意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

説説站樁(『跟随王薌齋学拳的歳月』より)

『拳道中枢』には「拳の真髄を知りたいなら、まず站樁から始めなくてはならない』とある。

大成拳は、站樁という練習過程を精神誘導と対応する意念活動と組み合わせて、体質を改善し、拳術の功力を増やし、精神的な気質を変える目的を達成する。

王薌齋先生はかつて「拳学の道には站樁から離れた、他の方法はない。ここにあるのはそれだけだ」と言われた。

私が王先生に拳を学んでいた時、このように話してくれた。「私が十代の頃、あなたと同じように功夫を練習していた。しかし、あなたほど騒がしく多くの花を使ってはいなかった!」。

王先生は晩年にはあまり站樁をしなかったが、彼自身が言うには、若い頃には非常に厳しい練習をしていた。

功夫について話すと、厳格な站樁の訓練を受けていない人が動作をすると、腕は腕、足は足で、物を取ったり動作をしたりしても、身体の勁の連携されず、すべてが局部で、合理的な位置にはない。

功夫の優れた人は、何か動作をしても、身体の力が全く異なり、それが既に習慣になっている。これは車を運転する理論と同じで、運転学校で教えられるクラッチを踏む、ギアを変える、アクセルを踏むということだ。実際に道路で運転していて、何を先にするか、何を後にするか考える必要があるが、考えている時にはもう衝突してしまう。しかし、状況に応じて手足が連動して反応できるなら、王先生が言う「期せずしてそうなり、知らずして至る」という段階に達するのである。

拳を練習する時は、初めに多く站樁を行い、焦らずに軽松な心持ちを保つべきである。毎日の練習では、どんなに痛くても疲れても、心は軽松で穏やかであるべきで、どんなに忙しくても不快でも、多く站樁できれば良いが、例え少ないとしても毎日の站樁の練習を続けるべきだ。站樁をすることで多くを得ることを求めるのではなく、毎日站樁する習慣を身につける。例えば普段は一時間站樁するが、今日は20分だけでも站樁する。それが何回かに分けて行うことになっても、止める理由はいつでも見つかるが、それでも站樁を続けなくてはならない。

各種拳勁はすべて站樁で見つけるべきである。初めは筋肉が硬くなり痛みを感じるが、站樁を続ければ徐々に緩むようになり、その完全性が得られる。私たちの功夫は主に站樁から探るべきで、いくつかの勁の使い方は、站樁で整体勁を鍛えた後、すぐに学ぶことができ、それは本物で偽物ではない。搭手すればすぐにわかる。功夫を積んだ人の勁はより粘りがあり、功夫を積んでいない人の勁は硬く、連慣性が悪い。

站樁ではまず身体の各部位の筋と肌肉の連慣性を鍛え、站樁が正しくできて初めて、動く際に全身を支える勁が出る。だから忍耐を持って大いに努力することが重要である。一部の人は、一日にわずか数分の站樁で人に勝てると思っているが、それは冗談ではないか。

昔の功夫練習は、本来の勁があるかどうかを求めていた。花拳を練習するのではない。

大成拳には套路がなく、一技一招にこだわらず、すべての動作は整体性を重視する。実際には、どんな拳を学んでも、一、二の形式を学ぶのは比較的簡単だが、内包される真髄を学ぶのは表面を学ぶよりもずっと難しい。だから多くの人は表面的なものを受け入れやすいが、内面的なものは一朝一夕には理解できない

私たちの功夫は主に不動中の動に依存しており、間架を不動にしてから、肌肉の関係も含めた身体の筋骨によって、姿勢を保つことが求められる。この方法で、人の整体性をより効果的に発揮することができる。

「筋を鍛え肉を鍛えない」というのは、人の筋骨を鍛えることで、局部の筋肉を鍛えることではない。だから、站樁で手を上げる時、「腕は半円、腋は半虚」となる。この位置で関節や靭帯が伸ばされ、各動作において関節と関節がぶつかることがなく、非常に人体の生理解剖に合っている。恐らく古代形意拳の先賢たちが様々な站樁の経験を通じて、この間架が最も適切であると総括したのだろう。

初期段階では多くの站樁を行い、徐々に手と手、手と頭、手と足、肘と膝、腰の関係を感じ取り、表面的な関係から深く入り込み、さらに体の松緊を控制する関係を感じ取る。

各人が站樁中に感じることは異なり、職業、体質、習慣など様々な要因により、どの部分が最も弱く、どの部分が比較的強いかが変わる。経験豊富な先生なら一目でそれを見分けることができる。

大成拳は站樁によって徐々に身体が受け入れるようになり、この練習は完全に身体の受容能力に合っている。重要なのは、徐々に段階を踏んで進むことである。もちろん、正しい站樁の方法も非常に重要で、例えば站樁中の「提」は、どのように提げるか、站樁の過程で自分をどのように提拉するかという方法も必要とされる。

王選傑口述 王紅宇整理『跟随王薌齋学拳的歳月』より