尚氏形意拳
- 登場する先生
- 李文彬
- 内容
- 形意拳をどのように認識し、どのように鍛錬するか(上)
印象に残った言葉
形意拳は、静と動の内外兼修の三体式椿功の操練から始め、形と意の内外併用の動作および套路の鍛練にまで至るが、その中でも相当難しく、かなり強い動きは、筋骨・筋肉に良好な粘りをもたせ、高度な技法を発揮させる訓練である、と確かにいえる
筋を伸ばし骨を引っばる働きと血を巡らせ力をのびのびさせる働きが精神集中という操作の下で、リラックス・自然・協調という技法要求から入ると、確かに良好な体力回復・精神煥発・若干の慢性病治療の効果がある、ということは実践的に検証されている
たとえば、三体式椿功で要求する「精神内守」は、「意」を上肢の梢節—手に集中するとき、沈肩・墜肘の組み合せの下で、関連する技法要求を行なえたならば、手のひらにしびれて脹らむ感じや熱流や気感を生じ、指の関節がジージー鳴動するようになる。これが「意到気行(意が到って気が流れる)」によって起こる働きである
下肢に意を注ぐときは、前膝を張り、後膝を扣し、「龍折身(龍のように身を折る)」の組み合わせの下で、関連する技法要求を行なえたときには、膝関節にだるく痛むような感じや熱流や気感を生じ、膝関節も時にジージーと鳴動する
(三節について)分かれて三となり、各々司るところをもち、各々の作用を起こすが、依然として「三催」勁の働きの下で、手が遮られれば肩・肘がそのまま催し、つまり遮られたところで発勁して打つことができる
六合がないということは、形意の上下相合、内外一体の整勁がないというのに等しい。それは、すぺての動作と技法が発揮できるかどうかという急所に関係している
つまり我々が相手を攻めて行こうとするときは「束身」して進まなければならない。この「束」が「就」でもあり、すなわち蓄力し、相手に接触したら、くっついたように発勁することがうまくできるようにするためである
このため、ある人はこの「強く打ち込んで行けば遮るものはない」という技撃の法が解からず、あるいは「しゃにむにやる」ことであり、冒険的な無鉄砲な行為であると思い違いしている。「硬打硬進」というのは、勁の変化を始め、いろんな特有の技巧を含めた功法である
尚雲祥先生が形意拳を教えるときには、招法について語ることはまれであった。特に「練功・找勁(勁の追求)」を重要視されたが、これはもっともなことである
(中略)こうしてはじめて、慣性を借りず、外力を用いず、自ら発勁し、触れた瞬間に打ち込むという真の腕前が得られたといえる
尚先生は形意拳を教えるときに、「神(気勢)」の運用により、「四梢」の「神」を驚起させ、内五行の「神」を発動させることを協調(注:強調?)された