意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

点、面、線法則(『意拳:中国現代実戦拳学』)

推手訓練と研究において、節、点、面、線の諸法則は不可欠である。

まず「節」の概念について説明する。両腕を例にすると、上腕が根節、前腕が中節、手首までが梢節となる。力の伝達は根節から中節を経て最後に梢節に至る。推手では中節、つまり前腕が対手と接触することが多い。形意拳の伝統的な老三拳によれば、手首から肘までの部分を「鉆拳」と呼ぶ。節の観点から見れば、根節の力は中節より大きく、中節の力は梢節より大きい。そのため、梢節への意力の強化が極めて重要かつ切実な課題となる。梢節が強化され、根節からの力の伝達と協調できて初めて、対手との接触点である中節において力を発揮できる。梢節が弱々しく力がなければ、自らの腕が一節短くなったも同然で、無形で対手の力を強めることになる。

力の伝達は自身の力の伝達順序を理解するだけでなく、その力を対手の身体に伝達することが必要である。そうしてこそ対手を撃破できる。一般に、自身の力は根節から発し、梢節に形作られる。一方、対手に作用する時は、その梢節、中節から根節へと伝わり、身体に作用する。したがって「節」の概念を明確に理解する必要がある。自身の各「節」間の必然の連関を知るだけでなく、対手の各「節」をいかに自身の為に活用するかを研究しなければならない。

推手練習では通常、双方の前腕が交わって搭手の形になる。二直線が交わる所に必ず「点」があり、双方接触部位がこの「点」と呼ばれる。この「点」が双方の力量の大きさと方向を体現する。「点」は双方の短兵が交わる所であり、ここから「聴力」と「指力」の概念が出てくる。所謂「聴力」とは、この「点」の霊敏な触覚で対手の力の方向、大小、虚実を察知し、それに対応して必要な反応をし、相手を制する。「指力」とは「点」における指向の力であり、指先の力ではない。

推手時は常に、どの場所でも「点」で対手の中線を指さなければならない。具体的な形勢がどうであれ、上下や内外、高低に関わらず、常にこの「点」の力量を維持し、対手の中線を指し示さねばならない。双推手の場合は時に二箇所の「点」で指すこともあるが、通常は一箇所の「点」で指力を維持し、左右交互に使う。この指力と「点」の概念は推手において決して無視できない法則である。推手の技芸の優劣も、この「点」の変化の多さと反応の霊敏さにかかっている。防御時、相手がこちらの中線を指す時、「点」で僅かに反らすだけで、相手の企てを落空できる。逆に攻撃時、「点」の動きが霊敏で素早ければ、相手は防ぎきれない。従って推手の研究では、この「点」に多大な労力を注ぐべきである。

二節間の角度を「曲折」と呼ぶ。手首と前腕の「曲折」、前腕と上腕の肘における「曲折」など。「曲折」の構成は重要な課題を提起する。王薌齋先生は「人に勝つのは曲折の変化にある」と言った。「曲折」の論述は推手の技術面でさらに具体的に研究する。

意拳は総じて各関節の曲折に対し「似曲非直」「形曲力直」と要求する。つまり全身の大小関節は基本的に鈍角を構成するということである。こうすれば撑抱力が増し、角度が小さすぎて「くぼみ」の欠陥があれば撑抱力を失い、対手の制御下に置かれてしまう。意拳の推手や散手は腕を伸ばし切ることを許さない。必ず「形曲力直」を保たねばならない。形が曲がっていなければ力が円満でなく変化に乏しく、正面から見れば前後左右の呼応がなく、絶対的な力になり、人に利用されやすい。形が曲がっていれば前後左右どの方向にも力があり、どこでも使える。形が曲がっていなければ必ず「破体」し、力も「出尖」する。このような力は用を為さず、使う前に人に崩されてしまう。腕を過度に伸ばせば怪我の原因にもなる。ボクシングの伸ばすパンチが肘関節を痛める理由がここにある。

「面」の問題に触れると、意拳の站樁、試力、応用はすべて斜面の間架を保つ。外力が斜面に作用すれば、その強度は自然と減少し、一部の分力しか作用しない。

最後に「線」の問題について述べる。上述の通り、意拳は「形曲力直」を要求する。つまり平面的で絶対の力はないということである 。全身の肌肉は「盤中の球が転がる」がごとく、常に停滞がないよう保たねばならない。「力直」とは「力円」とも言え、直線運動を意味するのではない。「力直」とは四方八方に力があるという意味である。 日常で言う直撃も、実際は螺旋を描きながら進み、螺旋運動の中に直線的な力が含まれていると言える。螺旋と直線は矛盾の統一である。外形では分からなくとも、内に螺旋的な力が宿り、波状に前進する。「起手は鋼鎚のごとく、手を返すは鉤杆のごとし」は、単に外形を模したのではなく、精神力の集結を意味する。発せられる力は捻り(=拧)ながら出て、捻りながら戻る。直線運動はごく短いだけである。推手の滾錯、撐擰などの力は、いずれも曲線運動の捻りによる。拳を習う者は打円を学ばねばならず、大円より小円を、小円より無形の小円を、全身の斉動を学ぶべきである。この全ての意、全ての力が、拳を習う者が極中の用を求めるべき道なのである。

打円とは、手腕の動作だけでなく、頭、肩、肘、股、膝、腰、足の打円を意味する。描かれる円環は正円でなく、斜めでもなく、立円、臥円、斜円、楕円、横円、縦円など多様である。直線運動はなく、少なくとも環中の意味合いがある。「出入は螺旋、腰は車輪の如く、脚は鉆の如し」は、この意を表す。強調すべきは、これらはすべて「ただ神意の足るを求め、形骸に似るを求めず」という点だ。その環中の意は意念に宿り、外形にあらわれるとは限らない。外形だけで円を描けば、それは本意ではない。

以上の論述から、推手における節、点、面、線の諸法則の運用が分かる。個別に説明できるものの、実際には節、点、面、線はそれぞれ切り離せない一つの整体なのである。

姚宗勲『意拳:中国現代実戦拳学』天地図書有限公司より