意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

龚東先生の著書『習拳筆録』(3)

(三)

一、師曰く「争力と反応訓練は意拳の核心中の核心であり、実はこれは各門各派の拳術に共通するもので、この角度から言えば、天下の武術は一家である。争力訓練では、如何に争うのか? まず二つの争力の問題であり、二つの力が一点で争い、ここから入る。反応訓練では、如何に訓練するのか? それはパブロフ学説が如何に拳術訓練の中で応用され体現されるかであり、根本的には条件反射の問題である。拳術訓練から言えば、一つの完全な条件反射システムの確立は、一般的に45日の時間があれば完成できる」

二、いわゆる超速運動は、このように比喩できる。我々が1秒で100キロメートルの距離を歩けると想像し、今度は1000キロメートルの距離も1秒で歩き終えるとする。これは二つの異なる速度である。我々が1秒で1000キロメートルを歩く速度で100キロメートルを歩き終えるとすると、ここには内在的な変化がある。このようにも理解できる。自然界では光速が最も速く、光が太陽から地球に到達するのに約8分かかるが、我々の神意の動きは、このような時間内に太陽から地球へ、そして地球から太陽へと、このように繰り返し、往復を無数に行うことができる。

三、精神放大の初歩的な練習では、抱いている木が絶えず大きくなっていると感じなければならず、同時に自分自身もそれに伴って大きくなっていく。そのため、天と比べて高くなろうとし、頂天立地や戴天履地の感覚を持たなければならない。

四、放松とは身体の肌肉が緩むことであるが、身体はまだ雲の上の宝樹のように、そびえ立って宙に向かって伸びるような意を持たなければならない。その意は、骨格の支えの問題であり、間架が弛んではいけないということである。久しくすれば、骨と肉が分離し、まるで肌肉が霊霄に掛かっているかのように感じられる。

五、站樁鍛錬の運動量が適切かどうかを確認する基本的な基準は、心臓の鼓動が加速しているかどうか、呼吸が異常になっているかどうか、鍛錬後に余興を保っているかどうかである。すなわち、養生鍛錬者には疲労感がないかどうか、技撃訓練者は少し疲れを感じるが精神状態が良く、すぐに回復できるかどうかである。

六、站樁中に肌肉の震えが発生した時の解決方法:震えが起きた後、両腿に力を入れて数分間、例えば2、3分間堅持し、その後放松して休憩する。これにより、徐々に站樁の時間を延ばすことができる。

七、渾元力とは、我々の前後、左右、上下の意力が平衡のとれた整った状態に達することを指す。いわゆる平衡とは、前後、左右、上下の意力がすべて必要であることを意味する。いわゆる均整とは、一つは均であること、つまり各方向の意力が均でなければならないこと、二つ目は整うこと、発力の中に緊の意思が含まれていることである。ここでの整とは緊である。

八、姚老は著書の中で、「精神を凝重渾厚にし、我を忘れ、恐れることなく、闘志昂揚にし、当たれば即ち砕く概念を持つ」と述べている。この文の意味は、精神面、心理面での準備を求め、そのような精神と心理の素質を備えることである。「平衡守中の均整、渾然一体の渾元力を持つ、つまり刹那の間に身体の各部位を動員して、最大の力を一致して発揮することを求める」という文は、争力訓練について述べている。「神経を鍛錬し、反応を霊敏にすることで、力の発出が速やかで剛健になる」という文は、反応訓練について述べている。

九、站樁における入静の問題について。站樁の入静後、重要なのは同じように意念の活動を維持できるかどうかである。もし単に入静するだけで、拳術に求められる感覚がなくなってしまうなら、それは養生の高級段階に過ぎず、高級な養生とも言えるが、技撃とは関連付けにくい。

十、養生鍛錬の要求:精神集中、周身放松、呼吸自然。技撃鍛錬の要求:精神高度集中、舒適得力、呼吸通暢。両者の要求には大きな違いがある。