意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

訣要浅講(『形意大成拳』より)

一、控制

制御(=控制)には三つの段階がある。自己制御、他人に制御されない、他人を制御する、である。

拳術は基本的に人を制する方法と人に制されない方法を研究するものであり、人を制するための前提条件は自己制御を持つことである。自己制御とは、自分の体の全ての関節の松緊を心のままにすることである。つまり、両手は好きなところに動かすことができ、そこで停まることができるということであり、即ち間架をその位置、その角度で固定したい場合、自分の要求に従って固定できるということである。拳と歩の路線、落点には基準がある。支撑架が多円を要するならその通りに多円で、膨張を要するならその通りに膨張させる。

自己制御ができるようになれば、次に他人に制御されないことを目指す、まずは他人の力量に影響されないことが重要である。

最後に他人を制御することを求め、他人を制御できれば勝利を確信できる。師は「相手を縛って(=捆)打つ」と言った、つまり相手の両手を完全に制御し、まるで縛ったようにすることである。実際、相手の両手を制御することは、相手全体を制御することと等しい。相手は立っても安定せず、足で反撃しようとしても不可能である。師が槍で劈する時に言った。「槍を投げる時は、槍を制御しなければならない、これが槍を操ることだ。制御できなければ、槍に操られることになる」という言葉は非常に啓発的である。

二、支撑

体は建築物のように想像でき、構造が厳密で一部分も疎かにできない。腿には支撑が必要であり、つまり下盤が安定しており、根が地下深くに入るような意味を持つ。体は八面支撑が必要であり、立つ姿勢が中正であり、前後左右、前左側、前右側、後左側、後右側がみな備わっている。最も重要なのは腕の支撑である。腕は前線であり、支撑がなければ防御力がなく、一度の攻撃で破られる。一部の人々の間架が虚浮で、自分の意念に従って固定できないのは、支撑の概念がないためであり、これは站樁で苦功を行っていない明確な証拠である。

三、呼応

形勢には呼応があり、その構造は厳密でありながら、分解することができない。具体的には、上と下、左右、前と後が呼応し、決して各自が孤立しているわけではなく、無形に連なっており、そうすることで一つの有機的な整体を形成する。力にも呼応がある。例えば、崩拳を打つ時、左手が前に崩出されると、右手は後ろに引かれ、両手の勁の大きさは等しく、拳を出す速度と引く速度が同じであれば、発力は二つの手の有機的な組み合わせとなる。また、相手が私の一方の手に触れると、その手の影響だけでなく、自然ともう一方の手の力の影響を同時に受ける。これが呼応の妙用である。実際には、相手の体のどこに触れても、相手は私の全身の力量の影響を受けるということである。

四、先形後神、形神兼備

学習は外形から始めるべきで、書道を学ぶように、模倣から始める。形とは規範であり、法である。規範や法があって初めて、段階を踏んで前進し、その後に神似を求めることができる。そうなれば形神兼備となり、何も欠けることはない。形は容れ物であり、神は内容である。学習時は外形から内容を掌握することは必要な過程である。拳を学ぶ上で最も重要なのは懂勁で、懂勁した後は外在の形式はそれほど重要ではなくなる。

師は本当に賢い。当時、上海で六合八法の名家である呉翼鞏先生は師を非常に気に入り、六合八法を教えたいと思ったが、師はこれを丁寧に断った。師がすでに懂勁しているので、一つ一つの動作を学ぶ必要があるだろうか? 師祖は言われた。「形骸が似るを求めず、ただ神意が足るを求める」。この言葉は、すでに一定の基礎を持ち、外形が規範に合っているが、外形に固執する学生に向けてのものであり、初学者に対してのものではない。初学者がすぐに外形を重視しないと、迷い込んでしまう可能性がある。

五、形松意緊、勁短意長

形松とは、肌肉を放松させ、関節を放松させることであり、これは発勁前の常態である。発勁時には肌肉は当然緊となる。意緊とは、注意力を相手に集中させることであり、これは発力前の精神的準備である。勁短とは、発勁の時間が短く、距離が短いことであり、拳家が言う寸勁である。勁短は相手にとって防御しにくい。意長とは、発勁時に意念が相手の体の数尺後ろにあることであり、意念は相手の体に止まるのではなく、勁力が束縛されずにより良く発揮されるように、相手の体の後ろにある。

陳雲開『形意大成拳』芸美図書有限公司より