意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

精神力量的培养(『意拳:中国現代実戦拳学』より)

技撃を学ぶには、まず培養すべきは大無畏の精神、我に敵なしの必勝の信念、勇敢果断な意志力、そして坦々とした胸襟と豪邁な気概であり、これらすべてを精神力量の培養と総称する。技撃の練習に従事する人でよくあるのは、自分で純粋で深い技術と体力などの基礎ができたと思った途端、いざ実戦に臨むと本来の力を発揮できず、びくびくして一歩も前に出られず、結局は失敗に終わり、最後には溜息をつきながら去っていくことである。これは訓練水準にも関係するが、非常に大きな程度で心理面の要因に左右される。日本の現代極真空手道の大師・大山倍達氏は、その著書『空手道』の中で次のような見解を示している。「体が牛のように丈夫で、力が象のように大きい人でも、本当に格闘を始めると、しばしば普通の人に負かされてしまう。同様に、もし拳術を心得ている人が、格闘の際に精神が統一されておらず、呼吸が正常でなければ、彼もまた勝利を収めることは難しい。彼が繰り出す拳や掌、あるいは蹴り出す足は、爆発していない爆弾と同じで、威力は全くない」。大山倍達氏のこの一節は、経験者の談として的を射ている。意拳は先人の成功体験と失敗の教訓を総括し、良好な心理的資質を高めるための一連の特殊な練功方法を模索し出した。本書の前の方で紹介した意拳の基本功・站樁の訓練の要点を覚えているだろうか?

実際、意拳の訓練は最初の段階から、すでに精神力量の培養に努力を払っている。站樁の時、まず要求されるのは「自我放大」であり、そこに立つには「天と高さを競う」ような、「頂点に立てば、山を一望できる」といった概念がある。ここでの自我放大は、とても良い心理訓練の手段である。

意拳創始者・王薌齋が「自我放大」の理論を提唱したのは、20年代のことである。それから30~40年経って、ようやく外国のスポーツ心理学者がこの方面の研究課題を提起した。70年代末、アメリカの水泳コーチが訓練の中で「自分を巨人だと想像する」心理訓練法を採用し、大きな成果を収めた。これは意拳の訓練法と、ある程度一致している。実践が証明するように、この「自我放大」の心理訓練法は、意拳の成功に計り知れない役割を果たした。王老先生は技撃椿を教える時、練習者に「3尺外、7尺内に、大刀や斧を持った巨敵や毒蛇猛獣がうねりながら近づいてくる。その生存競争の情景に、大無畏の精神で対応すべし」と想定するよう要求した。

つまり、虚中に実を求め、練習の中で常に仮想の敵と精神的に周旋することである。王老はこの心理的な意念訓練を、習拳の入門の「不二法門」と呼んだ。

片手の訓練法を持つ拳種もあるし、西洋ボクシングの訓練にも「シャドーボクシング」という手段がある。いわゆる「シャドーボクシング」も、想像上の敵と精神的に周旋するものである。意拳の訓練に従事する人は、常に良好な心理状態を保っているが、それは偶然ではなく、長期の訓練で培われた結果である。この点において、現代のスポーツ訓練は参考にすることができる。いくつか例を挙げよう。サッカー選手がシュートする時、心の中で「私はたぶんゴールできない」と思えば、十中八九本当にゴールできない。投擲選手が「相手は皆私より強い」と考えていれば、良い成績も出せない。跳高選手が心理的に高さを見ただけで「恐れる」なら、記録も破れない。このようなことはすべて心理訓練で解決すべき問題である。

「芸が高ければ胆も大きい」というのは、心理訓練の物質的基礎であり、「胆が大きければ芸はさらに高い」というのは、精神から物質への反作用である。拳の格言に「敵を畏れる者は必ず侮られる」、「勝てないのは必ず疑念を抱いているからだ」とあるが、これらはすべて精神力量の培養の重要性を言っている。日頃の訓練では虚にありて実を求め、いったん実戦になれば実にありて虚を求め、無人の境地に入ったかのようにし、出会えばすぐに打ち砕かなければならない。

姚宗勲『意拳:中国現代実戦拳学』天地図書有限公司より