意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

如何正確認識本能力(『以拳演道:大成拳精華』より)

「站樁は一体何の妙用があるのか?」

「站樁の練習は、一種の整勁、つまり身が到り歩が到り、躯幹で四肢を帯動する整勁を養成することができる」

「しかし、この種の整勁は完全に動態拳技から得ることができる。国内の通臂拳や螳螂拳、また国外のボクシングや柔道などの流派は、どこも身が到り歩が到り、躯幹で四肢を帯動するものであり、どうして站樁だけが整勁を追求するのか?」

「これは…」

数年前、大成拳を苦修しながらも実質的な突破ができなかった私の脳裏には、いつも2つの自分が争っており、正方の観点の私はしばしば反方の私に言い負かされてしまう。もっとやっかいなのはその後だ。

「試力とは何か?」

「試力は樁法の空間への延伸であり、また試探的な発力でもある」

「あなたの言う通り、試力は站樁と発力の間の過渡的な功法と言えるが、その大成拳の諸功法における位置づけの軽さは想像に難くない。しかし、なぜ拳論は試力を『拳の中で最も重要で最も困難な作業の一部』と指摘しているのか? 站樁をゆっくり動かせば試力というのなら、なぜ試力者はさらに空気阻力を体会しなければならないのか? ゆっくりした発力動作を試力とするなら、試力と発力にはどのような根本的な違いがあるのか?」

正方の私は言葉を失った。

「大成拳の練習は何によって力を増すのか?」

「長年の站樁による深い功力と、寒暑を問わない単操手の苦練による」

「味気ない站樁と技撃の増力にはどのような関係があるのか? 現代スポーツの増力原理は、負荷トレーニングによる爆発力の強化を重視しているが、あなたの無数の単調な単操手の繰り返しは、ある程度の持久力を増すだけで、どうして肌肉の爆発力を高められるというのか?」

「どうやら、私には大成拳についてまだ多くの不明な点があるようだ」

正方の私は無念そうに頭を垂れた。站樁、試力、発力の相互関係を理解するための主線を見出さなければ、上記の疑問を解決することはできない。ボロボロになるまで読んだ王薌齋先生の古典の文章を再読し、苦悶の末に参悟した。私の思考の焦点は、老先生が繰り返し言及した本能力に落ち着いた。上記の疑問はまるで解けた氷河のように溶けていった。突破口を見つけた時が来たようだ。

私は突然、自分を含む多くの大成拳愛好家が、本能力の理解において二つの誤りを犯していることに気づいた。

一つ目は、本能力とは人が突発的な事態に遭遇した際、危急の中で普通の人をはるかに超える想像もつかない巨大な力を爆発させるものだと考えていることだ。ある女性が自宅の火事の際、4人の力自慢の男でようやく持ち上げられる大きな衣装タンスを一人で担いで階下に降ろしたというエピソードがある。技撃の観点から言えば、このような見方は絶対的すぎて、制御可能性に欠ける。確かに、拳の練習には人間の獣性の力を開拓する必要があるが、さらに修養を加えて、清らかで逸脱のない大いなる勇気の気質を養わなければならない。したがって、本能力を人間の獣性の潜在能力だとする説は採用できない。

二つ目は、本能力を拳技動作を長く習った結果の条件反射だと考えていることだ。この説も代表性があり、一面的である。本能と言えば、根本的に主観的意識が全く関与しないことを意味するが、拳技の条件反射は、習う者が意識的から無意識への過渡であり、敵に出くわしたときに思わずこの動作を繰り出すことになるが、これは主観的意識の培養を基礎としている。

規則に反する拳技も間違った条件反射を養成するのではないか。したがって、本能力の条件反射説も成り立たない。さらに重要なのは、上記の本能力に関する二つの誤りでは、站樁、試力、発力などの功法を有機的に関連づけることができないことだ。

站樁を始めた日から、真の本能力は知らず知らずのうちに私たちの中で喚起され、蓄えられ、日増しに厚みを増していく。

ここで言う本能力とは、人が生まれたときから先天的に備わっているものだ。子供が立っていたり、走っている様子を観察すれば、体に無駄な力が一切入っていないことがわかる。その許容限度内で力を加えると、肩を押したり腕を前に押し上げたりすると、外力が大きいほど子供の無意識の反発力も大きくなる。そして、走り出すと子供の体には明らかな整勁が現れる。これこそが先天的本能力の自然な表れだ。年齢とともに骨格が次第に強くなり、肌肉が均衡して発達していくにつれ、站樁による誘導を加えれば、この本能力の技撃効果は驚くべきものがある。

站樁がどのように本能力を誘導するかについて、王薌齋先生は次のように述べている。「すべての本能は、勢に従って現れる。例えば、毎朝新鮮な空気の中で、一切の方法を用いず、ただ渾身の関節を曲に似て曲でないようにして、天空を想い、自由にゆっくりと運用し、一方では内部の気血の流れを体察し、もう一方では身体の外の虚霊の争力を体得する。神は泳ぐに似る。そうすれば精神と体質は自然に心地よくなり、制限を受けるどころか、大自然との呼応を次第に認識するようになる。長く続けていくと、本能が発現し、霊光が現れ、技撃の基礎が自ずと備わる」(「訪王薌齋録実」一九四〇年より引用)。

残念ながら、現代の習い手は自身の片面的な放松、つまり「内部の気血の流れを体察する」ことにのみ注目し、もう一方の身体の外と宇宙の大気との仮想的な呼応を無視しているため、本能力が外力によって喚起されるものだと知らず、外力の喚起がなくても、本能力の増大は站樁の日数の長さにのみ頼っている。

站樁では、本能力の存在をどのように検証すればよいのだろうか。

ここで一つの実験をしてみよう。

站樁者が樁功状態に入った後、目を閉じ、助手に自分の樁架に絶えず六面から力を加えてもらう。全く抵抗する意識を持たない条件下で、外力が消えた後、站樁者がすぐに自然に元の樁架に戻れるなら、被験者にはすでに本能力が備わっているということだ。本能力が深い者は、その樁架が外力によって少しも乱されることはない。任意に数個の拳技動作を行えば、本能力を持つ習い手が表現する整勁の特性も、常人より優れており、わざとらしいものではない。

以上から、本能力は人体の内部に眠っている原始的な潜在能力であり、人々が長期にわたって不器用な労働をしてきたために深く禁錮されてきたことがわかる。站樁の妙用は、習い手の体内の僵勁がより徹底的に除去されるほど、目覚めさせられた本能力がより厚く蓄えられることにある。いわゆる整勁は本能力に基づく動作の展開にすぎない。したがって、前述の第一の疑問は解決されたことになる。

結局のところ、拳学は運動の対抗の中でいかに勝利を得るかを研究する学問である。站樁から得た本能力が動態で発揮できなければ、永遠に「深窓に育てられ、誰にも知られない」ままになってしまう。そのためには、他の功法を練習して誘導し、速度の二つの極限、つまり極緩と極快を利用して、本能力を最大限に動員し、運用することが求められる。

黄景文『以拳演道:大成拳精華』師生雑志社より