意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

単、双重(『走進王薌齋』より)

単重と双重は站樁練習における原則的な問題である。双重とは何か? 人体の各関節、各部位は対称的であり、例えば肩には左肩と右肩、肘には左肘と右肘、手には左手と右手がある。二つの対称的な関節と部位の動作が同じ、力の方向が同じ、力の大きさが同じなどの場合、全く同じ関節と部位が現れる。この時は双重となる。単重とは何か? いずれかの関節と部位に力があり、もう一方に力がない場合、これは単重となる。站樁の際に単重または双重の現象が現れるのは正しくなく、単重でも双重でもないようにしなければならない。

我々は站樁の要求から単重と双重を理解することができる。例えば両肩について、我々は両肩を相争させることを要求しており、前の肩の力は前に、後ろの肩の力は後ろに向かう。站樁は前手を主とし、後手を従とし、前手は高く、後手は低いため、このように両肩の力の方向は同じではなく、大小も同じではなく、高低も同じではないため、双重ではない。両肩はいずれも力があり、いずれも要求があり、どちらも捨てることはなく、単重でもない。その他の各関節、各部位も同様である。

単重と双重は非常に複雑な問題であり、全身にはそれほど多くの関節、それほど多くの部位、それほど多くの細かな箇所があるため、単重と双重の問題を全て解決しようとするのは一生の仕事であり、一生かけても全てを解決できるとは限らない。一般に十年の純粋な功夫で一人の大家が出てくると言われるが、大家でも全身の各細かな箇所の単重と双重の問題を全て処理できるとは限らない。大家はただ全身の各関節、各部位、各細かな箇所の単重と双重の大部分を処理しただけである。

王薌齋先生はかつて、人体の単重と双重は一本の大樹のようなものだと言った。一本の大樹には多くの枝があり、太いものから細いものまである。そこには多くの葉があり、風が吹くと全体が一方に傾くが、よく見るとその枝や葉は様々な方向にも向かっている。しかし依然として、全体としては非常に協調的である。

対抗の中で、身体のある部位に双重が現れると、力は絶対的になり、相手に付け入る隙を与えることになる。単重が現れると、力量の充足に影響を与える。だから、単重と双重の問題を解決することは、拳を習う者が各水準で直面する問題であり、学ぶことに終わりはない。

李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より