意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

空(『大成伝習録』より)

空は身体に雑染がなく、周身に雑質がないことである。空は虚実ではない。またある人は、あなたの身についた功夫が非常に純正であることを空だと言う。空は一種の状態で、自然に練習すべきで、妄想でそれを探したり、考え込んだりしてはならない。一度考え込むと自分の考えを混ぜ込むことになり、もはや拳理に従って練習することではなくなる。

有も空であり、無も空であり、有は実空であり、無は虚空である。何事にも執着してはならない。空は自然に形成されるものであり、空になろうと思えば思うほど、相反する方向に向かってしまう。立っていて空を感じても、その空を追い求めていては永遠に到達できない。なぜなら、意がそこにあるからである。空になるには、そのことを考えないようにすればよい。真に修行している人や仏教をよく理解している人はそれが可能で、そのような状態になりやすい。もちろん方法も重要で、正しい方法を使わなければならない。体光法師は、「修行者は必ず身心を善く調えなければならない。禅堂では身心を善く調え、跑香では身を調え、座香では心を調える。身を調える方法は多くある。身体を動かすこと自体が身を調えることである」と言っている。

放空するためには、心を別の場所に向けてその場所を空けなければならないが、これは難しい。空になることが難しいのではなく、人の心が難しいのである。顛倒夢想や執着は常態ではないが、人はその非常態を常態として生きている。常態とは人の自性であり、悟りを開けばそれが常態だとわかる。しかし今の人は習気と惰性を常態としている。

これは永嘉禅師が言う、修行せずに賊を子と認めることだ。自分が何をしているのかわからず、自分の真心とは関係ないことをしている。だから、空に執着せずに練習すれば、自然と空が現れる。

大成拳は身体を空にすると同時に意を虚空に置き、力を宇宙と合わせ、丹田はない。空になって初めて力量を化すことができ、周身のあらゆる場所が丹田となる。身体の内部は必ず空でなければならない。空になってこそ満たされ、空虚に満ちる。そうなれば、身体は力と虚空が合一する器となる。

大成拳は站樁である。站樁の時は、笑っているようで笑っていないような状態、愉悦の状態でなければならない。愉悦でなければ霊にはなれず、霊にならなければ空にはなれない。霊でなければ永遠に空にはなれず、滞ったり、拙なくなり、空にはなれない。空にならなければその境地には達せず、達しなければそれではない。

身体にいわゆる功夫があってもそれではない。そうでなければ心は開かず、勁を用いてしまう。力を用いる限りそれではない。

空の中の有こそが真の有である。だから、まず自分の心を空にしなければ、対抗しないことができない。相手の意が自分の意となり、相手の勁が自分の勁となり、相手の神が自分の神となる。自分が空になって初めて、相手の意、勁、神が現れる。空にならなければ、相手は入ってこられない。王薌齋は「宇宙万物の力と合一する」と言った。空になったからこそ、万物の力を包含できるのである。

站樁が終わったら歩く、遊歩する。遊歩も空でなければならず、空の状態で歩く。昔の人は站樁が終わると数時間歩いたが、今の人にはそんな体力がない。2時間歩こうと思ったら、4時間站樁しなければならない。1時間站樁して2時間歩けば、樁上の功夫が変わってしまう。遊歩は樁上の功夫を無形に化すのだ。站樁が終わったらすぐに歩ける。歩くというのは、樁上の功夫を化開することである。遊歩の時は、身体のすべての関節を松にしなければならず、死んだ歩にしてはならない。すべての関節を松開し、踵と地面の接触も松にする。気を沈めるのではなく、関節だけに注意を向ける。関節を松開すれば、気は全身に行き渡る。軽脚で出て、足には勁を用いない。軽脚というのは、軽く歩くのではなく、関節を放開して歩くことである。そうやって歩くと、樁上の功夫が活発になる。空と軽と重の感覚をはっきりと区別する必要があり、それには過程が必要である。空ではあるが、それでも存在している。ただ雑質がないだけで、身体の重さを気で持ち上げているのが空である。初級段階ではまずこのように歩き、後に意念を加える。

気を見る(=看気)ことができなければならない。古人の言う気を見るとは、どのように見るのか。自己は一気の流行であり、相手の気がどこに行くのかを見る。相手の気に虚があり、歩けるところがある時、必ずそこに入らなければならない。しかしここでの虚実は形体の虚実ではなく、彼の中と環の虚実、有形無形の虚実、つまり彼の力が出るか出ないかを決定するところの虚実である。それを見抜けば、いつでも上に行くことができ、上に行けば相手のそれをなくすことができる。これを実現するには無我でなければならず、空でなければならない。恐怖心も勝負心もなく、正しく法に合っていなければならない。つまり普段練習しているすべてのことは、使う時に法に合うためであり、主観的なものを混ぜてはならない。相手のそれがどこに出るかを見極めると同時に、自分自身にも一つの功夫が必要だ。それは自分のどこからでも出せるということだ。気が必ず手から出るとは限らず、いつでもどこからでも出せなければならない。『拳論』に「虚を見て実を撃たず、実こそ虚なることを知るべきである」とある。その「実」は見かけだけで、実は「虚」なのだ。相手はそれがわからないだけである。相手がその「実」が実は虚だとわかっていれば、どこが実なのか?

気を見ることができるようになったら、相手の虚実を探す必要はない。気を見ることができなければ、行ってから探さなければならない。気を見ることができれば、自分の歩くところ、打つところは必然的に相手の重心になる。気は必ずそこに至り、相手はそのように出てくる。これは相手を見抜いたということである。言い換えれば、相手が手を伸ばしたり、これらの形上のことをしたりしても意味がない。相手がこれらのことをしても変化できるが、あなたはこれらの形と変化を支えているものをつかむことができる。そうすれば、相手はもはや変化することができない。なぜならあなたがそれを見定めているからだ。相手を出させないようにしながら、自分はどこからでも出せる。どこから出すかは自性だが、出す場所は正しくなければならない。気を見ることができるようになるには、普段から絶えず修練し、站樁、試力、推手、発力をしなければならない。これらはすべてこのために行うのである。

于鴻坤『大成伝習録華夏出版社より