意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

站樁之神意(『大成伝習録』より)

站樁をどのように行うのか? 站と站には千差万別の違いがある。今、私が松になったのを見てもらったが、もう一つ、神が出てきたらそれも正しい、神を意識するだけで良い。神に対して、身体は松である。もし神がこの位置にいれば、放松して、神を顕現させる。身体は大きいではないか? 身体の力を放松ないのなら、神を意識すれば良い。神は常に身体より大きいので、このようにして站樁ができる。神が大きくなれば現れ、関係が理順されれば正しい。神意は形より大きく、樁とはこのことであり、他にはない。站樁は何のためか? それは常に神意を養うためである。

站樁では身体の力を松にしなければならない。身体が松になると、心が開き、いわゆる神意が出てくる。一般の人では、この二つのものが混在しており、はっきりしない。修練を経ると、身体の力が抜け、神意が強くなる。この時、神意を主導とし、形を後回しにする。無我とは何か? それは肉体がないことであり、これを達成するには站樁しなければならず、つまり放松することである。放松しても、意は失わない。このようにすれば、この状態が現れる。

放松する目的は、身体が神意の障害にならないようにするためである。一般の人では、神意は身体の中から出てこない。今、身体を捨てて、神意を出すことは非常に厳しいことである。厳しい理由は、肌肉が動かず、神意が相手の心を捉えるからである。喧嘩や殺し合いが上手な人は、一般の人よりも神意が十分である。彼は、誰の神意も出ていないのを見て、站樁で鍛えるのは神意であり、あなたの神意が出てきた時、彼より大きければ、厳しい人に出会ったと感じるだろう。その時、あなたの神意が身体から離れ、身体の中にいなくなれば、神意でそこに変化をもたらすことができる。站樁とは、松開して、そのように立つことである。水蒸気のようなもので、気が出てこなければ、匂いを感じることができない。匂いを出さなければならず、これは漂うものである。だから、この身体を鍛えて、この気の状態に達するようにする。

人を打つ時、神は相手を越え、神光は四方を照らし、一部の意は自分の身体を観照し、自身の中環の関係を失わないようにするためである。站樁の時、一方では出し、一方では守る。意を守り、神を出す。出ているようで出ていない、守っているようで守っていない、比較的複雑である。このようにしてこそ平衡が取れ、そうでなければ二重になり、死んでしまう。このようにしてこそ霊勁がある。これを極めれば、自然の状態になり、意を守る必要もなく、神を出す必要もない。このようにしてこそ物に自然に応じることができ、感じればすぐに応じることができる。出るのは神であり、存在するのは意であり、「意」と名付けられる。

霊になれば神があり、どこが霊であってもそこに神がある。神光は照らし、神は至る所にあり、一本の指にも神がある。全てが具わり、本来備わっているが、ただ現れ出ない人がいるだけで、站樁修行によってそれを現すことができる。膝の神や両肩の神も、このようにして修練して得られるものである。両肩には神だけがあり、肩はなく、空であり、相手は肩に触れることができない。空であってこそ神が出て、身体には充実した、膨張した、「ある」段階があり、それから徐々に空になる。あるものが非常に広大になってこそ空になり、この空こそが真の存在である! それをゆっくりと、自然に出現させる。

次に意について話す。意は自然に流露するものであり、有意と無意の間に意があり、水が溝に至れば成就し、満ちれば溢れ出て、身体が円満になれば現れ出る。身体が自在になり、伸び伸びとし、余裕ができれば、意を用いることができる。意とは気勢であり、意とは精神である。拳が動かない時、意はなくなる。なぜなら、気機が動かず、勢が動かないからである。もしこの時意が動けば、それは妄動であり、妄動とは機のない動き(つまり動静の機を失う)である。蓄積され、満ち足り、余裕ができ、自然になり、機と勢を得、適切になり、体裁が整い、大きくなれば、この時用いる意は勢であり、いわゆる「勢で人を打つ」「勢で人を圧する」「勢で人を揺さぶる」であり、もはや拳法の功夫ではない。

意が気勢を引き出せば事足りるのであり、精神を引き出せばそれはなくなり、一瞬にしてなくなる。真の意拳とは無意の拳である。拳学心法に「練る時は人なきが如く人ある如く、用いる時は人ありて人なきが如し」とあるが、それはただ心念を転換させるだけである。人がいようがいまいが関係ない、それでこそ正しい。今、あなたは拳を練る時に疲労の心があり、歓喜の心がある。明日練れば何かが少なくなり、あるいは新しいものが現れる。四季を通じてこのようであれば、その歓喜の心は徐々に薄れ、疲労した身体も疲労しなくなる。この時、真のものが出てくる。今は多くの仮想が真のものを抑えている。そのものが出てきた時、相手が手を伸ばして一つ間違えれば負けてしまう。この時、人がいるのか無敵なのか、意を用いるのか用いないのか? そのようなものはなく、終わりである。このように練習すれば、人生の多くのことが理解できる。

拳を練るには心を用いなければならず、心思は必ず拳の上になければならない。このことを非常に重要なこととして扱わなければならない。拳は空で出てはならず、意は空で戻ってはならない。手は動かず、樁の中の意(樁意)を用いる。もちろん、あなたの樁には功夫があり、樁意がなければ、意を用いるこの水準を語ることはできない。樁に意(功夫)がなければ、どのように用いるのか?

意ができてこそ、初めて本当に拳の練習が始まる。意拳はどこから始まってもどこで終わる。意ができた後も、意を捨てなければならない。意は拳の中の単純な一部分に過ぎず、拳の全てではない。拳を練るには無知や自大になってはならず、天高く地厚いことを知らなければ、意が重すぎるということになる。さらに意を取り除き、最後には無形、無意、無相となる。だから、最初の樁は必ず愚直に立たなければならない。何かができれば、意を用いてそれらのものを使うことができる。使い方がすでに非常に熟練していれば、まだ意を用いる必要があるだろうか?無意の意こそが真の意である。この時は自然となり、これが拳を練る過程である。拳は非常に微細で純厚であり、もし正しくなければ、少しの違いではなく、根本的にこの拳ではなくなってしまう。

于鴻坤『大成伝習録華夏出版社より