意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

如何正確調動運用本能力(『以拳演道:大成拳精華』より)

極緩の功は試力である。我々は、どんな拳法を会得し、どんな力学の知識を掌握していても、最も根本的な制敵の要因は第一に力が大きいことであり、そうでなければ、あらゆる技巧は無源の水と化す。そして力を増す法は皆、外力の刺激を借りねばならない。正に阻力が大きければ、作用力もそれに応じて大きくなると言うものである。それでは、緩慢な試力の功法とはどのような関係があるのか?

拳論によれば、試力の鍛錬では空気阻力を体得しなければならない。功法の速さが極緩に近づけば近づくほど、習者が感応する空気阻力は最大値に達する。これについて王薌齋先生は、「宇宙力と応合しようとすれば、まず大気の発生する感覚があり、徐々に気波の松緊と地心争力の作用に呼応するかを試さなければならない。習う時に空気阻力を体得するために、阻力と相等の力を以て、これに応じ合う。そうすれば用いる力は自ずから過ぎるところもなく、足りないこともない。初めは手で試し、次第に全体で試す。この中の力を体得できれば、良能が発現し。常にこれを行えば、不可思議な妙を得られ、諸般の力量を得ることは難しくない」と述べている(『大成拳論』より引用)。

注意すべきは、試力の際、力を加え過ぎても(僵)、力が足りなくても(懈)、空気阻力の存在を感じ取れないことである。だから懈と僵は試力の病と言える。用力が過ぎず、且つ及ばないところもない時に、試力の速さを極限まで緩めれば、最大の阻力を感じ取れる。これを換骨奪胎すれば、習者が蓄養する体内の本能力を十分に活性化でき、自身と宇宙の大気とが互いに呼応し合うことができる。

ここに至れば大成拳の本能力が調動されたことになる。多くの習者が站樁の時は緩めるのが上手だが、試力の際は僵勁がなかなか治らない理由から、試力功法には「水中の流木を推す」などの意念が設けられている。その実質は、試した力を好々的に保つため、一層空気阻力を認識しやすくするためである。

練功する際、試力動作の緩やかさは、日月が天を経て、川が地を行くがごとくで、外から見ると動きすら分からぬ程でなければならない。そうすれば力を増す効果が次第に現れてくる。ただし、極緩によって調動された本能力は、なお激しい実戦に直接応用するのは難しい。それゆえ試力功法は、力の得知の「拳中の最も重要かつ最も困難な一部分の作業」と見なされている。この緩動による力の求め方は、站樁や発力に代えられないものである。上記の試力に関する種々の疑問は、もはや頭を掻く必要はないだろう。

極速の功は発力である。哲学の弁証法は我々に、事物には常にその正反両面性と内在的統一性が含まれていると教えてくれる。極緩の試力者が感知する空気阻力が最大であるように、極速の発力者が体験する空気阻力も最大となる。疾速の動きを通じて本能力と空気阻力が内外一体となり最大の呼応に達した時、発力者は混沌渾元の宇宙と全身全霊で交融することができるのだろうか?

我々は「王薌齋先生の思想の触覚が、宇宙の時空感を把握する学術領域に達した」と言えるだろうか? 武術の範疇を超えたこのような高次の学術的探究については、拳界の賢人がさらに論述を重ねるべきであろう。結論が如何に述べられようとも、大成拳の「無力の中に有力を求め、微動の中に速動を求む」は、王薌齋先生の常人の思考に逆らう発想から切り開かれた技撃増力の道であると言えよう。

発力の訓練においては、無力と有力は相互に対立し調和しがたい二つの概念のように見える。門外漢は、発力の動作を行うのだから、最低限の力の使用は免れないと思うであろう。ここで言う無力とは、全く力を使わないということではなく、空気阻力を超える余分な力を使わないということである。速度が速ければ速いほど、力の使いすぎを抑える必要があり、それに応じて発力者の空気阻力に触発された本能力も大きくなる。

克敵の過程で、打撃目標の阻力が大きければ大きいほど、発力者に起動する本能力も大きくなる。こうして「無力の中に有力を求める」、つまり拳家の言う「点緊身松」が実現する。一方に力を極端に振りかぶれば、発力者は外界の阻力を感じ取れなくなり、その反発で自身の本能力を引き出すこともできない。

負重訓練で強化された力は、酸素不足の運動に基づくもので、王薌齋先生はこれを「注血の力」と呼んだ。「常人の動は、注血がの力であり、力を得ることはかなわない。注血の力は停滞し、和を失い不衛生である。注血せずして力を得て、即ち力を用いずして力が有る、用いる時に力を得る、これが本能の力である」(『王薌齋先生答記者問』一九四〇年より引用)。老先生はかくも述べている。

しかし、「微動中に速動を求める」とはどう理解すべきだろうか。我々は、発力の速度を上げるには、自身と外界の大気あるいは敵我の接点の間にできる摩擦をいかに減らし、発力時間をいかに短縮するかが問題となることを知っている。

滾動摩擦が最も省力であるという物理原理から、大成拳では円形軌道の発力方式(実際の訓練から得た、この物理原理に合致する経験則かもしれない)を広く採用している。正円、反円、楕円、斜円、立円、平円など、様々な円形軌道の発力において、四肢百骸に螺旋運動がなされ、自身と身外との間の摩擦が根本的に減らされ、発力の速度向上の基礎が築かれた。

さらに、発力時間を縮めるには、まず発力動作を小さくし、本能力の強度を損なわぬ前提で、大円から小円へ、小円から無円へと進む。無円とはいわゆる「不動の動」のことで、動作が極微に至らなければこうはならない。站樁により習者の周身の筋絡がある程度拉伸された時、発力の練習では外動から内動に移行でき、身体の僅かな震えの中にその現れが見られる。「筋が長ければ力は大である」とは、まさにこの理を述べたものである。不動の動はこうして形作られる。動作が極微になれば、その速度の速さは言葉では形容しがたいほどである。要するに、「無力の中に有力を求め、微動の中に速動を求メル」を発力の実作に用いれば、被打者は重錘の猛打を受けたように、高速回転する機械にぶつかったように痛みを受けずにはおれない。攻力が大きければ大きいほど、受ける挫折も重い。ここで我々は増力の問題に思いを巡らせよう。大成拳の研習者にとって、樁法を練らずに商人が資本を持たぬのと同じで、敵に触れれば架勢は外力の重圧に耐えかねて、速度は速くとも無用となる。故に樁法は増力の本である。

本能力とは、樁法と外力が呼応し合って段階的に増大してゆき、主観的意識に支配されない力であることを認識せねばならない。この本能力を操り尽くすには、手の単発の極(疾)速の動作に有機的に結合させなければならない。そうすれば本能力を体外に振り撒くことができる。単操手は常人の理解するように単に筋力の持久力を増すのみではなく、この観点から先の増力二問の疑問は自ずと解ける。

黄景文『以拳演道:大成拳精華』師生雑志社より