意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

浅談大成拳之点緊身松(『走進王薌齋』より)

大成拳と一般体育運動の違いは、一般体育運動が主に筋肉を鍛えるのに対し、大成拳が主に練るのは筋骨だということである。練骨とは練気である。筋骨の訓練が高い境地に達すると、人体は点緊身上松ができるようになる。技撃の際、二つの力が接触するとき、一般的な状況では、二つの力が最初に接触するのは手や腕である。瞬間的に接触する点には力が必要で、これを点緊と呼ぶ。点緊と同時に身体は松となり、これを点緊身上松と呼ぶ。

功夫が大きい人は、点が緊となれば緊となるほど、身体は松となる。つまり、接触点の力が大きければ大きいほど、逆に身体は松となるのである。功夫が小さい人は、接触点の力が比較的小さいが、逆に身体もそれほど松ではない。功夫が小さい人も点緊身上松と呼ばれるが、それは水準が低いだけである。

筋肉を鍛える運動では、二つの力が接触する点で力を入れると身体が緊となる。つまり、点緊身緊であり、身体が松になれば点に力が入らない。これが大成拳の技撃時と一般的体育運動との違いである。

点緊の作用は、二つの力が接触する際に、接触点に力があることである。相手の力が小さければ、大きな力で小さな力を欺いて直接相手の中線を取ることができる。相手の力が大きければ、竪に対しては横、横に対しては竪にするという理論で、相手を引進落空する。このような力を、中国武術家は通常、柔力と呼ぶ。

身上松の役割は、状況に応じて動くことができることである。小さな力に遭遇すれば、すぐに発力して奪位し、大きな力に遭遇すれば、まず引進落空して、その後再び発力をして奪位する。このような力は、中国武術では通常、剛力と呼ばれる。

点緊身上松とは、剛柔相済である。このような力は、技撃の際に攻守兼備であり、攻守を同時に行う。形意拳では、「打とは何か、顧とは何か。顧は即ち打であり、打は即ち顧である。出手すればそこが処であり、遠くを求める必要はない」と言われている。

王薌齋先生は点緊身上松の運用が特に優れており、交手した人は皆、同じ感覚を持っている。力を用いても上手くいかず、力を用いなくても上手くいかない。力を用いても点に触れることができず、力を用いなければ逆に投げ飛ばされてしまう。力を用いなければ、逆に力を用いられ、やりたいと思ったことは全てされる。天馬が行空し、独り往来するようである。

王薌齋先生は、運動するとき、力を入れれば入れるほど、身体は松となる。彼は大きな力を使うことができ、力を使えば使うほど身体は松となって霊活になり、各種の力、各種の打方は相手の力に応じて変化することができる。彼の身体には、中国古代武術の予測不可能性が体現されている。

多くの人は薌齋先生の力を理解できず、人がこのような力を持つことは不可能であると考えている。実際、薌齋先生は筋骨を練ることが上手で、筋骨を練るために大きな功夫を払い、大きな力を注ぎ、大量の汗を流したのである。

「点緊身松」は筋骨鍛錬の産物であり、筋骨を練る人は聞けばすぐに分かるが、筋肉を鍛える人には難しく聞こえる。これも二つの文化の隔たりである。時間の経過とともに、二つの文化は融合するだろう。(運動の面では)西洋文化が中国文化から学ぶことは確実である。なぜなら、中国武術文化は先進的であり、遅れているものが先進的なものから学ぶことは当然のことであり、歴史の法則でもあるからだ。

点緊身上松の練習は、大成拳訓練のあらゆる局面に貫かれている。まず、站樁で松緊を求め、松緊を通じて筋を引き、そして虚実を求める。つまり、身体の外に物があり、身体の外に阻力があり、実を求めた後、試力で線を求め、面の虚実、松緊を求め、最後に搭手で点緊身上松を求めるのである。

もし站樁と試力が優れていれば、搭手で点緊身上松を求めることはそれほど難しいことではない。順を追って徐々に進めなければならない。

まず、点で力を使えるようにしなければならない。相手に圧力をかけなければならない。そして、身体をできるだけ放松しなければならない。一般的に言えば、点の力が小さいほど、身体の松が不足し、点の力が大きいほど、身体は松となる。これが功夫である。もし点で力を入れると身体が緊となる、身体が松になると点に力が入らないということは、站樁と試力の訓練の段階で間違っているということである。主に站樁が問題で、站樁さえ正しければ、試力は間違わない。站樁と試力に問題がなければ、時が来れば、搭手で点緊身松ができるようになるのは難しくない。

点緊身松は技撃の鍵である。点緊身上松の能力がなければ、実を打つことはできない。実を打つことができない技撃は大成拳ではない。点緊身上松を研究しないということは許されない。

李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より