意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

趙道新先生の著書『道新拳論:樁法』

樁法活動は一歩一歩、低級から高級へと発展する。即ち、浅から深へ、片面からより多方面へと進む。站樁で得られる知識概念は、推理と判断の段階であり、整体の訓練、即ち拳術訓練の認識過程において非常に重要な段階であり、理性的な認識の段階である。それは、拳術の内在する本質的なものを徐々に理解し、その規則の発展を理解するために、全体または全体から離れたすべての面の関連を理解する。したがって、站樁の研究は基本的な作業、準備作業であり、身心の修養、気質の変化、筋骨の強化、または具体的な生活実践において、現実意義と深遠な意義を持つ。

何かを学ぶ際、我々は最初の段階の正確性を強調しなければならず、少しの曖昧さもあってはならない。そうでなければ、必ず進歩の順調さに影響を及ぼす。我々は各段階の方式と方法、例えば姿式、意識、気の運用などを明確にしなければならない。

まず姿式である。姿勢の構成は肘、手首、肩、膝、胯、足首、頸、脊椎、腰の各関節の位置変換によって異なる姿勢が生まれ、すなわち肌肉の伸縮の作用によるものである。しかし、関節を過度に曲げて死角にしてはならない。そうすれば関節の活動変換を一定の範囲に制限し、その屈伸性能に影響を与え、一方で気血の流通を阻害し、気血が末梢まで滞りなく達し、頂を貫き、全循環を完成することができなくなる。

換言すれば、姿式の正確さによって、気血は脈絡に沿って行き、全身を貫き、筋骨や肌肉を温養し、拙を霊敏さに変え、その性能を変化させ、古いものを捨て新しいものを生んで、徐々に質的変化が自然に達する境地に至る。これは質的変化の過程である。経絡は全身に分布し、人体の血気の通路であり、その主幹は経であり、側枝は絡である。あらゆる器官と組織は連絡通行、往復循環、周而復始し、すべての経絡はまた互いに連接し、完全な統一を維持する。したがって、脈絡の伝注によって、気血は全身を養い、上下を貫き、運行が止まず、表裏に達することができるのである。

質的変化の過程は、かなりの時間をかけて培養する必要があり、二日や三日で顕著な効果が見られるわけではなく、意図的にその進度を助長することもできない。心安で実践の中で着実に進歩していかなければならず、そうしてこそ得られる効果が真に信頼できるものとなる。

姿式の変換は、関節がその活動範囲内で表現する動的なものであり、我々が採用するのは意味のある環節であり、この認識の指導に基づいて、我々の必要に応じて研究と鍛錬を行うのである。この基礎の上で生み出される姿式はで限りなく多いが、関節の活動領域内の可能な活動の外にはない。人は生存の中で表現する姿勢の活動は、この範囲を出ることはできない。しかし、我々が必要とし、選択し、採用する姿勢は、その意義を持っているのであり、すなわち力の支点に合致し、動作性能が霊活で、成長発展に有利な姿式である。

次に意識の集中であるが、意識の集中は主導的な役割を果たす。我々が何かをする時、心が他のことに気を取られていれば、必ずその事をやり遂げることはできない。精神と意念を行っていることに集中させれば、徐々に事物の内部を見ることができ、站樁法の練習においては、体験を得ることができ、それによって身体の素質を高めることができるのであり、単なる推論や判断ではない。

俗に言う収心とは、意念を駆け回らせないことであり、心が浮き立って、意気込むのは望ましくなく、それでは行っていることとは永遠に入らない。これはすなわち精神を集め、気息を調え、雑念を払拭し、一心一意に行っていることに専念し、気息に従い、意に従って鍛錬を進めることである。

人々の思想や意念は、そう簡単にあなたの思うようにはならない。むしろその活動があなたを支配することがある。これは随時の点検を要し、もし外に逸れる現象があれば、直ちに正して引き戻し、守るべきことに戻さなければならない。その状況は時に近づき時に離れ、時に隠れ時に現れ、松静の体の中で気性は活発である。精神意念は体内外の各部に存在し、周りを見回し、理に背けばすぐに解消して正し、通順に帰し、気血が脈絡に沿って行くことを意識し、それを用いて内外を温養するのである。

意識の作用によって、全身は脈拍の跳動と呼吸の推動によって膨張と鼓蕩の現象を呈し、表面的には四肢は静止しているが、体内では秩序ある規則的な意識刺激が行われ、全身の各系統の機能活動を引き起こしたり強化したりしている。

気の運用は、意識の作用に伴って全身に達し、内部を充実させ外部を安らかにし、その運用を簡単にせず、意念を繁雑にせず、玄虚な幻想をせず、足を地につけて行えば、少なくとも身体の素質を高めることにおいて収穫があるだろう。

呼吸の方法に注意し、まず気海に念を注ぎ、気が満ちるのを待ち、腰腹が蒸騰して熱くなったら、肩背と脊椎の間に向けて、この時意を以て導き四肢百骸の間を運行させ、意念を一カ所に集中させ、他を顧みず、徐々に周身に及び、意念の注ぐところには気血が貫くのである。

鼓蕩と寛松状態が交互に身体の新陳代謝機能を促進し、すなわち全身の気血の流転を促進し、それによって栄養の供給作用を強化し、積極的には機能に適切な刺激を与え、消極的には新しい物質の補充作用を起こし、それによって体質を発育させるのである。

吸は静かに細かく深く長く、呼は短く急いで迫るようにする。吸入は多く、呼出は少ない。吸の時は意を以て導き、意の向かうところに随って存注し、呼の時は胸腹が排圧動作を行い、短く急いで排出し、同時に体全体が収縮緊張状態となり、排気後はすぐに緩松静状態に戻る。吸気はできるだけ充実して満たし、呼気の時は適度に止め、腔体に余裕を残し、わずかに空虚感を感じるようにし、氤氲と回蕩し、体内を周環する。その他の呼吸気の運び方は、ここでは論じない。

全体から言えば、内空外松である。内空とは内臓を心地よく落ち着かせ、心平気穏で、意念を閑適にすることであり、これが虚静の前提である。外松とは筋肉が弛緩し、気血が充満して鼓蕩し、感覚が鋭敏になることであり、弾力性のある反応の前提である。内空外松は緊張を解き、精神意志を活発に明るくし、肢体の動作を舒放開展する正しい方法である。内部が虚静であれば、意念をある所に集中させることができ、外部が寛松であれば、収縮が霊敏になり、動作の反応が素早くなる。このようにすれば形と意は合致し、動と静も相反しない。

静を動作の中に宿し、動を静止の間に隠し、形の変換は意識に支配され、意識の衝動は体の動態に表れる。両者は互いに因果となり、相互に促進し合う統一した現象であり、これこそが拳術鍛錬の必然の法則なのである。この鍛錬における対立統一の法則は、拳術鍛錬の最も基本的な法則であり、それを離れては拠り所がない。これに従って前進し、経験を積み重ね、実際に合致するように総括し整理し、質的変化と量的変化を達成し、実在性のあるものを豊かにすることが、すなわち拳術知識の深化なのである。

訓練においては、一般的な練習の中で、我々はよくいくつかの誤った傾向が存在するのを見かける。例えば、全身の各部位の動作が協調して一致せず、そのため周身が連鎖した力、すなわち集中した力を発揮できないことである。それは動作は意識によって支配されていないからである。さらに最大の欠点は、動作の際に意識の中に敵情の観念がなく、ただ個人がそこで茫然と主宰のない空虚な動作をしているだけで、おそらく完全に熟練してしまったから意識を捨ててしまったのであろう。

このような練習では技術水準を高めることはできず、ましてや意識が攻守の戦術を支配することはできず、かえって技術に不利な要素をもたらし、技術運用の霊活性、感覚反応能力、方向位置の変化、変速、急旋転反応などの向上に影響を与える。戦術においても、進退、虚実、開合、分化、集中などの機動能力に影響を与えるのである。このようなことについて、我々は相応の認識を持たなければならない。

訓練は全面的な発展を主とすべきであり、厳粛な態度と厳格な訓練規定を持たなければならない。例えば、技術の細部を研究し、戦術の応用を行い、多様な素質を高め、随時総括し、それによって良好な基礎を築くのである。骨格、肌肉、神経中枢のいずれの面でも改善が得られ、特に神経中枢において敏捷性、霊活、正確な反応能力が向上する。

受動性を克服し、時間の概念を強化し、使用に有利な多様な方式と方法を創造する。技術、戦術、意識の面で有機的に結びつけ、身体の素質と技術を全面的に向上させる。これこそが訓練方法なのである。