意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

弁証原則(『意拳:中国現代実戦拳学』より)

拳術は科学であり、理論から実践への科学的検証に耐えうるものである。近年、我が国武術界には、神拳、刀槍が通用しない、壁を通して人を打つなどの反科学的な宣伝が現れているが、これは邪な風潮で左道の旁門であり、遠からずして滅びるであろう。一方で、真理に立つ科学的訓練こそが生命力を持つ。

意拳はその創始以来、唯心論的で迷信を排除し、科学的理論で自身の学術的根拠を充実させてきた。創始者の王薌齋先生は早くから「矛盾老人」と自号していた。意拳の原理原則には、弁証法と唯物主義が満ちている。「松緊矛盾」「動静互根」「推拉互用」「遒放同一」「順力逆行」「斜正互参」「剛柔相済」「進退吸吐」「単双軽重」など、すべて矛盾の対立統一の法則に関わるものである。松がなければ緊もなく、剛がなければ柔もない。開がなければ合もなく、順がなければ逆もない。総じて、これらの矛盾する事物は相反しつつ相成し、一定条件下で互いに転化しうる。意拳の多くの原理原則は、筆墨では表し尽くせない。ここでは単双軽重の問題を取り上げ、簡単に分析したい。

単双軽重は足部のみを指すのではない。頭、手、足、肩、肘、膝、胯や大小の関節においても、極小の力にも単双、松緊、虚実、軽重の区別がある。王薌齋先生は「単重は偏らず、双重は滞らない」と主張し、単双や軽重をこれが正しいと極端に強調することはなかった。意拳の推手には固定の路線、歩法、技法はなく、時に対して独進することもあれば、単出して双回することもある。左が実で右が虚となることもあれば、上が重く下が軽いこともある。総じての原則は上記の「単重は偏らず、双重は滞らない」を要求するのみである。意拳の推手や散手にはさらに重要な原則がある。「形不破体、意不有象、力不出尖」がそれだ。

「形不破体」とは、攻防練習の進退反側の中で、最初から最後まで自身の間架を保ち、均整のとれた予備動作の状態を維持し、状況に応じて発力でき、一気に敵を撃破できるようにすることだ。「意不有象」とは、自身の意図を露にしないことである。「意があれば形に現れ、形に現れれば必ず勝てない」という。行っては戻り、時に剛に時に柔で、矛盾の中で敵は捉えどころなく、常に受け身に陥らせる。そして「力不出尖」は、狭義には力を一方向に専注させないこと、広義には手足の前進後退が自身の控制範囲を逸脱しないことを指す。この範囲内で進んで攻めたり、退いて守ることもでき、舒適得力で、心のままに自在に動ける境地にあり、同時に敵に利用される弊を避ける。

前述の幾つかの矛盾例において、どちらを強調するかは固定した規範はなく、状況に応じて具体的に分析するしかない。例えば松緊の問題、松であるべきか緊であるべきか、どの程度松で、どの程度緊であるべきかは、その時の状況次第である。相手が攻めてきた時に松であれば、防線を突破され、相手に入り込まれてしまう。こういう松は間違いである。逆に相手が後ろに引いた時に松となれば、相手は空となり、自身の重心を崩す。この松は正しい。緊も同様である。

発力時は全身の力を統合し、一瞬のうちに渾身を一緊する。この時緊であることを恐れるべきではなく、むしろ緊が不足することを恐れねばならず、假借で精神状態を刺激することで、より大きな力量を発揮する目的がある。「松緊緊松は過ぎず、虚実は互いを根とする」がこの意味だ。総じて言えば、練習や応用は松野時間の方が長く、緊の時間は短い。松が常態で、緊は一瞬のことである。

姚宗勲『意拳:中国現代実戦拳学』天地図書有限公司より