意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

結論(『拳道中枢』より)

拳の修行は年月の長短、功力の深浅、体や年齢の高低にあるのではなく、また方法の多寡、動作の快慢、世代の高低にもあるのではない。要は学問の原則原理が通じているか否かにかかっている。特に天賦の精神が真の力を持っているかどうか、そして才志がどのようなものかを再度測って、その造詣の深浅を定め、将来どのような境地に達するかを予測するのである。拳を習うには最も大切なのは理を明らかにし、精神が力強いことである。言い換えれば、獣性のような篤い力があるか無いかである。そういった力が篤ければ、さらに修養を加えて、神志が清逸で大勇を鍛え上げれば、法海に入るのは難しくなく、道要を博し、通家に至り、神化の境地に達することもできるだろう。いわゆる通家とは、一つの分野に精通しているだけでなく、多種多様な学術において、その言葉を聞けばその程度がどのようなものか、正規であるかどうか、実際があるかどうかを知り、その方法を見れば、その底蕴が具体的か、局部的か、微に入り細を穿つか、どのような方法で補うかを一目で知り、一言で道を穿つことができ、いわゆる環中の得を以て無窮に応じることができる。教授する者は、人に規矩を語り、巧を示すことはできず、ましてや人工を為すことはできない。学者は精心模倣し、体験操存し、その後でその功夫と精神がどのように巧妙に協働しているかを観察する。以上で述べたのは拳道であり、それは拳拳服膺を拳とし、心領神会し、体認操存するという意味であり、世に見る一般の拳とは異なる。