意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

健身站樁:第一式(『内家站樁功』より)

第一式

提要

1. 両手をゆっくりと顔と同じ高さまで上げる。
2. 5本の指を広げ、少し力を入れる。これが最も重要で、人差し指は眉と同じ高さにする。
3. 肩を放松すると、気は沈む。
4. 前も後も考えずに心を落ち着けて練習する。最初は立つことから始め、その後徐々に修正し上達させる。

これから站樁について始めるが、最初の数式は多めに説明し、本を買えば提要を見ながら練習でき、空いた時に細かい説明を読んで徐々に站樁の境地を高められる。この站樁功を練習するには、食後20分ほどで良い。起床直後に練習する場合は、何を練習するにしても、まず少し食べる必要がある。総じて、朝夕を問わず、空腹では絶対に練功してはいけない。長期の空腹での練功は問題を引き起こすので注意されたい。

起式は伝統的な太極拳と同様、両足を肩幅か少し広めに開き、両手を顔の前に上げ、頭頂を垂直に、下を向いたり仰ぎ見たりしない。これらは気の通りを悪くするからである。5本の指を広げ、ゴムで軽く引っ張られているかのように、指を閉じないように気血の流れを促す。これは重要な点である。両手を抱いて円の形になるようにし、肘を少し外に推し出し、肩を引き出す。沈肩墜肘すれば、自然と含胸抜背することができる。図1A-1aと側面図1A-1bを参照してほしい。

ここまでで、まだ多くの要求があるが、ゆっくり進めていく。読書しながら学習する心構えで站樁を練習すれば、日々新しい発見があるだろう。

心を静かに、気を丹田に沈める。気分が乱れている時は站樁を控えなければ、かえって煩わしくなるだけである。その場合は太極拳の練習で、気を紛らわせるのが賢明だ。呼吸については、普段と同様に自然に任せる。息を整える必要はなく、呼吸法などという戯言を信じてはならない。呼吸を無理に調整したり、意識的に呼吸を操ると、犬の命さえ助からなくなるかもしれない。呼吸は自然なものなので、関与する必要はない。本派の站樁の最も貴重な点は、呼吸に干渉しないことだ。一生涯、呼吸に干渉しようとしてはいけない。

次に体の要求について述べる。鼓勁も挺勁も必要なく、各部の姿勢を作るだけで良い。徐々に変化が生じるだろう。站樁には馬歩があり、少し腰を落とし、膝を少し曲げ、足底に重心を落とす意識がある。この時の重心は足底全体に分散するが、足底の面積が大きいので力が入りやすい。これは日常の踵への重心とは異なる。こうすることで下肢の作用を引き起こせる。踵中心と足底中心の違いを比べてみてほしい。足底重心なら、整体感を掴めるはずだ。本人の教え方は要点を自分で見つけること、型どおりに真似るのではなく、独自の思考方式を身に付けて自己を師とすることだ。世間の名師の戯言に惑わされる必要はない。私はこの道を歩んだので、皆さんに前車の鑑としてお伝えする。

話を站樁に戻すと、足は曲がっているが体は垂直である。側面図1A-1bを見れば分かる。この図で分かるように、私の中盤はとりわけ豊かである。これは武術の丹田を鍛えた功夫の賜物だ。皆さんもまだ時間がかかるだろう。功夫の練習はエベレスト登山のようなものだ、一歩一歩進めていく。

武術における丹田を修得する前に、その障害について述べる。生徒にはほぼ皆この現象があるので、第一式で注意を促す。入門したばかりの人や、ある程度站樁を続けている人でさえ、この間違いを犯す。それは力を背中に入れてしまうことである。人は無意識にそうなりがちだ。背中に力が詰まり、中盤に下ろせない。上半身がどんどん発達するが、力は中盤に届かず、武術における丹田は鍛えられない。このように、たとえ功夫になっても、気団や気軸を作り出すところまでは行かない。私が本書で教える站樁法は、一般の站樁を超えた境地に至る。馬派八卦掌の気勁の観念を取り入れているのだ。つまり、第一式からして、背中に力を入れないよう注意を促す。力を無くすくらいでも構わない。背中に詰める必要はない。站樁から生まれる力が水のように下に流れ、中盤に力が留まるようにするのだ。やがて武術における丹田は鍛えられていくはずだ。遠くにある目標で分かりにくいかもしれないが、注意が必要だ。私の站樁法が他と大きく違うのは、この武術丹田の修練にある。これは馬派八卦掌からの観念だ。

次に身体の形態については、まず垂直に立つことが重要で、正立のように真っ直ぐではない。脊椎は実際に少し曲がっているからである。背中の両側を見て、全身の肌肉と一緒に考える必要がある。まっすぐな肉の柱のようでなければならず、内外を兼ね備えていなければならない。これは気が下に下がるかどうかとも関係している。体が垂直でなければ気は下がらない。身体がくぼんでいれば、気は上に逃げるか詰まってしまうが、極端に伸び過ぎても気は籠もってしまう。つまり、中庸の道を得て、武術の丹田を鍛える指望があるのだ。中国の功夫は中国の哲学と関連しており、調和を重んじる。対して西洋は力の極端を追求し、方向性が異なる。側面図1A-1bを見ながら、この文章を読むと分かるが、站樁で最も起こりがちな間違いは挺腰、翘(=浮き上がる)臀である。初心者ならほとんど避けられない間違いだ。人は疲れると必ずそうなる。常に正し、まっすぐに立つか休憩を取るくらいがいい。挺腰、翘臀してしまえば、全てが崩れ去ってしまう。また、極端に腰を反らせすぎるのも間違いである。

故意に力を入れて背中を膨らませたり、尻を突き出してはならない。含胸抜背しようとする人は、両手の架子を前に押し出して過剰な力を入れ、背中が膨らみ、力が背骨に集中してしまう。そうすると気と力が中盤に下がらず、背中の筋肉ばかり発達し、腰腹の中盤は発達しない。また柔和な霊動ができない。これは行き過ぎた矯正であり、意識が上半身に集中してしまう重大な誤りである。多くの站樁の練習者がこの間違いを犯している。特に上方の第一式、第二式、第五式、第六式の樁がこの間違いを起こしやすい。両手を伸ばし、沈肩墜肘し、架子は円を撑抱しする。意を用いすぎれば過剰な力が入り、背中が膨張してしまう。そうすると力が背骨に集中し、死んだ力となる。これは行き過ぎであり、新しい生徒や古い生徒も少なくない。何度注意しても改めない。だから私は授業料を取り続けている。この間違いは起こしやすく、気づかずに起こし、正しいと思い込んでしまう。抜背撑円さえ知らない人より悪い。間違いがあれば直ちに、自分で反省し、間違うくらいなら何もしないほうがましである。そうすれば軌道に乗りやすい。

太極拳の抜背は、背中一面の勁を引き起こし、腰椎下面まで直接つなげることである。これは勁法についての指摘で、大半の人は背中を膨らませる形式を抜背と勘違いしている。上背部は円で直線的に垂れ下がり、肉の柱のようでなければならない。背中は窪んでいてもいけないし、膨らんでもいけない。下半身とつながっていなければならず、それが一つの整体となる。この局所的な引き伸ばしの誤りは重大で、一方では拳を打つ際の力の均一性に影響する。中国の功夫の力の出し方は調和の取れたものであり、大きな力を求めるだけではない。もう一方では、内なる功夫の修練にも影響する。なぜなら内気には上に行ってしまい、これは前述の武術の丹田に関係して、将来の達成に影響を及ぼし、気団の修練の境地に達することができない。この気団構築の意識は私が馬派八卦掌から採用したもので、他所では見られない。站樁功の練習は全体が互いにつながっており、最初の站樁でこのような認識を与え、練習を重ねるうちに、徐々に実際の体得ができるようになる。

注意すべき別の点は、前腸骨と大腿がつながる部分に明確な曲折があることだ。曲折があるからこそ樁と呼ばれる。現在この間違いを犯す人が最も多い。これは要点であり覚えておく必要がある。また、画像を確認すると分かる。正しく練習すれば、功が得られ、脊椎骨を解放し、骨力と神経中枢への負担と緊張を軽減でき、これは健康に良い。一方で、脊椎骨への負担が軽くなれば、背中、腰、胯の筋肉が体重を支えて発達する。私の図を見れば分かるだろう。脊椎骨が解放されたからといって、怠けているわけではなく、かえって活用されている。脊椎骨は体重の圧力に耐える必要がないため、肌肉の動力に呼応して、骨の弾力を発揮できる。チーターの全速力走りは脊椎骨の弾力によるものだ。この骨力は上級の武功だが、上級でなくとも、脊椎骨が柔軟であれば全身が霊活になる。年をとって腰椎が硬くなると、脊椎の伝動機構が詰まり、動作が不霊になる。

両手をゆっくり胸の前で上げ、掌を顔に向け、肩より少し高く、人差し指と眉頭が同じ高さになるよう図1A-1aのようにする。指を大きく広げるが、内側に力を込め、軽い気球を掴むようにするか、プロのバスケット選手が片手でボールを掴むように、指を大きく広げながら内側に力を込める。このことは言葉だけでは実現できない。指の間にゴムが張られているように感じ、力を入れて指を広げ、指先を内側に曲げる。指は無理に伸ばさない。これが一つの方法だ。站樁の初期練習では、車の中や暇な時間に、指を広げたり閉じたりして、各関節を鍛えるのが良い。このように反射と肌肉の力量を鍛え、しばらく練習すれば指を広げる条件が整う。指は全身の梢端であり、指先まで気血と力を通せば、全身に行き渡る。韓系の站樁は特に指を広げることを重視し、韓師は我々の樁勢を調整する際、まず指を広げさせた。指を広げれば全身の気血の運行につながるからだ。次に胯部と膝を低くする。姿勢を低くすれば功夫が身につく。南北の功夫は馬に立つ低い苦行であり、低いからこそ功が得られる。ただし極端に低すぎると硬直しがちで、気血が通らなくなる。

両手を上げた後、前腕を少し外側に捻り、手のひらを正面に向ける。肘は自然と下に垂れる。両手は丸く抱えるような架式で、この捻りによる内部の相互作用力が生まれる。手の力で丸く張るくらいがちょうどよく、余裕を持たせる。胸が締まるほど力を入れ過ぎるとよくない。この7つの樁姿勢はみな同様である。樁姿勢には内部に矛盾する力があり、相互作用が生じる。楽な構えではなく、ある程度の力が入り、時に松で時に緊であり、活発な練習が必要である。

手のひらの5本の指は斜めに向かい合い、手首は少し丸める。側面図1A-1bを参照すること。肘を前に出し、関連部位の位置は図を参照する。肩と肩甲骨を引き出すが、肩は上げすぎない。両手を同時に前に出せば背中は膨らんで円になるが、肘は下がる。ここに矛盾があり、引っ張る力が生まれる。頭頂は真っ直ぐ、あごを少し引く。これが上半身の中盤で、柱のように真っ直ぐだが、挺腰、翘臀であってはならない。腰から大腿にかけては明確な曲折がなければならない。これは重要な要求事項である。

このようにすると気は自然と下腹部に落ち、呼吸も自然となる。無理に気を下げたり調気したりする必要はなく、そうするとかえって気が滞ったり乱れたりする。調気を唱える者は白骨精であり、あなたは三蔵法師ではない。そうすれば早々に白骨精に連れ去られてしまう。私は孫悟空に学び、三回白骨精を打ち据えた。私には孫悟空の腕前はないが、この世の妖怪は打ち据えられる。自然な呼吸こそが韓系の樁法の最高の呼吸法で、最も素朴で、道家の道気やいわゆる科学的思想による汚染を受けていない。意識の仮借や抽象的操作、意識的操作などによる心理状態の歪みもない。我が門の樁法は、武術の基本を純朴に守り続けており、まさに貴重なものである。純朴こそが養生の基本原則なのだ。生命そのものが純朴で自然なのに、奇矯な行為は人為的なものだ。我々は乱れを正し、元に戻さねばならない。

下盤は、この要求を満たして立てば、大腿に自然に力が入り、膝と足底に力が下がっていく。站樁は動かないように見えるが、実は力の流れがある。ここで膝、小腿、足首に力が入っているか確認する。力は一か所に固定されているのではなく、腰臀部から大腿、膝、小腿、足底へと流れている。水のように流れている感覚が、日々の練習で身に付いていくはずである。一般の武術や太極拳の練習者の多くが、馬歩の構えで下盤を死んだように固定してしまう。力を入れすぎて硬くなり、これが功夫だと勘違いしている。しかし、それは死んだ力に過ぎず、訓練とは程遠い。気をつけなくてならない。

初心者にはすぐに気の流れが通るわけではない。神経の指令、肌肉の反応に遅れや止まり、荒廃した箇所があり、気血が滞るのは当然である。練習によって機能を取り戻していくのである。最初はなかなか思うようにいかないが、目標に向かって進み、常に感覚を確かめることが大切だ。少しずつ感覚が出てくる。一か所一か所練習を重ねれば、手の先まで温かくなり膨れ上がる。体も心も活気づき、別人のようになるはずである。上記の指示通りに站樁しなければならない。1つの樁につき約5分間、時計を見ながら練習するのがいい。基準を設けないと、短く感じて長く練習できない。辛酸甘苦は次々とやってくる。站樁功は最初は苦しいが、最後は甘い。短期的には疲れるが、長期的には健康になれる。以下、第二の樁に移る。

涂行健『内家站樁功』逸文武術文化有限公司より