意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

王薌齋先生の著書『養生樁簡介 』

養生樁簡介の文は1963年6月26日に『健康報』から刊行された

養生の歴史は悠久で、方法は繁多で、鍛錬の方式はそれぞれ同じではないが、全ての目的は病気を退けて延命し、早い衰えを防止することである。数十年の養生の術の学習と鍛錬を懐古し、自覚するのは簡単で、行うのは易く、受益は大きい。これが站樁(養生樁)である。

站樁の姿勢はおおよそ、站式、坐式、臥式、行走式、半臥式などの類型に分けられ、各類型もいくつかの種類に分けられ、数十種類の姿勢は同じではなく、姿勢の種類は甚だ多いが、行走を除いては、全て共通に特徴がある。練功を開始するときは目を閉じなければならず、神を凝らし、気を静かにし、その後静かに姿勢をとるようにし、四肢を一直に保持して動かず、鍛錬を続ける。初めて站桩を練る人は、まずは站式を練習し、站式を開始するときは、両脚を八字形に開き、広さは肩と揃え、両腿は一定の湾曲を保持し、臀部は座っているのに似て、双手を上げ、手を上げた位置は高くても眉を超えず、低くてもへそを超えず、近くても身には貼り付かず、遠くても尺は超えず、腕は半圓、腋は半虚、左手は右に行かず、右は左に行かず、動作の変化は範囲内にある。站樁は毎日二、三回立つことができ、毎回左右を十分ずつから開始し、少しずつ延長して四十分になる。下では站樁の問題のいくつかについて話す。

養生樁的起源和作用

養生樁は我国の形意拳の站樁から変遷したものである。いわゆる形意とは、形が意を取り、意を以て形を象り、意は自ずと形を生み、形は意が転じるのに随う、これが形体と精神の同時鍛錬の一種の基本運動であり、その基本的な作用の一方は中枢神経を休息させることで、一方は血液の循環を促進させて、系統的な新陳代謝を増強することである。中枢神経が十分に休息すれば、調整能力が強化され、血液循環が加速して新陳代謝が増強され、五臓六腑と四肢百骸が十分に灌漑される。全身が潤い、生機が旺盛になり、病を祓って寿命を伸ばす目的を達成する。

養生樁的特点

健身の術は多いけれども、総じて動、静の二種類に分類される。一般的に運動は身を強くして体を健やかにする体育活動で、静功の多くは内在的な真気を鍛錬して、三宝(神、気、精)を充実させ、站樁は精神、形体を同時に鍛錬する方法の一種であり、その主な特徴は練功時に呼吸と意守丹田に注意せず、一般的に姿勢、動静、虚実の調整と適当な意念活動によって、腹式呼吸の要求と入静の目的を達成し、鍛錬中の形式についてはこだわる必要はなく、意念については執着する必要はなく、体力を鍛錬するだけではなく、簡単に行うことができ、行坐臥立はいつでもどこでも練功することができる。

姿勢和時間的掌握

養生樁は静中に動を求め、動中に静を求める功夫の一種ではあるが、初学者は一定の姿勢に基づく一方で、姿勢と時間を固定はさせず、体質の強弱と病状によって適当に調整し、学ぶ者の身体の負担能力を超える必要はない。一般的に姿勢をたびたび変えるべきではなく、神を静にして気を落ち着かせて姿勢を安定させることで、血液の循環を加速を始め、内部の運動がちょうど変化している時は、姿勢が突然一変すると内在的な運動は乱れ、故に先師は私達に注意を促した。「大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動の動は生き生きとして止まない動である」。ただ、内在的な運動の規律を掌握し、形体の変動中に内在的な運動を少しも減らすことがなければ、随意に変更することができ、姿勢の制限を受けない。先師が言うところの「神意が足り、形骸が似るを求めず」の意図はこのことである。練功の時間は学ぶ者が自分で掌握するのが最もよく、軽松を覚え、全身が伸び伸びとすれば、多くの時間立っても良く、疲労、健体、神思が乱れたなら、練習を停止し、無理に耐える必要はない。

松緊問題

站樁は無力の中に有力を求め、不動の中に微動を求め、微動の中に速動を求める運動の一種である。形体はますます松になり、血液循環は早くなり、気力の増長は早くなる。力を用いれば、身は必ず緊となり、全身の霊は失われ、血気が塞がる弊害がある。この種の力量は主に精神的で、無形であり、有形であれば力は失われて、運動の本質を失う。故に先師は私達に告げた「有形は破体し、無形は神を集める」とはこのことであり、形体はできる限り放松し、精神はできる限り収斂し、外形は拙いが、神意は巧みであり、功を続けるものは自ずと会得する。

肌肉鍛錬

肌肉若一は鍛錬の中で一歩進んだ功夫で、これは上述したことと密接な関係があり、姿勢の一点を改変すれば、肌肉の運動をさらに一歩増強させる。もしこの功夫を基礎としなければ、いかなる動作も疲労に耐え、持久する能力を持たない。しかし、肌肉の鍛錬と同時に精神の修養を放棄すべきではなく、依然として形を以て本と為し、意を以て用と為す。このように運動を強化すれば、すぐに疲労を軽減でき、疲労を軽減できれば運動を強化できる。故に鍛錬と休息は一体であるとみなせる。ただ適当に調整し、学者は知らずして持久と疲労に耐える能力を強化し、合わせて注意する。強化の鍛錬と同時に、できる限り大脳と心臓の負担を減少させ、伸び伸びとした力を原則と為す。

調配原則

1.姿勢調配:姿勢の変化は意識の基礎上に建立される一方で、形式は意識を改変することでき、いわゆる「意は自ずと形成され、形は意の転じるに隨う」という基本道理である。調整については、学者の具体的な状況は、高低左右、単重双重の他にはない。頭、手、身、肩、肘、膝、寛などの全てに単双、松緊、虚実、軽重の別がある。どれほど微細なところであれ、全てこのようである。

2.内臓調配:内臓調配の要は意念領導であり、心理は生理に影響し、生理は心理に作用し、互いに作用する。この種の調配は学者の主観を通した後、意念により暗示を与え、必要な時は機体の局部の調配を通じて特定の臓器に直接影響を与える。以上で述べた調配はただ一般的な要領で、初学者向けの提案である。もし功行が久しくなれば、深く会得した後はこの方法は断ち切る必要がある。

克制雑念問題

この種の運動は双重の鍛錬の一種であり、ただ機体の鍛錬であるだけではなく、意念を手懐けることができる。故に、雑念を克制することは比較的重要である。ただ、人の思維内容は広範であり、成人は特に雑念が多く、一般的に雑念を排除するのは容易ではない。このため、養生を学習する多数の者にとって、雑念を排除するのは困難な問題の一つであり、入静を追求するように注意するが、急いで追求すれば却ってわからず、精神の負担はますます増大し、賊が攻め入り、入っては出て、前念は消えず、後念がまた生まれ、このため歴代の養生学者は多くの方法を設け、例えば外寄、内託、固守一処などであり、初学者にとって助けになる。ただ、本人の体験を以て、ただその自然に任せて、克制を加えず、来る者は拒まず、去る者は留めず、情緒を穏やかにし、入静の境界に到達できる。雑念が邪魔、妨害する時、本身は烘炉が治めるようで、宇宙の間の万事万物は悉く焼いて溶かされ、このように往々にして期せずして状況を制して、入静に至る。

以上の紹介はただの参考であり、法に執着せず、自分自身で鍛錬を体験しなければならない。