意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

姚承光先生の著書『姚承光先生談意拳推手』

1、推手実戦の際は、自分を虎だと想像しなければならない。精神を高度に集中させ、常に相手の攻撃に備え、心が粗く意が大であってはならない。虎に直面して、一瞬でも油断すれば命の危険に直面することを想像してほしい。

2、推手の際は、両手がまるでマムシが体に巻きついているかのように想像し、相手が身を逃そうとするのを難しくさせなければならない。

3、推手で発力をする時は、「驚炸力」がなければならない。つまり、相手に一定の振動を与え、勁は冷、脆、猛がなければならず、まるで爆弾が爆発するようでなければならない。

4、推手は二人の試力とも言える。相手からの圧力の下で、自分の力量の平衡を守りながら、常に相手の平衡を破壊したり、抑制したりしなければならない。双方の絶え間ない変化の中で、身体の位置が常に移動する状況下で、相手の平衡を破壊したり、相手を抑制したりした瞬間こそが「発力の機」である。

5、推手の際は、ひたすら攻撃するのではなく、控制を学び、控制の中で攻撃の機を探さなければならない。

6、推手の際の力量は均でなければならず、その均の中に千変万化が含まれている。

7、訓練方法が異なれば、異なる効果が生まれる。我々は正規の出身者であり、系統的な強化訓練を経て、意拳のさまざまな功法に対して深い理解を持っている。

8、推手実戦はすべて環と環がつながっているようでなければならず、まるで連環砲のように、人々が対応しきれないようでなければならない。

9、推手は化勁の過程においても、依然として相手に対抗(=頂)しなければならない。もし腕が使えないのであれば、身体を使って突き当たり、押さえつけ(=頂)なければならない。相手があなたを押さえつけている(=圧)時、あなたは押し返してはいけない(=頂)。むしろ、力の方向を変えて相手を化し、同時に攻撃の機会を探さなければならない。この時、動作は速くなければならない。もし動作が遅くなり、停頓する時間が長くなれば、相手に制御されやすくなる。

10、意拳は力量の変化と松緊の協調統一に功夫があり、瞬時に力量の角度を変えることができる。実戦の勝敗は瞬間にかかっている。

11、推手の際、あなたが下に押さえつけて(=圧)相手を押さえつけている時、相手が突然変化してあなたを押してきたら(=擠)、あなたは必ず下座し、同時に間架を崩さないようにしなければならない。下座は、ただ座り込むだけではなく、下に座り込む時に一種の緩衝力を形成して相手の力を解消することであり、ばねのようなものだということを忘れてはならない。下座りで相手の力を緩和すると同時に、間架は必ず崩れない勢を保ち、その後、さまざまな変化を加えなければならない。推手が受動的な状態にある時、下座できる人が勝つのである。

12、推手の際は、正面からの攻撃と防御だけでなく、側面からの防御と攻撃にも注意しなければならない。相手が技術を運用して側面を攻撃してきた時、必ず側面の争力を学ばなければならない。推手の際、側面の争力は非常に重要である。

13、推手の際、全身は一つの整体であり、腕はマムシが巻きついているようでなければならない。

14、技術を向上させたいのであれば、推手の中で多く模索しなければならない。こうすればいいのか、これではできないのか? なぜできるのか、なぜできないのか? 技術は上達したが使えないということは、功力にまだ付け加えるべきものがあるということを示している。

15、推手は二人の試力であり、二人が運動、対抗、および相手の攻撃に抵抗する中で、渾円力を探り続け、同時に散手の際の不足を補う。手が近づいたり、遠ざかったりした時、どのように調整するかを、急速な変化の中で、依然として充実した渾円の状態を探さなければならない。

16、太極拳の「聴勁」、意拳の「摸勁」はいずれも基本功の渾円力によって感じるものである。摸勁の一つ一つの点において、歯車の歯と歯がかみ合うように相手を効果的に制御しなければならず、空転してはならない。

17、推手の際、二人が搭手した時、もし相手がうまく控制できていなければ、私は直接攻撃すればよく、打輪する必要はない。打輪するのは、私が相手の点を見つけられず、しかも相手が強大な攻勢で中線に迫ってくるからであり、相手を効果的に控制して自分を守り、相手を攻撃する機を見つけるために打輪するのである。したがって、打輪は過程に過ぎず、最終目的ではなく、最終目的は相手を攻撃することだと言える。意拳の推手は直接攻撃することであり、打輪は攻撃のためのものである。例えば、船で川を渡る時、対岸に着いた後、船はもう必要ない。もし川を渡った後もまだ船を引きずっているとしたら、あまりにも徒労ではないか?

18、推手の際は、全身の力量で相手に抵抗しなければならない。渾身のあらゆる部位が打撃点であり、あらゆる部位が整体である。手を掴まれたら手首で発力し、前腕を掴まれたら前腕で発力する。全身で発力することが求められる。力量は全身のどの部位にも素早く集中でき、整体となって外に発せられなければならない。

19、単推手は最も基本功を重視し、また最も基本功を体現することができる。ただ一推すれば変化し、一変すれば間に危険が生じる。気勢においては、コブラのようでなければならない。

20、双推手は、変化がより豊富である。一つ突かれたら(=頂)変化し、私は主動的に放棄し、相手と硬く突き合わない。放棄の目的は、より有利な機会と位置を選択し、より良く相手を攻撃するためである。

21、単推手の際は、前腕の中点で搭手しなければならない。これが搭手の技巧である。

22、意拳の推手は熟練さを重視し、瞬間の変化にあり、自然と条件反射から生まれるものであり、完全に本能的な反応でなければならない。

23、意拳の勁は直接的なものではなく、あらゆる面の力量は変化に富んだ六面体の渾円力である。

24、実戦の際、全身の勁力は鞭を振るうようでなければならない。

25、拳拳服膺とは、拳術の力量、方法を掌握し、拳術の原則と原理を理解することを指す。原則と原理があれば、多くの分岐したものを演繹することができる。

26、推手の際の各種の発力は、相手の勁、つまり相手の感覚と相手からの圧力を「聴く」ことに基づいて発せられるものであり、自分が勝手に発するものではない。

27、推手は双方が変化の中で対抗し合うものであり、多角度から力を出して相手の平衡を崩さなければならない。

28、推手の中で、ある人はある点に力があり、この点を「強点」と呼ぶ。しかし、一旦その強点上の方向を破壊すれば、その力はなくなってしまう。

29、「一力降十会」は非常に正常なことである。相手の技術が全面的ではないとしても、もしあなたの力量が足りなければ、相手は依然として力量であなたに勝つことができる。

30、本当の推手は芸術的なものであり、自分でも妙を完全に理解できない。なぜ突かれると(=頂)重心が崩れるのか? なぜ相手の重心を掴めないのか? これこそが功夫であり、学問なのだ。

31、推手の中の素早い変化は、站樁などの基本功と臨場の経験から生まれる。

32、推手は変化に富み、非常に残酷なものである。主動的な変化、左右への迂回などの戦術は、長期間指導しないと、動作が変形し、技術は向上しない。推手は知恵型であるべきで、推手を練習するには、まず定歩で打輪し、次に走歩で打輪し、さらに初歩的な変化を行い、最後に随機随勢であるべきである。両手は常に相手を控制し、常に相手の勁力を探り、相手の攻撃に抵抗しなければならない。推手の練習は料理をするようなもので、まず油を入れ、次に野菜を入れ、調味料を入れる。一歩一歩やらなければならず、いきなり変化してはいけない。打輪さえ上手くできないのに、どうして変化の話ができるだろうか。急いではならない。地に足のついた精神を持たなければならない。

33、推手で発力する時は、必ず脆、短、猛、疾でなければならず、迅雷のように素早く耳を塞ぐ暇もない。

34、推手では、あらゆる点で平衡が求められる(力を一方に集中させてはならない)。相手が圧力をかけてきた時、接触点で相手に半斜面を与え、相手の一部の力を空振りさせ、その力の方向をずらさなければならない。意と力の方向の変化、歩法、身体の移動、前後左右、重心の上下を用いて、相手の攻撃を破壊し、同時にこれらの変化を用いて相手を追い詰め、練習の中で初めて力の瞬時の変化を徐々に深く理解することができるのである。