意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

答疑(1)(『走進王薌齋』より)

問:撑托樁と矛盾樁を立つ時、後脚のどの部位を地面につけるのでしょうか?

答:撑托樁と矛盾樁を立つ時、後脚は全ての足裏を地面につけるべきである。站樁の練習では大歩、中歩、小歩、高勢、中勢、低勢と異なる歩幅を練習すべきである。樁勢の高低によって、後脚に力が入る部位も異なる。後脚に力が入る部位は站樁の歩幅の大小、樁勢の高低と関係があり、後脚の裏の全ての部位を練習する必要がある。言い換えれば、大歩、中歩、小歩、高勢、中勢、低勢を全て練習しなければならない。そうすることで足底の各部位を全て鍛錬できる。站樁の目的は人体全身を全て、徹底的に鍛錬することである。

問:ある拳譜には「筋肉若一」と書かれていますが、ある文章には「肌肉若一」と書かれています。結局どちらが正しいのか、説明してもらえないでしょうか?

答:まず「筋肉若一」の意味を説明しよう。人が動かない時に生じる力は筋から生じる。人が動いている時に生じる力は肌肉から生じる。大成拳は系統的な訓練を経て、この二種類の力を共に習得できる。動かない時に力があり、動いている時にも力がある。動いている時に静力が存在し、動かない時に動力も存在する。このように動かない時に静力と動力が同時に存在し、動いている時に動力と静力も同時に存在し、静力と動力を同時に運用して生じる力を、王薌齋老先生は「筋肉若一」と呼んだ。この種の力は技撃時に妙用がある。敵味方が交手し、二つの力が接する瞬間、動かない状態になる。一般的な技撃術では、この時は動作を変えて二つ目の動作で攻防するしかない。そうすると変化が多くなってしまう。もし静力を備えていれば、二つの力が接する瞬間に相手の力の方向を感じ取り、横竪力の原理を用いて直接相手を攻撃でき、動作を変える必要がない。こうすることで技撃を単純化でき、勝算の把握が大きくなる。

形意拳で言う「横、順、起、落、鑽、翻」は、全て静力を備えた上での産物である。静力がなければ、上記の打法は全て論じることができない。この種の力は養生面でも妙用がある。「気は骨に生じ筋に至る」。気は筋を通してのみ身体の各所に灌漑できる。易筋しなければ、気は四肢末端に灌漑できない。気が四肢末端に貫けば、人の陰陽の平衡が取れ、抵抗力が増強され、病気を防ぎ、身体が強壮になる。「肌肉若一」については聞いたことがない。理屈から言えば、肌肉は局部的な一つの動作しか動かせない。一つの動作には一組の相応する肌肉を使い、動作を変えるとまた別の一組の相応する肌肉を使う。肌肉は若一にはなりえない。これは生理学の常識である。「肌肉若一」は恐らく誤記だろう。

問:大成拳の力とは何でしょうか?

答:これは非常に良い質問である。大成拳の力が何かを理解しないと、大成拳の練習過程で入門するのは難しい。大成拳で言う力は、我々が普段様々な体育鍛錬、生活、仕事で使う力とは概念が異なる。一般的な運動で使う力は人体が緊張状態にある時に発する力である。人は生まれてから、運動、生活、仕事で使う力は全て、肌肉が収縮している時にのみ力が出る。肌肉が緩むと力がなくなる。つまり、力を使うと人は緊張状態になり、緩めると力がなくなる。

大成拳で言う力はそうではない。それは人が松の状態でも力があるということだ。逆に言えば、人が力を使っている時に身体各部位が松の状態にあるということである。

この種の力には二つの利点がある:

1. 非常に良い養生効果がある
人が力を使っている時に、身体各部位が松の状態にあるということは、人の筋が長く、順で、堅であることを示している。人体の筋の変化により気が身体の末端まで順調に到達でき、それによって人体が陰陽平衡の状態になる。長期的にこの状態にあれば、病気を防ぐだけでなく病気を治すこともできる。たとえ病気になっても、急性でなければ、大成拳の練習を通じて医療と併用すれば、病気を治すことができる。医療だけよりも効果が良い。これは既に実践で証明されている。だから大成拳をこの程度まで練習すれば、非常に良い養生価値がある。

2. 非常に良い技撃効果がある
どんな対抗運動も虚を打つ、つまり相手の実処(例えば手、腕)を避けるものである。人の手と腕は最も堅く、最も柔軟な部位で、対抗時には通常これらを使って攻防する。相手の手腕を避けて、相手の頭部や急所を打つのが虚を打つということである。一般的な対抗運動は全て実を避けて虚を打つ方法を採用しているが、大成拳の技撃は実を打つことができる。つまり、どの部位を選ぶわけでもなく、相手の整体を打撃するのである。なぜそうできるのか? この種の力を備えているからこそ、「虚を見ても打たず実を打ち、実こそが虚であると知るべきである。虚実転換の枢軸は、経験せずしては永遠に知り得ない」ということができるのだ。この種の技撃方法は技撃を単純化できる。先人には「人を打つ手は三、二手」という言葉がある。

問:「手が到っても脚が到らなければ、人を打つ妙はない。手が到り脚が到れば、人を打つこと草を抜くようである」とはどう理解すべきでしょうか?

答:「手が到っても脚が到らなければ、人を打つ妙はない」とは、打つこと、相手の急所を打つことを指す。例えば敵味方が交手し、我方が一手で即座に相手の顔面を打てば、相手に勝つこともできるが、妙ではない。なぜなら、この現象で人に勝っても、功夫があることを示せないからだ。功夫のない人でも拳で相手の急所を打てば相手を倒せる。このように人に勝つ拳手は多すぎて、驚くに値しない。「手が到り脚が到れば、人を打つこと草を抜くようである」とは、実を打つことを指す。例えば、敵味方が交手し、こちらが一手で相手の顔面に向かって出したが、相手の腕で遮られ、相手の実に当たった。一般の拳家の言い方では、この拳は既に効果を失い、拳法や動作を変えて再び相手を打つべきだ。しかし功夫のある人は違う。拳が相手に封じられても、横竪力の原則を運用して前に鑽を続け、同時に歩を進め、拳脚が同時に上へ追いかけ、相手を越えて倒す(拳がどの部位に当たったかに関わらず)。たとえ拳が相手の急所に当たらなくても、相手を倒せる。これが「手が到り脚が到れば、人を打つこと草を抜くようである」である。

「手が到り脚が到れば、人を打つこと草を抜くようである」とは実を打つことを指すが、こう言うこともできる。「虚を打つは妙ではなく、実を打つは草を抜くようである」と。どんな拳を練習する人も虚を打つことはできるが、過程は比較的複雑だ。過程が複雑なので、勝負も言い難くなる。実を打つのはそうではない。実を打つのは非常に難しく、誰でもできるわけではない。中国武術を練習し、しかも上乗の功夫を練った人だけが実を打てる。実を打つ過程は単純で、表面的には一、二下に見えるが、人に勝つ把握が非常に大きい。しかし練習するのは容易ではなく、非常に功夫を要する。

中国武術の大家は皆「手が到り脚が到れば、人を打つこと草を抜くようである」ができる。郭雲深はできるし、王薌齋もできる。張恩桐もできる。しかし張恩桐は寸步を使い、郭雲深、王薌齋両先生は整步を使える。整步と寸步の違いはどこにあるか? 寸步では相手が逃げる可能性がある。相手の経験が非常に豊富で、一度手を合わせただけで実力の差が非常に大きいと感じれば、機転の利く者なら逃げられるかもしれない。整步を使える者なら、相手は逃げたくても逃げられない。郭先生は一歩で五、六尺跨げると言われている。一度手を合わせれば、逃げる暇もなく、一歩で相手を越えてしまう。

「手が到り脚が到る」は功夫であり、実を打つことである。手が相手の実に触れ、前に鑽を続け、相手を越えるまで、草を抜くがようである。先人にはまた「人を見れば蒿草の如く、人を打つは行軍の如し」という言葉がある。これも同じ理屈である。「起は横、落は順、起横横を見ず、落順順を見ず」。「起は鑽、落は翻、起落鑽翻である」。これは手を合わせた後、前に鑽を続ける問題を指している。表面的には手が前に鑽するように見えるが、実際は全身全体が前に鑽するのである。この法は形意拳では上法と呼ばれる。上法とは何か? それは手が上がり、肘が上がり、肩が上がり、頭が上がり、股が上がり、膝が上がり、足が上がり、全身一貫し、一上がれば全てが上がり、力が三節を透し、気が四肢末端に貫くことである。「借法は容易く上法は難しい」。借法は虚を打つことしかできず、上法でこそ実を打てる。功夫のない者は実を打てない。功夫のない者は「手が到り脚が到る」ことはできない。「手脚が揃って到る法が真である」とは、拳が阻力に遇った後に再び手脚が揃って到達することを指す。阻力のない手脚斉到(即ち打つこと)は容易で、功夫のない者でもできる。基本的に舞踊の類に属する。

結局のところ、「手が到り脚が到れば、人を打つこと草を抜くようである」の基礎は力が三節を透し、気が四梢に貫くことである。

李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より