意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

子午樁(『心意大成拳』より)

子午樁は大歩斜樁で、劈拳樁の正向正勁とは異なる。劈拳樁は前後勁を主とし、横勁は補助的なものを求める。

一方、子午樁は横勁を主体とし、姿勢は前後が比較的均等で、整体の勁を求めやすい。また、この樁は平樁の含意に近く、ただ一正一斜という違いがあるだけで、平樁の体を斜めにし、大きく一歩を踏み出せば、姿勢が大きくなり、この樁の勢に近づく。そのため、站樁功の練習者は平樁の後にこの樁を練習する。しかし、最近の站樁功の練習者は、しばしばこの樁を飛ばし、直接渾元樁を練習するが、韓星垣先生の伝授された功法では、そうしないどころか、この樁を主要な功法とし、渾元樁よりも重要視している。その理由は後の技撃桩の節で論じる。常志朗先生も王先生の晩年の伝授を受け、この桩式を主体としていた。勁もこの式樁から求められ、この樁が入勁求勁の最良の法門であることがわかる。しかし、かなりの苦労が伴うため、現在では大成拳の門中ですら練習者が少なくなってきた。伝承が途絶えないよう、故に一節を設けてこれを解説する。

子午樁の起式は三体式と同じで、まず上撑式を紹介する(図4-3-1a参照)。初期の練習時の足の広さは三体式と同じだが、功力が付いてくると若干広げてもよい。本節の図は比較的広い形象を示している。足を開き体重を後足に乗せてしゃがむと、身は後ろに捻じれ、重心は主に後足にかかる。劈拳樁は後足の頂勁が比較的多いが、この樁は沈坐勁が比較的多い。ただし「比較的」の字に注意が必要で、勁の使い分けは絶対的なものではない。さらにこの樁では胯臀部の横扭裹の勁が比較的多く、躯幹の中央に包まれる意味合いがあり、股胯は撑開勁があり、つまり胯骨は太腿を押さえつけ、股胯は撑開する。

前膝は前に押し出され、後腿との間に引き裂かれる感覚がある。両脚底は地面を捉え、松緊を調整する必要がある。争力に反して人が浮き上がってしまっては、気が下がり反発しにくくなる。初めて練習する際は、胯骨の弾力不足、つまり功夫が至っていないために、ある一定の姿勢を支えられるだけで、動作を支持できる状態には至っていない。そのため、一旦動作すると平衡を保つために上体が反っていてしまう。したがって、静中の争は大動より小動が良く、小動より不動がより良い。これは徐々に進む段階であり、意識や想像だけでは達成できない。ここで言う活動とは、外表の形態ではなく内在的な活動を指す。小動より不動というのは、外表の形態の動きではなく、引き起こされた内部の活動のことで、内部に活動があれば、功夫は絶え間なく生まれる。現代の意拳の站樁を行う人々は、韓嗣煌のような理論家さえも、普段は功を練習せず、頭で臆測するだけで、站樁功の要訣を文字通りに解釈するので、間違いばかりで迷っている。彼らが書物を出版するので、更に災いを広げている。意拳の弊害はこの「意」の字にあり、欠点は勝手な思い付きから生じている。

両手は平樁の第五式のように上げるが、体が斜めになっているので、前手は撑出してやや多くなり、後手は少なめになる。両手の間は綿を引き裂くようで、手も提抜勁がある一方で、体の下沈勁との間に矛盾が生じる。これも矛盾から活気を求める一種の含意である。肘、肩、背中の要求は平樁第五式と同じだが、体が斜めになり勢が下がるため難度も増し、したがって矛盾も増える。王薌齋先生が自ら「矛盾老人」と号したのも、この矛盾が彼の拳学にいかに重要な位置を占めていたかがわかる。前手の手首は前足の甲の位置と呼応し、後手は後膝と呼応し、互いに引っ張り合う勁がある。手の位置は力の入り具合で前後上下に調整できる。前腕の下から前方を見るが、頭は上げず、あごは収める。姿勢は大きくとも、含胸抜背し、手は提抜するが気は下沈する。初期は姿勢を低くしすぎて苦しまないよう、気は上へ向かうが、全体として「舒適得力」の四字から離れてはならない(図4-3-1bの後側面図を参照)。

子午樁の上式には内外二式がある。上記は撑式だが、内式では両手を返して図4-3-bのように掌を内側に向ける。唐装の写真ではこの式をしていないが、前年のジーンズの写真にはある。これが抱式で、掌を内側に抱え込む意がある。つまり、提抜から樹を揺さぶる動きへ変化し、下肢の力も下沈から上提へと変わり、揺さぶる力が加わる。これらの力の操作は、大動より小動、小動より不動を心がけ、不動の中にも十分な意思を持ち、その中でも調和の取れた適度な動きが肝心で、姚宗勲先生の言うような、木と一体となったような微動を会得しなければならない。

子午樁の内外二式は、手掌の向きが逆になる以外は外形は同じだが、全体の用意は正反対になる。したがって大成拳の勁は、外形の僅かな変化が内部の大きな変化を引き起こし、実際の運用では人を驚かせる効果がある。両手を合わせ、両足を挟み、前面の体幹も空洞ではなく何かで満たされた感じがあり、払いのけても押しつぶせない。また、体幹には粘着力のようなものがあり、拘束されているかのようだが、一方でそれを脱して自由に発揮できるよう努める。内と外の争いである。他の樁法の練習でも、子午樁の下式でこの精神を仮借できる(図4-3-2a)。これが撑式で、歩法と身法は上式と同じだが、手は下げて大きな気球を押さえるようにする。この気球は弾力と波動性があり、手で押さえつつも離れず沈めず、力は手先から出すのではなく、腰胯、腿の弹簧の作用によって操る。まるで虎がハエを誘導するようで、感覚は微妙だが、力量は大きく深遠で、この境地に至れば何事もうまくいくだろう。この下按の子午樁は、裆胯の下沈包裹勁に重点が置かれており、上下二式の写真から用意の違いが感じ取れるはずである。子午樁下内式は提抱式で、ジーンズ姿の図4-3-dのようにする。外式から手のひらを返して上を向き、無形の重りを抱え込むように、脚や手で上提抱の勁があるが、全体の勢は重りを負ったように下沈し、頭頂に力が籠り、腰背が上抜して矛盾の勁が生じる。足底は地面を踏みしめ、拘束から抜け出そうと蠢く気配はあるが、樁式は動かず、動けば静止の意思を持たねばならず、動作は静止のようで、四方の平衡を均等に支えられねばならない。

子午樁には上下内外の四式があり、左右に練れば八式になる。最も力がいるが、最も勁を長くするため、技撃を練習したい者はこの樁に力を入れるべきである。一般的な練習順序は、先ず上外式、次に下外式、向きを変えてもう一度、その後内式を練習する。

この樁は特に力がいるため、以前は外式か内式のどちらかしか練習しなかった。私の経験からすると、上記の内在的な意義に気を付けずに長く立っても、整った架子を身に付けられ、人に打たれても散らず、自分も容易に人を打てない。つまり、架子が崩れず勁も出せないのである。だからこの樁を練習して整勁ができた後、徐々に形勁を解き、体の各部位を別々に動かし、内勁は繋がっていて、相互に呼応し合う。そうしてこそ実践に移せるのだ。この点について、かつて趙道新先生に質問したことがある。「功を練習する際、整体を求めるべきか」と尋ねると、「正反対で、分けて練習するべきだ」と答えた。つまり、この境地のことを指していた。

樁法で整体を求めながら、一方で分けなければ役に立たない、これは矛盾ではないか。拳を練習することは本来矛盾だ。王薌齋先生が「矛盾老人」と号したのもそのためだろう。しかし功夫の矛盾は抽象的すぎて理解しにくい。具体例を挙げると、地面に竹を立て、その先端を引っ張ると弾力が生じ、これを人を打つのに使えるのが弓勁の基本だ。しかし竹が地面に根付いていなければ、振るたびに根元も動いてしまい、上の力は弱くなり、ひどければ振り回されて根こそぎ抜かれてしまう。つまり上の動きは、反対側の完全な静止に根ざしているのだ。これが矛盾であり、物理学でいう作用と反作用の法則に他ならない。矛盾は陰陽の伝統的な言い方だが、非科学的な説明と仏道と同じ言葉を使ったため神秘性が生じた。しかし実際は作用と反作用の法則で、神秘性はなく、科学に反するので誰も欺けない。私たちは科学的な姿勢で中国武術を見る必要がある。これ以上お互いに欺き合ってはいけない。

涂行健『心意大成拳』逸文武術文化有限公司より