意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

王薌齋先生の著書『養生樁漫談』

序言

養生樁は内在的な鍛錬の一種の基本功夫であり、一種の養生健身の術であり、同時にその姿勢と動作は全て人身の生理組織の配合であり、ある方面では高級な中枢神経に十分な休息と調整を与え、ある方面では有機体を適当にする鍛錬を与え、同時に病を防ぎ、病を治す効果があり、これは経験と実証がされている、一種の医療の学術ということができ、また芸術的な鍛錬ということもでき、この小冊子は同学の人が手にする一篇で、理解しやすく、発表されている文とは同じではない故に詳解しない。多くの人は口伝心授では短時間で会得することが難しいと知っている故に、私はあえて完全無欠なものとせず、正確を目指すが、更に少しずつ進めていく必要がある。

私の幼い時は病気が多く、医療も薬品も効果がなく、諦めて師について、養生の術を尋ね、各地を外遊して名師を尋ねて友になり、健身と養心の学術と芸術があり、研鑽を怠ることなく、その成果を取り、その粕を取り除いて、広く取って収め、養生の一動を成就させた。平生の師は極めて多く、みな長所があり、共益と切磋琢磨をして、数十年の研究を行い、『内経・素問篇』の要義と拳学の基本功夫を結合させ、互いに研究して用い、ついに養生の梗概を獲得し、術の姿勢は行站坐卧のいずれも可能だが、站樁を主となし、故に養生樁と名付けた。

私の年は七十を過ぎて、身体の他には何もなく、ただ養生の一道の心得が僅かにあり、広く人民に貢献したいと願い、健心と病を治す一種の方法を為した。しかし、我国の養生の学は体系的な文字の記載がなく、古人の遺著の外から散見された断片を取り除き、僅かな口伝心授に頼り、天性の愚鲁を加えて、学識が浅薄である。単純な文字を用いて詳細として、正確な養生樁の説明を具体的にするのは不可能である。この説明は簡単なだけではなく、一滴も漏らさず、欠陥、錯誤があることは免れないので、深望海の同好に指摘してもらい、同学の士に改めて進めてもらいたいと切に願う。

 

第一節 養生樁的来源和変遷

我国の養生の歴史は悠久であるが、書籍の研究が乏しく、文字の記録がなく、偶然に紙片を獲得するだけで、ほとんどが揃っていない。先輩が伝授したことを参考にすると、古代の人類は大自然に毒蛇、猛獣と競走して生存し、戦いの経験を経て変化を積み重ねており、何千年、何万人が参加、研究をしたのか知ることができない。二千年余り前には『内経』の書があり、中医の宝庫として、病を防ぎ治す方法が数多く記載されていた。素問の一篇は養生について伝え、原文は「天地の陰陽を把握し、精気を呼吸して、俗世を離れて神を守り、肌肉は一つのようである(提挈天地、把握陽、呼吸精気、独立守神、肌肉若一)」。文は簡単で具体的ではないが、意義は深く、先哲は『内経』に組み入れた。一方では疾病を予防する養生の術であり、別の方面から見ると薬と針が効果を挙げられない多種の疾病がある。この種の道理は患者を鍛錬し、休養する体育医療で、その内容は静を養うこと、即ち独立守神である。

後漢以前は、文人と武士は静を養う人が多く、行站坐卧で全て功を用いることができ、一種の普通の健身術と成していた。後梁武帝時は達磨が漢の地を教えて回ったが、この時達磨は六十七歳、天竺の国王の第三王子であり、高僧が伝え、東に流れて小伝し、梁武帝は祭文を告げ、洗髓易筋経を伝来させた。唐代は臨済があり、密宗の両派は挿条、柔杠、三折、四肢功、八段錦、金剛十二式、羅漢十八法を相伝し、インドでは総括して柔杠と名づけた。後に分派が生まれては、次々と派が分かれ、枚挙できないほど居士が多くなり、標識が新たに立ち上がり、種類が繁多で、方法が乱れ、異論が混ざり出て、この術が発展しては分裂し、五百年より前に残り物を抱き、欠点を守っていた。宋代の後は、多くが座禅等の法に変わり、門派が代わる代わる出て、互いに相違があり、坐法は自然ではなく、具体でもなく、精華を捨てて粕を取り、ただ達磨が伝えたことを埋もれさせるだけでなく、歴代の先哲の遺産を無駄にして、多くの無形の学術を廃棄したのはことさら惜しむことである。

日本はこの術を信じる者が少なくなく、功を用いる前にまず神を凝らして立ち神思を定め、各方面の提唱と支持を併せて、深く研究して独伝の功夫を造るが、支離滅裂で、ただの鱗と片爪である。

私は生まれてから祖国の遺産、養生の術に向かい、拳学を特別に愛好してきたが、これは幼い時に病気が多かったことと関係がある。青年時代になって養生の要領を理解した後は、一方で師を求め友を訪ね、真摯に学習し、一方では古籍を博覧し、細心に体得し、同時に老師の指導と『内経・素問』に所載されている道理に従い、朝夕と練習を止めず、個人の知恵とその他の条件に制限されるが、欠点は少なく、五十年余りの経験があり、健身と病を防ぐ効果を証明しただけでなく、多くの医療と薬品が効果のない慢性病に対して効果があり、想像できないほどの治療作用がある。

 

第二節 養生樁的意義和作用

養生樁は一種の学術であり、一種の医療体育運動でもあり、この種の運動に参加する人に年齢性別の制限はなく、身体の強弱に関わらず、また如何なる限定もなく、病気があるものは病を治し、病気のないものは病気を防ぎ、運動時は姿勢について意識せず、式の繁簡について注意せず、更に姿勢の前後の順番はなく、大脳を十分に休息させ、肢体を適当に鍛錬する。静中に動が生まれ、動中に静を求める。

この種の運動は神経系統の機能を調整し、血液の循環を促進し、体内を燃焼させ、各種系統の新陳代謝の作用を強化し、調整によって人体の各器官の組織的な機能を回復、強化し、健康を保持し、疾病を治療し、顕著な効果があり、五十年で一人も流弊に行くことがなく、百分の九十は効果がある。この種の運動は人体の吸収と排泄作用を強化し、古人は精華を洗練して、粕を洗い流すと言った。その意義をここにある通りである。これは自力で更生する運動であり、つまり人体とその部分的な機能は生き生きとして止まない効能があり、このように弱い体は鍛錬を経て強くなり、人体の一系統と器官組織に少しでも病があれば、鍛錬を経て病は取り除かれ、健康に回復し、健康な者は更に健康になり、無窮の楽しみに到達するのは容易である。

この種の運動は一般体育とは異なり、鍛錬と休息が統一された運動であり、鍛錬中に休息し、また休息中に鍛錬する運動の方法であり、中枢神経と抹消神経を調整する作用があり、人体の各部を高級中枢神経の支配下で密接に協調させる。

 

第三節 養生樁応注意的問題

養生樁は健身と病を治す運動であるだけではなく、一種の意志を鍛錬する功夫であり、故に養生樁を学習する人はこの種の鍛錬に注意する必要がある。粗暴、焦り、怒り、不安、自責、恐怖、損得の念、幸福思想などは、全て意志と品性の欠如の現れであり、学ぶ者はこれを禁じなくてはならない。

病を治す人にとっては、養生樁は病を治そうとする者は大半の長患いが癒えず、薬物と針が奏功するのは易しくないが、気を自ずと弱らせてはならず、積極的な鍛錬、積極的な治療をすべきで、精神を奮い立たせて、弾力を蓄積して、いつでも反抗して戦う準備をして、病魔を打ち勝ち、健康を回復する。もし失望して悲観し、生気が急ぎ、いささかも振るわず、一暴十寒となり、働いている時も止まっている時も作用しない。医者は病人の心情は愉快であるべきだと言い、養生樁を学習する者はまず心情を愉快にすべきで、虚心になれることは站樁の意義であり、気性に耐え、鍛錬を続ければ、精神は奮い立ち、久しくなれば、自ずと功は病を除く。

養生樁を練るには心神を安らかにし、雑念を取り除き、神を外に溢れさせず、力は尖って出ず、意は形を露にせず、形は破体しない。神態は自ずと軽松となり、意は深く愚直さ、雄大さを蓄え、力量は穏やかで虚霊を要する。動かなければ機はなく、機がなければ志向がなく、虚霊守黙で、万物に応じる。これは平易で近代の道理ではあるけれど、初学の時は理解するのが易しくなく、神意を持って主と為し、枝葉片爪の形式の問題ではなく、意は整体と内部にあり、局部を破壊して整体として統一する必要はなく、外部動作の影響で内部を失調させる必要はなく、渾身軽松を自ずと要し、心をゆったりさせ神を安らげ、大自然のなかで沐浴するの似て、このようにするには運動の前に心を安らげ、神を定め、雑念を取り除くことが必須である。

さらに四容五要に注意が必要である。四容は頭直、目正、神荘、声静である。五容は恭、慎、意、切、和である。人に対してはいつも敬いと慎みがあり、意思は周到で綿密、切実で、どんなことに対しても強硬な物言いにならず、優し過ぎず、これは学者の内心と外見が練功条件を備えることである。意念については、善意に答え、子女の行為、父母の人に対する気立が最も良く、練功方面については、ただ神意が足るのを要し、形骸が似るのを求めず、このように練功して意義があるのである。

養生樁は病のための式であり、人により異なり、病症は同じではなく、神経と筋肉の自然な系統的な訓練と同じではなく、患者の生活条件、習慣、修養、性質などその他の特徴と関わりがある。想定する式の関係により、必ず根拠となる状況は同じではなく、適当な姿勢と運動と休息時間の長短、体の負担の軽重などを考慮し、教える者は十分に状況に応じて、手はずを整えて、学ものは注意を掌握し、慎重に鍛錬し、断たずに継続し、任意に活動する。これが素早く効果を得るための方法であり、鍛錬中に正常でない現象が発生するのを防止する。

初めて学ぶ者は懐疑、幻想を持つか、恣意的に活動するか、拘泥、執着するなどの現象が多いが、須く細心に体験し、充実した体験によって解決することができる。大事なことは古きに学ぶが古きに拘泥せず、謹んで師と法を守り、聡明である必要はないが、愚かな用功である必要もなく、精神は愉快で、筋肉は常に運動する。己の身を離れれば何も求めることはなく、己の身に執着すればこれは全て間違いである。力量は体の外に求め、意念は無心の中に持ち、もし上述してきたように切実に功を用いて、細心に会得すれば、自ずと万変無窮、奇趣横生の妙を得るのは難しくない。

 

第四節 独立守神、肌肉若一的鍛錬
『内経・素問』の天地を提挈し、陰陽を把握し、精気を呼吸するについては大医師達が昔から語っている。私は独立守神、肌肉若一の修養と鍛錬によって補強している。

独立守神は用功の前にあり、まずは想いを準備し、物の初めには泳ぐことを想像し、静により全ての機を捉える意がある。視れば植物のように、外形は不動で、内側は根が生まれ、発展し、順逆、横生的な変化がある。一招一式が断たれれば、完全に破壊されてしまい、局部の運動の方がまだ有益で、長い間に害があり、慢性的に生を蝕む運動となる。

鍛錬の時は永遠に意力を保持して、虚霊挺抜は断たず、伸び伸びした力に得るために軽松均整を原則とする。鍛錬の時は凝神定意を要して、黙って長空に対し、内は清虚空洞を要し、外は中正圓和を要し、同時に心が喜んでいる状態を改め、一切の雑念を洗い流し、一切の情縁を取り除き、静寂に息を整え、内外を温養し、全身の毛孔を大きく放ち、堂の中を風が行き来している感があり、肌肉群は期せずとして空に中身のない袋が掛かるようであり、上は縄で吊られているようで、下は木に支えられているようで、広々とした天に草が横たわるようであり、また水中で悠々と立っているようであり、肌肉は練らずして練られ、神経は養わずとして養われる、これが鍛錬の基本要義である。

凝神定意はどのようにできるのか? 大きな炉で精錬する意念を使い、溶けないものはなく、併せて一切の雑念を吸収し、来るものは溶かし、雑念は自ずと削除され、もし意が雑念を拒絶すれば、一念が去る前に、万念が集まり、精神は分散し、神意は外に向かい、意が定まり神を凝らすことはできない。

鍛錬時はこのような意念を用い、体と大気を呼応させ、自然で自在に整体と本能の作用を発揮し、少しでも恣意的な動作があってはならず、少しでも恣意的な動作と局部の方法があれば、整体と本能の作用は破壊される。この種の運動は人体と本能の学術であり、一法不立、無法不備の意義がある。

鍛錬の方法は簡単ではあるが実際は難しく、初歩の鍛錬は大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動は四肢百骸の一動を体認し、不動でないところがなく、神経は穏定から始め、熱力を保持し、自然に新陳代謝が強くなり、この種の基礎があれば徐々に動を学び、不動の動を容易に学ぶことができ、動は不動の如く、一動一静は互いを根となし用いて、その後大気の圧力に至るようになり、松筋力の作用は一切の平衡の中の不平衡を掌握するのが難しくなく、揺れ動く中枢の動に及び、不動は動に、動は不動に、同時に剛柔、虚実、松緊を備えては錯綜し、表面は動に用いて、假借の一切の動に至り、説明すれば複雑で、姑は語らず、全体は自然に発揮して上が動けば下は自ずと随い、下が動けば上は自ずと率いて、上下が動けば中間が攻め、中間が攻めれば上下が合い、内外は相関して、前後左右全てが相応に動き、以上が各種力の効能と作用の試験で、力は試すことで知り、知ることでその用を得る。

鍛錬は無力の中に力を求め、微動のなかに迅速を求め、一度力を用いれば心身は緊となり、百骸は霊を失い、併せて血流を塞いでしまう弊害がある。この種の力量は精神的、意念的なもので、有形であれば破体し、無形であれば神は集まる。

まず不動中に体得し、再び微動の中で認識し、動こうと欲しては止まろうと欲し、止まろうと欲しては動こうと欲し、動を要すれば止まらなくてはならず、止まれば不動であってはならず、拙さから霊巧を求めるように注意して、平常の中に非常を求め、抽象の中に具体を求める。用功時には全身の大小の関節が全て形曲力直で、神松意緊、肌肉は力を含み、骨の中に棱を蔵し、神は虎豹のようで、気は騰蛟のようであり、神意は樹に巨風が巻きつけるように縦に放ち、地を引き抜き飛ぶように欲し、擰擺横揺の力があり、衝突しても開かず、打たれても散じず、湛然であり寂静であり、その穏やかなるところは山岳の勢のようで、外形は拙く、意力は霊巧で、おおよそは平凡であり、かえって非常となり、抽象から根本を求めず、具体に足りないところを探し、学理は自ずと通り、自然に明らかになる。

肌肉若一は特別で重要な一歩の功夫であり、この一歩の功夫の表面はちょうど別の種類のようであり、実際は以上で述べたように密接に関連している。この歩の功夫の基礎がなければ、いかなる動作も耐労と持久の能力がなく、これは肌肉の鍛錬ではあるが、依然として形を以て本を為し、意を以て用と為し、形によって形を取り、全身に意を注ぎ、精神の内斂を以て主と為す。この種の運動は、運動を強くして疲労を低減し、疲労が低減すれば運動は強くなり、鍛錬と休息は一つであり、適当に調整して、患者が気づかないうちに耐労と持久の能力が増強され、併せて大脳と心臓の負担がへり、伸び伸びとした力に到達するまで行う。

評語:筋肉鍛錬は一歩進んだ研究であり、大部分は筋肉伸展、骨節提縦、形曲力直、神松意緊,筋肉の自然な捋巻、相互若一であり、更に一歩進んだ求力の功能の研究はほとんど形の外にあり、拳学に接近する。

 

第五節 調配方法

一、肢体調配:高低、左右、单重、双重に外ならず、頭手身肩肘足膝胯の各所については無論、全てに単双、松緊、虚実、軽重の別があり、おおよそ微細なところを会得し、他も全てこのようなものである。骨格の支撑や力量の称合、肌肉の関連などの法を使用する。
二、内臓調配:これは神経支配、意念領導、心理が生理に影響を与え、生理が心理に作用し、互いを根として用を為す。
三、時間調配:学者の性情の浮き沈み、体質の強弱を基礎と為し、負担能力を超えず、思想上に煩悶や飽きを生じさせない。

 

第六節 養生站樁歌

養生樁は極めて容易で、雑然と入り乱れたところを深く追求し、用功時は急がず、適当な場所を選び、陽光に満ちて、空気が流れて、水が有り木が有れば更に適当で有り、行走坐卧と站立かどうかに関わらず、内外は放松し、身体は挺抜し、腰と背骨は垂線を直ぐにし、渾身の大小の関節は全て曲に似て直に非ずの意を含む。空洞を守り、清虚を保ち、神を凝らして気を静める。腕は半圓、脇は半虚、身体は僅かも伸び伸びしないところがない。思考せず、力を浪費せず、大脳は休息し、天空が広く虚であることを想像し、情縁とこの世の憂慮を洗い流す。虚霊は独りで存在し、抑揚は寄り合い、酔ったように迷ったように綿々と、水中の宿にいるように笑い、赤子に帰って自然の音を尋ね、平凡で珍しくないが天趣があり、師の法を遵守し、拘泥せず、この辺りを網羅すれば、多くの甜蜜を思い、動くところは水中の魚に似て、真に自在で、先哲と異なるところはない。

各種の力の試験について再び語れば、名称と用途はそれぞれ一つではなく、有形或いは無形であり、有意或いは無意であり、具体、局部、自動、被動であり蓄力であり、有定位、無定位、応用と練習、おおよそ全てが骨に棱を蔵し、筋は伸び、沈託分閉,提頓吞吐、筋絡の鼓蕩はばねに似て、毛の根の意は戟の如く、一面にはまとわりつく旋繞の力を含み、一面は鉄を切り金を断ち、冷決脆快、刀鋏斧、松緊に曲折した路線があり、面積は虚実に分かれ、高すぎず低すぎず、高低は随時転移して、精神は怒った虎のようで、気質は霊犀の如く、身が動けば山が飛ぶのに似て、力の漲るは海が溢れるに似て、この種の学術は珍しいものではなく、全て形を以て意を取り、抽象の中に具体の切実を求める。

 

第八節 基本姿勢

運動の特徴は、運動中に身体の内外の動的な変化、全身の大小の関節がどうであるかを会得し、全てが鈍角三角形を成し、更に平面積は要らず、執着する点がなく、軽霊で渾然として、全身の血液が水の隠れるように循環するのを想像し、水中の木が漂うように抑え、全身は湖の上に空の船のように、ひらめいて定まらず、ただ風力に応じて、自然を聞き、この種の心意の表現は人の振る舞い、正確、天賦、特徴や年齢、体質の強弱、用功の時間の長短、病状の種類に従って同じではなく、当然いくつかの姿勢だけでは表現できない。

このため、この種の運動を説明するには、同じでない条件に基づく必要があり、深く会得し、少しずつ強くしていき、随時調整して、全て具体的な状況に基づき応変する。局部を具体的に作用させれば、鍛錬を経過すればおおよそ有効で、病気が有ればそこを治療するようで、無効なだけではなく、損失の恐れがあり、この一点を無視すれば、精神の力量等は一切不足する。

評語:調整の方法の一つは有形であり、一つは無形である。有形は姿勢、骨格、肌肉であり、無形は無窮で、精神、意念、假想、力量であり、いくつかの姿勢の範囲ではないが、姿勢は神意の代表であり、輪郭に基づいて神意を説明し、故に姿勢も必要であり、この種の運動は完全に図で表現することは、客観的な条件や能力の制限によって不可能である。

 

第九節 練習站樁的体会和常見的現象

各人の身体の強弱と病状が同じでないことに従って、練習過程の感覚と表現もまた同じではないが、一般的な状況では、十日左右を練習すれば站樁は良くなり、練功後に軽松で愉快になり、この種の感覚は練功が進むにつれて増していく。練習の数日後、肌肉が震え始め、酸痛、痺れて膨れるなどの現象が起こり、ほとんどの肌肉の運動が妨げられ、気血が通らず、疲労が過度になり、生理上にその他の欠点がある。過度の疲労を防止するには、舒適に注意して力を得て、力を求めて放松し、緊僵を避け、徐々に気血が流通するようにして、肌肉を霊活にする。以上の現象を徐々に取り除いていけば、疲労からくる規則的な震えを覚えなくなる。これは経絡と気血が閉塞しなくなる良い現象であり、ただ自然に従い、故意に抑制せず、意識を拡大させない。更に、涙が流れる、あくび、しゃっくり、屁、お腹が鳴る、蟻走感などもあるが、これらは全て練功過程の良い現象であり、病気が癒えた後、自ずと消える。

第十節 站樁対各種疾病的療効

站樁は十分に神経機能を調節し、呼吸を調整し、血液の循環と新陳代謝の作用を増強し、それ故に神経系統、肌肉系統に対しての他に、各方面の病症、特に急性から慢性に転移した病症の新陳代謝に対して特に効果がある。

四五十年の経験を経て、その効果は人によって病によって異なり、大小快慢の違いがあり、学びを止めない限りは効果がないことは稀で、病気が癒えた後も継続鍛錬をする人は多く、ほとんどの人が弱を強に展示させ、老いても益々効果を得ている。

文字の記録が欠けているため、過去の経験をまとめることができず、学者の人数や姓名などの統計が取れない。現在、皆の参考にするため、最近一、二年の各種病の站樁治療で得たものを、以下に分類したものを以下に述べる。

高血圧——神経性は成果が出るのが比較的早く、血管硬化や冠動脈硬化などの機能的変化があるものは比較的遅い。
神経衰弱——一般的なめまいや頭痛は治りやすく、効果が出る早さは神経が安定させる能力に基づき、消化不良や便秘を起こした遅くなる。
関節炎——一般的なリウマチ性関節炎や多発性関節炎は治療しやすいが、後遺症や先天性の関節炎は比較すると治療が難しい。
気管炎——気管炎には多くの種類があり、その多くは肺気腫や心臓の喘ぎなどの症状があり、罹患して間もない人は結果が早く、先天性のものはなかなか治らないが、年齢、体質、気質、生活環境などが密接に関係している。練功を続ける忍耐力があり、飲食に注意をすれば、治療、軽減することができる。
肝臓病——肝肥大や肝硬変は、根気よく適当な練功を積み、食事や環境整備に注意を払えば、徐々に軽減、あるいは治癒することができる。
胆囊炎——胆嚢炎を経験した患者の多くは、すでに胆汁除去の手術を受けており、中には肝脾疾患や神経衰弱に転じている人もいる。 過去の何人かの患者によると、練功の過程で病気の症状が徐々に軽減され、治癒の前後の結果で非常に良かったとが、今後も把握できるかどうかは予測が難しい。
肺病——手順を守って正しく根気よく練功を行い、食事や保養に注意すれば、概ね治癒できる。
半身不随——根気よく練功を行い、恒久的に続ければ、一般的には治るか軽減されるが、この病気は再発しやすく、練功を積み一方で、怒りや寒さ、疲労を避ける必要があ流。舌頭手脚の全てが悪くなるようでは、治療が難しい。
胃腸病——効果は良好だが、比較すると時間がかかり、病状が比較的軽いものは三四ヶ月で治るが、少々が重いものは八九ヶ月、三五年などばらつきがある。
精神分裂病、筋肉失和症など——比較的、治療が容易である。
心臓病——患者のほとんどは良い結果を得ているが、この病気の調養は主に個人の性にある。

気質と生活環境が良くなければ、その効果は大きくない。