意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

解除師徒制之商榷(『拳道中枢』より)

師徒の制度は美徳として称えられるが、しばしば最も美しいことが、我が国で行われると弊害が多く生じ、醜態をさらし、とりわけ拳界ではこれが最も甚だしい。故に社会はそれを軽蔑し、師に拝しないで秘伝を得るのは難しくないと考える者もいれば、師に拝して親を示すことができず、また要訣を授けようとはせず、ましてやその効果を見せようともしない。嗚呼! これは真に粗末なことだ。一旦表面的な流れは論じず、本来技に秘密などなく、たとえあったとしても、その秘密は拳道の真義を絶えず超えてしまうだろう。ましてや門壁の中にも、秘密を伝えないものがあり、私はその理由が理解できない。これは真に下劣なことだ。拳道が隆盛しないには理由がある。今日に至って、異なる拳法の弁証が世界中に広まり、ますます加速することはため息をつくほどだ! 拳道の真義は、人生の大道と同じく平凡であり、また天地の精微と同じく深遠である。道を理解せずに学び、一生を通じて学んでも尽くせない、秘密を追求する暇がどこにあろうか? 人類すべてが民族の情を抱き、飢えと溺れを見る目を持っているべきだ。もし本当にそうであれば、世界は安定する。さもなければ、たとえ世界の人類が全て死に絶え、あなただけが残っていても、自己中心的な希望が極まれば、それからどうするつもりなのか? 私は人類の幸福が永遠に絶えることを恐れる。国民が弱まり、あらゆる事で他人より劣っており、病はここにある。学術は千代にわたって人類共通のものであり、根本的には境界分けるべきではない。一国内であっても、同族の中で異なり見るべきではないし、国境があっても、我々は皆晴天の下で生まれ、何を秘密にする必要があるだろうか? その作用は低俗で、一文の価値もない。だから私は拳法を伝える際、来る者を拒まず、同好の人々がいれば教え、尽力して教え、尋ねる者がいれば告げ、尽義して告げる。常に人々が理解できないこと、または得る手段がないことを恐れている。故に教える際、聞いても悟らない者や、悟っても実践に移せない者には、しばしば遺憾の念を抱く。しかし、知って実行でき、さらに進歩する者を見ると、また満足の念に浸る。この心は、他人を慰めることによってのみ自己を慰めるものであり、決して師として自称することはない。人と人との交わりは、精神を大切にし、感情を重んじるべきであり、形式の称号にあらず。もし本当に学術を人に授けるならば、私は師として自称しなくても、その恩恵を受ける者は誰でも感謝と義理を持って師とするだろう。そうすれば、師の名は失われても、実は存続する。偽りの拳法で世を欺く者は、たとえ師に拝して弟子を称しても、明らかにその虚無を悟り、嫌悪して学ぶことをやめるだろう。これはどんなに師の名があっても、実は失われている。師徒の名分が定まっても、尊卑の観念が生じ、徒が師に向かって話すときに不適切なことを感じ、しばしば師の尊厳を侵すことを恐れて背けない。たとえ背けても、師は自らの尊厳を守るために厳しく非難するが、反省しない。これではどんなに学術の道義があると言えようか? 師徒の制度が拳道に利益をもたらさないことは、これで明らかである。それに加えて、門派の争いは師徒の制度の流行によって激化し、主従の関係が紛糾し、師から継いだ門派によって派閥が形成され、さらに派閥の分裂によって学理が複雑になり、これでは拳道の真義は永遠に明るい日を見ることはないだろう。また、学問に精通して初めて師がいる。もし三千回頭を下げて、八百回師を呼んでも、学術の根本を全く理解していなければ、師がどこにいるのか全く分からない。学術こそが宇宙の神聖であり、師は尊い。これが私が師徒の制度を解除すべきだと強く主張する理由である。それにもかかわらず、これは私個人の見解であり、拳界では師徒の制度が長年の慣習となっており、一時にして撤廃することはない。しかし、両者の学識と品徳が真に理解し合った後に実行することで、盲目的な追従の弊害を避けることが、より妥当であるように思われる。