意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

歩法身法 (『大成拳築基功』より)

まず歩法について話す。渾円内功の歩法には、鶴行歩(これは先に紹介した)、滑行歩、鶏行歩、鴨行歩、槐虫歩、摩擦歩がある。

拳諺には「歩法を習うには先に樁を明らかにすべきである」とある。樁功の訓練を経て初めて、体の上下、左右、前後が相合し、整体力、整体爆発力を発する渾円体として一つに連結することができる。

静的な整体力から動的な整体力への変化の過程で、動歩行走時に樁功の安定した状態を失わないことに加え、平時の歩によって身体を運ぶ習慣を改め、常に身体によって歩を導くことに注意する(身体で歩を導くことには提踩の能がある一方で、発力の時には歩によって凑整にすることができ、これは威力が大きい)。

身体で歩を導く時は、頭が身を引き(=領)、腰は肋で持ち上げ、胯は腰に随って起き、胯を用いて膝を引き(=抽)、膝で歩を促し(=催)、各節が連動し、力は脊から発する。身体で歩を導くと、身前の肚が先導し、身後の命門が推されるように歩く。

また、動歩の時は、上下肢の意力が相反相成することに注意する。つまり脚の後ろに落ちる時に手は前を指し、脚が前に進む時に手が後ろを指す。これにより自身の平衡と調和を保つことができるだけでなく、他人と搭手して技を競う時に歩を活発にする(一進一退、一上一下、一左一右、機動霊活)ことができる。さらに、脚は平起平落で,、歩は小さくする。これは実戦での素早い動き、迅速な発力のためである。歩を踏む時は、行こうとして止まり、止まろうとして行き、小心に薄氷を歩くようにする。これは実戦で進んでは戻り、出ては帰るためである。いわゆる進退自在、変換霊活、蓄力待発、打防合一である。

站樁に一定の功力がついた後、一般的な試力と発力の訓練を経れば、身高力大となり、動作が硬直している者に対しては非常に効果がある。しかし、歩法と身法の具体的な訓練が欠けていて、技撃の高手と比武する場合、機や勢を得るのは難しく、明らかに不利である。

渾円内功の歩法訓練は、実際には人体下肢の試力であり、そのために「歩を踏むは猫のように軽く、また水が逆行するように」との要求がある。これを達成する鍵は、頭領腰転、提胯屈膝で、脚の高さは地面に摩擦しないことが望ましい。この基礎の上で、「雪を踏み、泥の中を歩き(=蹚)、風が席を巻くような」軽霊神速な効果を追求する。その後、前に進み後ろに退き、左右に横行する不断の角度変化の練習を経て、巧みに勝つための良好な基礎を築く。

「歩を動かす前に先に身を動かす」。これは身法が歩法よりも重要であることを示している。身と歩の間では、歩法は身法のためにある。

王安平先生は、「試力で何を試すのか? 主には身体の松柔を練習することである」と言う。站樁で身体を硬くして、試力を通して肌肉、筋骨、関節を松開し、硬直した身体を柔軟にし、松軟に発力することが爆発力になる。樁功は炉を熱することに似ており、試力は鍛えることに似ている。俗に「百錬成鋼」という。何故百錬が必要かというと、鍛えることは繰り返し行われる必要があり、何度も鍛えて鉄を柔らかくし、不純物を取り除き、分子の密度を高め、柔和にし、その後、焼き入れの熱処理を経て使用できるようになるからだ。「試力は全身の協調性を練習することであり、協調は力量を生み出すことができる」。

眼の速さは心にあり、手の速さ身にある。身法の練習では、左歪右斜、前俯後仰、上下起落、螺旋転動が可能である。要するに、眼、手、身、歩の中で、身法の練習が主である。崔有成先生は、相手と搭手して圧迫された時に、電光石火の間に力の転換(即ち角度の変化)が必要であると考える。そうでなければ、硬くぶつかってしまい、牛が頭を合わせるのと同じことになる。その結果は、大きな者が小さな者を、強い者が弱い者を打つだけで、何のために拳を練習するのか!

力の転換を学べば、相手が大きく、力が強くても恐れることはない鑽、裏(滾)、擰、横(打)などの霊活な拳勁を用いて相手を打ち負かすことができる。注意すべきは、力の転換は「点」の転換でもある。

「点」に触れた時に腰が緊となるのは間違いで、「点」が緊となり腰は松であることが正しく、整体爆発力を発揮することができる。さらに、拳力は単一ではない。例えば形意拳の横拳は、拳を出す時には直拳のようで、「横を出すが横は見えない」と言われる。その中には直勁だけでなく、左右の横勁や鈎挫勁、下墜勁などが含まれる。一度両者が動き出すと、動くのは手だけでなく脚も動くが、身体が一番速く動く。腰は車輪のようで、足は鑽のように(手腕と連動して)する。鍵は身体、特に腰である。

王薌齋先生は「身動は山が飛ぶようである」と言う。これは身法の運用に優れれば、整体が動き、立体が動き、相手に大山が圧し掛かるような気迫を感じさせることができるということである。整体が動き、立体が動く気迫は、王安平先生の言葉を借りれば、「運動は球が動くようで、風が吹くように渾円で、打人は球は門に射るに似て、触れれば砲弾のようである」ということだ。故に、技撃の際は、整体力を使って打つ方法は、「打人は手を伸ばさず、身体を前に進め、球によって雷が鳴り電光のように強くぶつかる」ということだ。

渾円内功を練習する際は、身体と肢体の松と軟に特に注意を払う必要がある。なぜなら、身体と肢体が松軟、松柔であるほど、自身の重心は相手の力の衝撃によって揺れることが少なく、自身の平衡を保つことができるからだ。この状態で、相手がより硬いほど、自分はより松軟になり、相手の体力の消耗が大きくなり、隙が多くなり、攻撃しようとしても機会が得られず、退こうとしてもできず、相手を進退窮まった泥沼に陥れることができる。より重要なのは、身体と肢体が松軟、松和であるほど、爆発力が強くなり、柔化して強く発することができることである。これは一触即発で、一念の間にある。

では、松柔の練習はどこから始めるべきか? 筆者は、まず心を松とし、その後で肢体を松とすることを提案する。まずは脳の緊張を取り除き、その後で肢体の硬勁を取り除く。長年にわたる後天的な学習と労働によって形成された古い習慣を、一連の厳しい練習を通じて、遊びを楽しむ子供時代に戻るようにする。なぜなら、子供の頃の身体は柔軟霊活で、硬さがないからだ(ダンサーや一部の套路武術の選手の身体も柔軟霊活だが、内力がないため、技撃の威力を持っていない)。さらに樁功の練習で得られた内力と合わせて、剛にも柔にもなり、化も発にもなる、予測不可能な技撃術に変える。また、松は気感の強弱にも大きな関係があり、「松であれば空であり、空であれば通じる」という。気功を練習する者が「松」の訣を理解していないなら、練習しても無駄である。

東宝『大成拳築基功』山西科学技術出版社より