仏家では「念起即覚」「定慧等持」「止観双運」などと言うが、これらもすべてこのような意味を含んでいる。

この一回の比較的速い松緊転換の頻度ができたら、二回目の松緊転換の間に、少し停頓することができる。停頓の時間については、一般的に身体が体得した感覚によって決まり、身体の感覚が比較的弱くなったり、ほとんどなくなったりしたら、我々は二回目の松緊活動を行い、このように反復する。我々の体察功夫の深まりに伴い、間の停頓時間は徐々に短縮することができ、この体察功夫もできたら、連続して数回行うことができ、再び停頓して細かく体得することができる。もし本当に絶えず行うのであれば、それは非常に非常に疲れるものであり、この種の疲れは身体上の反応は実際にはそれほど明らかではなく、より多くは精神と心理上の疲れである。なぜなら、持続的な高頻度の松緊転換は、神経系統に対する刺激の強度が非常に大きく、効率は非常に高いが、神経系統は疲労を生じやすく、また一般の人には耐えられないからである。俗に言う神を消耗するというのである。これは、站樁の過程において、意念活動の調整もまた非常に重要な一つの環節であることを一つの側面から反映している。したがって、我々は一途に速さを求めてはならないが、しかし速さを求めないわけにもいかず、精神、心理、生理の各方面において徐々に人体を高度な協調と統一に達するようにし、肢体の間のあらゆる所が連通して一つの全体となるようにする必要がある。この時になって初めて、意感同期と言うことができ、さらに意動一致となり、いわゆる「一箇所を動かせば全身が連なり、一つ動けば動かないものはない」という意味である。

站樁の中で最も重要なのは、松緊転換の頻度である。頻度については前に述べたが、松緊転換の速さと理解することもできる。しかし、頻度の速さは我々が思うようにできるものではないことを明らかにしなければならない。多くの場合、我々は考えたが、しかし我々の身体はそれに合致することができず、実際の鍛錬の中ではしばしばできない時がある。したがって、我々は必ずゆっくりと誘導しなければならないと述べている。実際、この「意」上のものは、我々は本来できるものではなく、またできるものでもない。すべてできたものは意感ではなく動感となり、さらに本当に力を入れて行ってはならず、力を入れて行えばそれは力感となる。

「意感」は意念活動の感覚であり、「動感」は肢体動作の感覚であり、「力感」は肌肉収縮の感覚である。意感自体は非常に軽霊であり、いわゆる意若霊犀であるが、動感は意感に比べてはるかに強く、初めて站樁を学ぶ時は動作が形となり、体得するのは大抵動作の感覚であって意念活動の感覚ではない。もしこの時に力を入れてこの動作を行うのであれば、それは力感、つまり力の感覚である。

もし我々に動感ができたら、意感は非常に容易に動感に飲み込まれ置き換えられる。もし我々に力感ができたら、意感と動感はいずれも力感に飲み込まれ置き換えられる。動感であれ、力感であれ、このような感覚が強ければ強いほど、我々の神経系統に対する刺激は大きくなり、それに対応する条件反射を確立することは容易になるが、しかし、神経系統の反応はそのために鈍くなってくる。これこそが、初めて站樁を学ぶ時に「意を用いて力を用いない」ことを繰り返し強調する道理である。これはまた、意拳が外力による負重練習を採用することを主張しない一つの主要な理由でもある。そして、養生の要求からであれ、技撃の必要からであれ、意拳の站樁が最も忌避するのは身心に力を入れることである。

意感と動感については、我々が本当に意感同期を達成することができる時にのみ、意動一致の道理を語ることができる。意感と動感はこの段階に至って初めて相互に合致することができる。厳密な意味から言えば、試力は実際には意動一致の練習であり、試力もまた意動一致の練習でなければ真の効果はない。しかし、站樁の初期にはほとんどこのような可能性はない。したがって、意念誘導を行う時は動作があってはならず、できれば形に出さず、さらに本当に力を入れて行ってはならず、意念によらなければならない。そして、意念活動は鍛錬の深化に伴って変化もあり、意念活動は軽から重へ、意念活動の感覚はそれに伴って弱から徐々に強くなる。例えば、気球を抱くことから大樹を抱くことまで、これらはすべて一つの循序漸進の過程である。比較的軽い意念活動を採用し、誘導された松緊転換の速度がすでに比較的速くなったら、相対的に重い意念活動に換えることができ、同じ松緊転換の速度で誘導を行い、これによって得られた意感は比較的強くなる。これは我々の松緊転換速度に対する一種の安定化と強化である。

しかし、意感がある程度まで強くなった時、我々が再び松緊転換の速度を上げようとすると、ますます困難を感じるようになる。この時、最初の意念活動に戻らなければならない。つまり、それまでの比較的軽い意念活動を用いて再び誘導を行うが、誘導の時はすでに安定した松緊転換の速度の上にさらに速めるのである。このように循環往復するのである。これによって、ここには至る所、至る時に「螺旋宝塔」の道理が含まれていないことはないことがわかる。

意拳はまさにこの種の特殊な訓練方法を通じて、神経系統の反応と支配能力を鍛錬する。神経系統の反応が霊敏であればあるほど、支配は良くなり、同様に神経系統の支配が良ければ良いほど、反応は敏感になる。両者は一種の相互依存、相互促進の関係である。站樁は多くの人が言うようにそれほど玄妙ではなく、どんなに高深な道理であっても、足を地につけた切実な体認から離れることはできない。

ここで、皆さんに注意喚起しておきたいのは、必ずそれらの聞こえは神がかっている大法や秘法を盲目的に信じたり、過度に追求したりしてはならないということである。もし大法や秘法があると言うのであれば、堅持することこそが天下第一の大法であり、法のごとく堅持することこそが天下第一の秘法である。意拳に志のある者は、必ず非常なる処はみな平常であるという道理を理解しなければならない。王老師が言うように、「宇宙の間では平常こそが非常であり、もし平常を捨てて非常を学べば、それは歧途に入るのと変わりない」のである。

崔瑞彬『螺旋宝塔—崔瑞彬五十年体認如是説』遼寧科学技術出版社より