意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

論「縮骨発力」(『神州意拳』より)

意拳の発力は、俗に「爆炸力」とも呼ばれ、「驚抖力」とも呼ばれる。いわゆる驚抖力は、整体勁力の瞬間的な開合転換を条件とし、急速な起動と急速な制動の中で、力の吞吐と開合の相互転換を形成しなければならない。

急速な起動は、エネルギーを瞬時に集中させ、内勁を充満させ、骨節を瞬時に閉合して圧縮力を形成する。

急速な制動は、蓄勁を起動した後、瞬時に反対方向に運動し、放出の勢を形成し、前足を下に踏み込んで前鑽の伸張力を促す。

前足が実で踏み込んだ瞬間、重心は前七後三の状態になる。この時、重心が動かずに突然下に沈み込み(=砸)、丹田の鼓蕩を促し、抖頓を形成する。抖頓の瞬間、全身の骨節が突然松開して争出し、ばねの反発力を形成し、力を体外に発する。意拳のすべての発力形式は、この根本的な要求から離れることはできず、これが発力の鍵となる。

縮骨発力の勁力形成には、以下のようないくつかの独特の利点がある。

第一に、勁力が充実し、内部には松緊開合による陰陽の変化が含まれており、爆発の速度と生じる力量は通常の発力の五倍以上である(注:我々はこれについて専門的な実験を行ったことがある)。勁力を瞬時に蓄えた後のばねの反発力は、非常に強い貫通力を持つ。陰陽の極めて速い転換による勢は、全身の関節の松緊の配合を借りて、さらに内部の気体の膨張を圧縮し、一つ動けば全てが動くという驚炸力を生み出す。そのため、王薌齋先生は「力は二から生まれ、二は一になることができる。陰は陽から離れず、陽は陰から離れず、陰陽には転換の功がある」と言っている。

第二に、フックのような驚挂力を持つ回手と、ヤスリ(=鋼锉)のようなねじり(=拧滚)力を持つ出手は、蓄力と発力の運動過程において、ほぼ同時に完成する。これにより、出手して発力する前に、すでに相手の重心を牵動し、相手の間架を崩し、自身の発力の行程を妨げないことが保証される。

意拳が追求する発力は蓄力を主とするため、「提」を練習して「頓」を練習せず、「蓄」を練習して「発」を練習するという言い方がある。蓄がよければ、発射が猛烈になる! そのため、意拳の発力の本質は、作用力を自身に与え、圧縮によって勢を形成し、さらに反作用力の回蕩の原理を利用して、打撃の条件を形成することである。すべての運動過程の引動は、実際には全身の関節の瞬間的な開合を借りており、王薌齋先生はこれを「筋伸骨節縮」と呼んでいる。これがいわゆる「関節力」の総和である。これは意拳の発力の最も精妙なところであり、また最も根本的な功夫があるところでもある。

第三に、縮骨発力は、実力と技巧の完璧な結合である。双方が手を交えて勁力が接すると、即座に縮骨して動き、驚力の回挂を形成し、敵の重心を失わせ、まるで深淵に臨んでいるかのようにする。そして瞬時に反発して形成される爆発力は、相手の身体全体を炸起させる。いわゆる「炸力」は、必ず相手の身体の重心を地面から離れさせるものでなければならず、このようにしてこそ驚抖による「縮骨発力」を円満に透徹して表現することができる。

第四に、縮骨発力は、整体運動を最もよく解釈したものである。均整如一を実現するためには、蓄勁を学ばなければならない。蓄勁がなければ、発力は存在しない。十分に蓄えれば、全身が鼓起され、整体如一となり、すべての関節が歯車のようにかみ合って、共に働くことができる。この一歩の功夫がなければ、樁法で得るところはなく、動法は真を失い、用法は効率が低くなるという、一連の連鎖が生じる。

真の神意の形成は、必ず身体の真の均整から離れることはできない。身体が整っていなければ、神意を動かすことは不可能であり、王薌齋先生は後学に「意感を守り、幻想を忌む」と告誡している。真実の身体感覚がなければ、すべての精神意念は単なる空中楼閣の幻想に過ぎない。縮骨発力は、身体機能の自身の技能に対する正確な感知を要求するだけでなく、精神の神経系統の起動に対する鋭敏な察知も要求する。両者が統一されれば、それが内外一致の真の功夫であり、実践と歴史の検証に耐えられるのである。

高臣『神州意拳』九州出版社より