意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

一想即止(『螺旋宝塔—崔瑞彬五十年体認如是説』より)

我々はすでに意念活動は手段であり、適切に止めるべきだと述べた。もし意念活動が目的に達したら、もはや意念活動を用いる必要はない。これは「一想即止」の道理である。

「一想即止」は意念活動の操作方法である。我々は站樁の過程で絶えず強調している。站樁の心法はとても簡単で、「あなたがどのような意念活動をするか、あなたはどのような意念活動の感覚を体験するか」ということである。站樁の操作方法もとても簡単で、「一想即止、ほんの少しの意味があればよい」ということである。これは言うのは非常に易しいが、真に実行するのは非常に難しいことである。「一想」は非常に易しいが、「即止」は非常に難しい。

站樁を例にとると、要領通りに站樁の姿勢を整えた後、相応の意念活動が必要である。意念活動には二つの意味がある。一つは精神假借で、一つは意念誘導である。精神假借とは、実際の対象は存在しないが、我々が脳の形象思維を通じて想像したものである。平たく言えば、我々は自分の賢明な脳を十分に活用し、実際には全く存在しないものを形象思維の方法で想像し、身体に本当にそのような対象が存在すると感じさせることである。これがよく言う意境の再現である。もしこの点ができれば、精神假借のこの一歩は大きな成功を収めたと言える。精神假借はまだ「一想」のレベルの内容に属する。もしこの時、我々がさらに次の意念誘導の練習を行わず、ただこの意境再現で得られた真実の意感を体験するだけなら、我々が入るのは一種の松静の状態である。もちろんここには松緊の制御の意味も含まれる。

私自身の実際の体験から言えば、精神假借のこの一歩の練習には多くの工夫が必要である。なぜなら意境の再現で得られた意感が真実であるかどうかは、松緊転換の練習の質を大きく決定するからである。この「一想」は非常に易しいと言っても、それは「即止」と比べた場合のことである。初学の時、この「一想」は言うほど簡単ではない。我々の意境が真に再現できるかどうかは、時間と過程が必要である。鍛錬が深まるにつれ、我々が站樁の姿勢を整えるとすぐ、脳が「一想」するのはどのような意念活動であるか、あるいはこの姿勢を整えると、この意境が真に再現でき、しかも我々はいつでも意念活動を変え、さらに站樁の姿勢を変えることができ、意境もそれに伴って自在に変えることができる。この時になって、精神假借の練習は基本的に要求に達したと言える。

意念誘導はさらなる練習であり、精神假借の基礎の上で、我々はこの意境の真実の感覚に適切な誘導を加える。なぜ適切な誘導と言うのか。これは具体的に我々が何を誘導するかの問題に関わる。なぜなら誘導が異なれば、我々が得る感覚も異なるからである。そのため、我々がここで言う誘導は、すべて拳術の実際の必要性を中心に言っているのである。

たとえば我々が立っているのは托抱樁で、両手の10本の指の間に5本の細い糸が相互に連なっていると想像する。精神假借を通じて、我々は確かにそのような細い糸が存在すると感じる。この時我々はさらに自分が両手でこの細い糸を引っ張ると想像する。我々の両手がちょうど細い糸を少し引き開く(=拉開)ような感覚があったら、もう引っ張る必要はない。覚えておいてほしいのは、我々がここで言っているのは一引即止であり、一引一止ではなく、さらに引き開いた後でこの止を知るのでもない。

この「即止」は究極どこで止めるべきだろうか。ここには多くの工夫がある。一想即止は体察の功夫であり、この「即止」は真にこの「一想」を停止させることではない。もし真にこの「一想」を停止させるなら、それは起心止想、あるいは起心止念であり、刀で水を断ち、火に油を注ぐのと変わりなく、結局はまたこの「一想」の中に落ちてしまう。『金剛経』に「於法不説断滅相」とあるのは、まさにこの意味である。站樁の中の「一想即止」の心法は、仏門の止観修法と異曲同工の妙である。いわゆる止とは、断でもなく、また滅でもなく、すなわちこの「一想」の断滅に落ちるのではなく、「ほんの少しの意味がある」ところに落ちるのである。その精妙なところは「転換」の二文字にある。

そのため、この「即止」は実際上「転換」なのである。仏が『楞厳経』で説く「妙奢摩他」、いわゆる妙止の意味は、止とは、転換なのである。そのため、ここの「即止」は、我々がこの「一想」を通じて、感覚が生じたらすぐに、我々の注意力を意念誘導の動作から意念誘導によって生じた感覚へと転換しなければならない。これは必ず我々の身体で体得しなければならず、功夫が身につくかどうかは、これが非常に重要な一歩である。

前に我々は意念活動は手段であると述べた。そのため、この種の転換は実際上「筏の喩え」の道理であり、我々の站樁の中での一種の具体的な表現と切実な体得である。「一想即止」は一緊即松であり、この時の意念活動がまだあるかどうかは重要ではない。なぜなら我々はこの時すでに意念活動を使う必要がなくなり、ただ我々の両手と身体を使って、意念誘導によって生じた感覚をしっかりと体験すればよいからである。これが我々がよく言う松緊転換である。この感覚が弱くなったり、あるいは消えたりしたら、我々はまたとても自然に前の精神假借の意境に戻り、再び相応の意念誘導を行う。このように反復練習すればよい。

「一想即止、ほんの少しの意味があればよい」、この言葉の中に禅機がある。仏門禅宗で「念が起これば覚え、念が起こることを恐れず、ただ覚えの遅きを恐る」と言う。ここの「一想即止」は、まさに具体的に落とし込まれた禅法だと言える。意味がなければいけない。意味が多すぎてもいけない。そのためほんの少しの意味があればよいと言う。意味がないということは、我々が根本的に誘導していないということであり、「一想即止」の作用も論じようがない。意味が多すぎるということは、我々のこの「一想」が本当に長すぎて、松緊転換の速度も遅すぎるということである。そのため、一回の松緊転換の練習は必ず真剣に細かく体得しなければならない。一回の松緊転換がうまくできなければ、多くの連続した松緊転換もうまくできるはずがない。

たとえば糸を引くとき、我々は最初はいつも引き開いた後でなければ感覚がないのである。引き開いてどの程度で感覚があるかは、各人異なる。通常はこのような時空の遅延があるが、もちろん遅延がないのが最もよく、それは「一想即止、想止同時」のようなかなり理想的な状態に達したということである。いわゆる「念が起これば覚える」である。時空の遅延は直接我々の松緊転換に影響する。もし想が長すぎれば、動作が外形になり、遅延はさらに明らかになる。そのため、初学の時から、この「一想即止」の松緊転換は想をできるだけ短くしなければならない。できるだけ短くしても、さらに短くしなければならない。具体的な鍛錬時には、前後二回の意念活動の異なる感覚を比較することで、我々の意念誘導を絶えず調整することができる。これもまた一種の便利で巧みな方法である。

松緊変化によって、松緊力を生じ、松緊によって用いる。松緊転換は功夫であり、松緊適度は境界である。松緊適度とは、すなわち中道である。拳諺に「松緊緊松過ぎたるなかれ」とあるのは、まさにこの意味である。我々の松緊転換は松緊適度の基礎の上に築かれているかどうか。これは站樁で必ず明らかにしなければならない根本の道理であり、必ず解決しなければならない根本の問題である。

松緊転換の練習について、我々はしっかりと功夫を積まなければならない。この松緊転換がかなり自在にできるようになったら、必ずしも「一想即止、想止同時」のようなかなり理想的な状態に達する必要はない。我々は同様に連続して途切れることなく意念誘導を行うことができる。一想即止、一止即想、数回あるいはさらに多くの回数繰り返す。これは具体的な状況によって決める。もちろん必ず意を用いて力を用いず、また外形で本当にこの動作があるわけでもないことを覚えておかなければならない。これが連続して途切れることのない松緊転換の練習である。

「一想即止」の意念活動の操作方法について、大まかにこのようないくつかの練習段階に分けることができる。

第一段階は一想即止である。

第二段階は一想即止、一止即想である。

第三段階は一想即止、一止即想、一想せざるを得ず、一止せざるを得ない。

想即是止、止即是想、想止同時、想止不分などのさらに後の練習については、我々が解説する範囲内ではない。なぜなら現在の感覚は不可思議で、言葉で表現することも、さらに文字で描写することもできず、ただ体察覚知するのみだからである。

崔瑞彬『螺旋宝塔—崔瑞彬五十年体認如是説』遼寧科学技術出版社より