意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

五行合一(『意拳正軌』より)

五行は生克制化の母であり、万物発源の本である。世俗では五行は、金は水を生み、水は木を生み、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生むという。いわゆる相生である。また金は木に克ち、木は土に克ち、土は水に克ち、水は火に克ち、火は金に克つという。いわゆる相克である。この朽ち果てた論は拳理に近づき難く、拳術が何者か知らないのである。ある拳がある拳を生み、ある拳がある拳に克つという論にも似たものがあり、もし拳理を研究したとしても相手と相対したときにこれらを行う暇があるだろうか? 目で見て、心で思い、その後手を出してこれを制するというのは私には信じ難い。技撃とは手足が至ることであると知っていたとしても、脳力で図り、心意で思い、手を出して着き、技を操りつなぐ、これによって人を制することができると敢えて言うことはない。これは門外漢であって、拳を論ずるに不足している。拳術の五行は言い換えれば、金力、木力、水力、火力、土力のことである。全身の筋骨は鉄石のように硬く、その性が金に属す、これが金力である。いわゆる皮と肉は綿の如く、筋骨は鋼の意である。若い樹のように四体百骸のどこにも樹木のような曲がった直線ではないところがない、その性が木に属す、これが木力である。体が動けば、神龍が空を遊び、勇ましい蛇が水を遊ぶが如くで、水が流れるようであり、どこに行くかは定まらず、活発に従い転じる、その性が水に属す、これが水力である。手を出せば爆弾が爆発するが如く、動けば火が身を焼くが如く、猛烈にただならない、その性が火に属す、これが火力である。全身が満ちていて、土の山のように落ち着いている、意は山岳の重きのようで、どこにも鋭さを感じないところがない、その性が土に属す、これが土力である。ささいな一事一動も皆このようであり、天地を網羅し、六合を覆い、乾坤を塞ぎ、宇宙に内包される性命の学であり、また天地の陰陽である。気を養い、命を修めようとするなら、心意は不動、心は君火、動は相火、君は不動、相火は不生、気念は自平として、念神は自清でなく、神を清めて心意を定める(訳註:『内経』による)。故に一念が動けばすべて火であり、万縁は寂净であたかも生真となり、常に気は関節を鋭敏に通り、自然に谷神で満たされる。動の動は不動から出て、有は無から出て、無は神に帰り、神が帰れば万物は寂となり、物が寂となれば気は消え、気が消えれば万物は生まれない。五種の力を合わせることを五行合一という。まとめれば、不動の時は全身に力が一貫しており、動いた時は大小の関節に上下前後左右百般の二争力があり、全身の渾元力を得たようである。