意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

王薌齋先生の著書『拳道中枢』

自志

拳の道は大きく、民族精神の需要を反映し、国の学術であり、人生哲学の基礎であり、社会教育の根幹である。その使命は人の心を修正し、感情をさらけ出し、生理を改造し、優れた能力を発揮させることである。これを用いるものは賢くなり、身体は健やかになり、国や村がよくなる。ゆえに専ら技撃に偏るものではなく、もしその使命を完遂することができて初めて拳ということができ、そうでなければ正しいものではない。異なる拳を学ぶことは鴆の毒を飲むようなものであり、その害はいい尽くすことができない。かねてより人に尽くそうとしていた私は見るだけで心が痛み、黙って見ていることができなくなった。私は四十年余りの修拳を通じて、学理を以って真義を探し、体認を以って証明し、その弊害を取り除いた。短所を捨て長所を取り出し、偽を取り去り真を残し、それらを融合させて、発揚させて輝かせ、特殊な拳学の一種とした。友人達は甘美なものを多く試し、愉快なものを習った。私の拳は大成の二文字を付けられた。私は断りたかったが、従うしかなかった。今、この拳は精神、意感、自然力を修練することを重んじる。総括すれば使用する者は大気と呼応する。細かく言えば、宇宙の原則を以って、神圓力方、形曲意直、虚実無定を養成し、触覚と活力の本能を鍛錬する。体については自然に任せて何もしない。用については、すぐに感じるものがある。力を重んじる一般の拳術家は形式を尊び、方法を重んじるため、並べて論ずることができない。一般の拳術家は本当に形式と方法を重んじて、各種の夥しい奇形な拳套を練習している。さらに蛮力の増進を求め、各種の激しい運動を行い、誤って伝えられて得意にしている。ことさら命を削る運動に尽くし、体の神経、体、気管、筋肉が傷つけられ弱りきっていることを知らない。その拳道の使命を完成することを望むのか? 私は本拳が無上の学であるとは敢えて言わず、もし現代に超える論があれば、私一人の論よりも信じる。学術の本能は一代ごとに高くなるもので、そうでなければ必要がない! 私は拳学は神経と体の鍛錬でありと深く信じている。智を増進させ、筋肉を温養して血液を滋養させ、呼吸の流通は益々深くなり、本能の力はますます強くなり、一触即発の能力を実現する。到力の要、功を用いる法についてはすでに述べているため、繰り返さない。この篇は習拳の同志が較べやすくするためのもので、世の文者のためのものではない。私はすでに年を取ったが、多くの人が雪泥の中に鴻爪を尋ね、平日に学び、書き記されたものを引っ張り出し、将来の人の手に一編が渡り、較べやすくなるだろう。私は志によって知を求めるので、各地の諸賢が本拳について教示されれば、余りある光栄であり、一得の愚を以て、他山の石を得ることで益々進んでいく。将来に学を望むものが心を虚にして広く訪ねれば、一方向に限りない量があり、唯一の方面に尽力するだろう。もし体得したものがあれば、共同研究を望み、より広くより深くを求め、人々に利があり、国民体育の水準を引き上げる。これを実施することを望み、そうでなければ少しの値打ちもない。このように引き上げなければ、精神は及ばず、智力は合わないままである。学術の本は人類の共同所有で、私も何人も何を隠すことがあろうか? 粗末に押し込まず、努力してこの篇を完成させた。私は本拳の奥深く精妙なところについては記していない。望んでも、詳しいところまで書き表すことはできず、記録では及ばず、奥底を形容するのは難しい。詳しいところは胸中にあり、一偶三反(訳註:一つのことから類推して多くのことを知る)で、学ぶものは私が誠意と情熱を以て道を授ける。激しい言葉はなくならず、狂った様を失い、自分の罪を知り、人からは笑われるだろう。

河北博陵 薌斎王尼宝 志 于太液万字廊

習拳述要

近世の操拳を学ぶものは筋肉を曝け出し硬いところを人前に誇示している。このような運動家の表現は、奇形の発達が衛生の妨げになり、用いることができず、生理が最も忌むところで、運動の値打ちが全くないことを知らない。近年私はその事を何度も指摘したところ、理解のある士は共感してくれたが、俗の愚かな多くは心を害した。口悪く誹る者はこの真実が合わず、不平不満がある者、人類のために一人で凡そを学ぶ者、忠誠心があり聡明な者はこれを認めることができない。社会で理解するものは少なく、水準の低さが見受けられる。私は拳道の永久を計っていて、私的なことではなく、各地の諸賢に届くことを望んでいる。拳道の由来は禽獣が戦う様であり、その形を真似し、その意を取り入れ、少しずつ進めてて精神假借を一切の法則として合わせ、技として始めたのである。近代の拳術家は形は全く似ておらず、精神と意感はさらに有益になっているか? また、力を用いれば停滞し、百骸は霊とならず、衛生することができない。技撃については、力を用いれば力を失い、法を用いれば術が尽き、凡庸の方法は局部を用いた後天の人造であり、本能の学ではない。精神は統一できず、用力も真実味がない。宇宙力の呼応を利用することができず、精神の範囲は限られ、動作は裹足は前にはなく、用力は抵抗に変わり、抵抗は敵への恐れから出る。どうして相手の撃を受けても受けなくてもこのようになってしまうのか? 用力の害は誠に大きい。力を用いることと意を用いることは同じく一気から生まれ、互いを根と為す。意を用いることは力を用いることであり、意は力である。筋肉が松(訳注:緩める)でなければ、永久に伸縮、遒(訳注:取り込む)放の力を得ることは出来ない。養生と高い水準の運用がいかに得られるのかは分からない。ただ、意は形から自ずと生まれ、力は意が転じるのに随い、意は力の総帥であり、力は意の軍であることを知らねばならない。いわゆる、意は緊にして力は松、筋肉は空霊、毛髪は伸び上がり、力は棱を生む、である。これらがなければ、自然の天趣(訳注:仏教用語。天道に同じ)である意中の力を得ることはできない。本拳は20年前から存在し、一度は"意拳"の名を持っていた。意の字は精神を表し、本拳が意感と精神を重んじるという意味である。元々は人を覚醒させるという思いから名付け、正鵠を得るのではなくそこに向かわせるという覚悟であった。どんな一般の拳術家も各々私見を持ち、長期にわたって形成された悪習は改めるのが難しく、多くは賛成せず心を動かさない。短所を捨て長所を取り、どこにあるかを検討せず、古くあるものを大切に守ることを望んでおり、どうすればよいものか。遂に私の願いが叶わないのは残念だ。私は自分の智力が波に従い流され、拳道の真義が永遠に沈んでしまうことを許さず、大声で叱咤し、麻痺を奮い立たせて覚醒させることを望む。このわずかばかりの志は止むことがない。

論信条与規守

拳学の道はただ肢体を鍛錬するのみにあらず、重要で深い意味がある。まず、伝統的に徳性を重んじ、信条を遵守し、尊師を敬い、親に長く孝行するなどがこれである。他にも熱心に義侠心、仏心を求め、志を持って自分を捨て他人に従うなどしなければ、拳術家に選ばれることはない。雄渾で内に秘めた気概、忍耐強く果断の精神、人類の情感の表出、敏捷な英雄の資質は学ぶ者にとっては必須の根本要件である。なければ教えを得ることは難しく、もし教えられたとしてもその真髄を得ることは難しい。故に先輩から教えを受ける際は、周到慎重である必要がある。そうした人材は得難いので、入り口を書き記すことは簡単ではないが、伝授の際にはみな四容五要を本と為す。頭直、目正、神庄、声静、恭慎意切和の五字で示される。以下の五字訣歌はその意である。

習拳即入門 首要遵師親
尚友需重義 武徳更謹遵
動則如竜虎 静尤古仏心
挙心宜恭慎 如同会大賓
恭則神不散 慎如深淵臨
仮借無窮意 精満渾元身
虚無求実切 不失中和均
力感如透電 所学与日深
運声由内転 音韻似竜吟
恭慎意切和 五字秘訣分
見性明理後 反向身外尋
莫被法理拘 更勿終学人

論単双重与不着象

拳道の原理について論じるならば、平時の練習であれ技撃の中であれ、全身の均整を保持しなければならず、微塵も偏りがあってはならない。少しでも平衡でないところがあれば、形は着象し、力も破体する。神、形、力、意はすべて着象を許さず、一たび着象すればそれは片面であり、衛生的ではなく、また人に乗じられ易い。学ぶ者はこれを慎むべきである。均衡とは呆板なものではなく、少しでも板になると双重の病を犯し易いが、霊敏過ぎてもならず、霊敏が過ぎれば花となってもは実はならない。体は伸び伸びとし(=舒放)ながら、屈折を含蓄せねばならず、発力の時もまた断続を許さず、いわゆる力は亡びざるものである。双重とは足の位置を指すのではなく、頭、手、肩、肘、膝、胯の大小の関節に至るまで、微細な力にも全て単双、松緊、虚実、軽重の区別がある。現在の拳家は大抵が片面の単重から絶対の双重へと歩み、更に絶対の双重から僵死への道を辿る。単双重の学は、長く習うほど溺れるものである。今の各家の拳譜を論じても、すべて本を失い適当でなく、その作者は皆形を露わにし、規を犯し、体を大いに破る者で、すべての姿勢は荒れた唐の天下、麻の世人の肉であり、習うほど拳道の門径から遠ざかる。着象せずに死板になり、一度着象すれば散乱して章がなくなり、たとえ単重の妙に遭ったとしても、理解できなければ、これも双重と変わらず、不自然で不快であり、百骸が正を失って止まり、刻板な方法へと歩み、機に随って動くことが永遠になく、変化に方はなく、更に良能を発揮する日もない。あぁ、これもまた誠に可哀想なことだ。神と意が着象せず、触感の良能の活力を応用できなければ、それを証明することも足りない。例えば双方が決闘し、利害が目の前にあって、間髪も許さないとする。まだ接触していない時にはどう応用するかを知らず、解決した後でも適当な時に何を使ったかも知ることがない。いわゆる、期せずして然り知らずして至るであり、また極中で和に到る。これが本能力の自動の好機である。

抽象虚実有無体認

習拳入手の法はただの一端ではなく、結晶の妙であり、風が吹けば草の全てが動くように、神形意力が互いに一致した運用である。この種の運用は全て視れば無形で、聞けば無声で、本体も像もない。有形であるところは、勢は空中の旗のように揺らめいて定まることがなく、風力に応じる、いわゆる大気応合である。また浪の中の魚のようで、起伏は方向を定めず、触れることで縦横往還を触れることで聴き、機を見て感じたままに動き、発しては虚霊となり、沈黙を守る精神である。虚無を以て有となし、有のあるところに無が存在し、誠と老荘、仏釈は無為を有為となし、万法はみな空即実であり、一才の学理も僅かに似たものを称している。俏逸の絵画において天地が無窮であることも同じことである。その機と趣は無形と神似の間で完成する。これは意が求めるところである。習う時は鏡の前で動作を行うことを戒め、形を求めることを恐れる。そうなれば、内は虚になり、神は散ってしまう。習うときは三尺の外、七尺の内、四周に大刀、斧を持った敵と猛獣、毒蛇がうねうねと来ると想定し、その中で生き抜く情景があり、須く敵なし恐れることのない精神で、虚中に実を求める。強大な敵が林立する中で、我は無人の境地で周りを旋回し、実中に虚を求める。日々深く修養を体認し、全ては抽象の中から獲得する。いわゆる神意が足ることを求め形が似ることを求めずであり、対象が存在することを許さず、一切から解脱する。習う時は次のようなことを心に刻まなくてはならない。即ち、慢を要して神は速く、手は空とならず、意は空回りせず、微細な点の力と動作は具体で応じないところがなく、内外は相連し、虚実は求めあって一貫し、いついかなる時も技撃の感(本能)がないことがない。もし速度を求めれば、一切の経過は滑落し、何から体認の作用を得るのだろうか? 故に初学は須く站樁を基礎と為し、徐々に会得してから、神形意力を一貫させ、また四心(頂心、本心、手心、脚心)を相合させ、神経を統一し、一度動けば動かないところはなく、微かなところは合わず、四肢百骸はその中にあり、執着せず止まらず、大気に再び呼応し、各点の松緊はお互いを用となす。己の身から離れれば何も求めることはできず、己の身に執着すれば何も得ることはできない。この言葉を細心に会得すれば、拳の道の奥をおのずと伺うことは難しくないだろう。

練習歩驟

本拳の基礎練習は站樁である。その効用は精神を鍛錬し、呼吸を調節し、血液を流通させ、筋肉を伸び伸びとさせ、強身を養生し、智を発展させる学である。また運動をより発展させ、試力、試声、假想、体認の各法則、さらに自衛と大気の呼応と波浪の松緊を養い、良能に気付き、虚実は互根である。この各階段については後に詳しく述べる。

站樁

站樁は穏やかに立つことで有り、平均の站立である。基本樁を初めて習う時は、まず全体の構造を正しく配置することから始め、内は清虚、外は脱换し、力は抜いて自然にして、頭は真っ直ぐ、目は平行にし、体の端を真っ直ぐにし、神は雄大、力は均等に、気は沈め、息はなだらかに、意思は遠くを望み、腰は真っ直ぐぴんとして力を抜き、体の関節は僅かに曲がる意で、いかなる考えも消し去り、黙って空に対し、内念は外で遊ばず、外縁は内を侵さず、神光が頭の頂点を照らし、ただ虚霊だけがあり、全身の毛髪が真っ直ぐに伸びて立ち上がる勢いで、体の内外が激動回旋し、宝樹の上から縄で吊るされているようで、外を支え、其の抑揚は神情に寄り添いあい、空気遊泳に似ている。後に筋肉と細胞が揺れ動くのが感じられ、鍛錬は自ずと得られ、自ずと正常な運動を知る。正常とは生理の道を改造することで、貧血であれば増加させ、血圧が高ければ下降させて正常とする。運動とは何かについて論ずれば、心臓の搏動は常態を永遠に失わず、平衡に発達し、精神方面では身は溶鉱炉のように視え、溶けないものはないことを体認する。各細胞が自然と同時に働くことを観察し、いささかも無理強いすることがなく、幻想を許さず、上述の鍛錬を行えば、筋肉は鍛えずとも自ずと鍛えられ、精神は養わずとも養われ、全身が伸び伸びとして流通し、気も従って変化し、本能の自然の力が内より外に出て、自ずと少しずつ発達する。しかし心身に一切の力を用いてはならず、そうでなければ血が僅かに注がれ、松和を失い、松でなければ気は停滞し、力は板のようになり意は停まり、神は絶たれ、神が絶たれれば全体が皆誤る。站樁、試力、技撃はただ呼吸が少しでも常を失い、横隔膜が少しでも緊となれば錯誤となり、学者は慎重にこれを行い、軽視することなかれ。

試力

以上の基本練習を行えば、相当の基礎ができ、一切の良能は発展し、日を追うごとに増強される。そうした後、継続して試力を学び、各項の神情の力量を体認し、真実の効用を期する。試力は拳術の練習の中で最も重要であり、最も困難な部分である。試力は力の由来を得るもので、力は試すことで得られ、さらに知ることでその用を得ることができる。練習時には体はいずれも均整で、筋肉は空霊、毛孔はどこも風が吹き抜けないところがないことを思い、骨格毛髪はどこも支撑、遒放を要し、初めは僅かだが神は全てになり、慢は快より優れ、緩は急より優れ、行こうとして止まり、止まろうとして行く、行こうとして止まらないことができず、止まろうとして行こうとすることができないの意で、全体の意力が円満であり、その意力は時と場合を感じて発せられるかどうか、全身が宇宙力の起感を感じられるかどうか、假借の力が事実となっているかどうかを体認する。宇宙力と応答するためには、まず大気が発生する感覚があり、感覚は後に呼応し、再び気の松緊の波と地心の争力の作用を試す。力の用は過ぎず及ばず、試すことで初めてこれを得ることができ、少しずつ全体にこれを得て、この種の力と良能は逐次発せられ、根気よく操れば、不可思議の妙があり、各力はまた入手することは難しくなく得ることができる。意は断たれることがなく、霊があって散じ、渾噩は一体となり、僅かに動けば引っ張り合い、全身は上下左右前後を忘れず、失わない。心地よい力に到達しないのは、おかしなことが生じているからで、拳の妙が不足しているからである。試す各力は名称が甚だ多く、蓄力、弾力、驚力、開合力、重速、定中、纏綿、撐抱、惰性、三角、螺旋、杠杆、軸輪、滑車、斜面などの種類の力量で、試力を通じて自然にこれを知る。全体の関節で屈を含まないところはなく、同時に放縦と開展を含まないところもない。いわゆる遒放互為であり、鈍角三角形をなさない節はなく、平面積はなく、固定の三角形もなく、拳中の力は全て精神方面の体認によってこれを得る。形は微かな存在である。形は表面の客であり、不動に似て、三角の螺旋が自ずと輪旋して定まらず、しきりに錯綜する。形があれば力は散じ、形がなければ神は集まり、自分で体験しなければ知ることはできないということを知らねばならない。螺旋力は私が体認したところでは、三角力に由らなければ得ることができない。一切の力量を所有するということは、全て筋肉の動揺と精神假想の相互によるもので、密接な関係があり、分言してしまえば焦って法の門に入ることになり、片面耳になってしまう。故に口伝心授でなければ、得ることは容易くなく、些細な部分を説明しないため、ここでは詳述しない。

一切の力量は精神が集まり、密接となったもので、内外の含蓄が一致して用いられ、もし単独で論じれば有形で壊れた機械の拳道となって精神の意義の拳でなくなってしまう。私が四十年余り体を訓練してきた経験からすると、渾元の拡大によって各力量は倍に感じられ、空洞と無我が生まれ、渾元と空洞はまた全て細微に渡り、能力を得る。天地の間の一切の学術は、矛盾を感じなければ円融ではなく、矛盾を統一することで貫通を始めることができ、分けることも合わせることもでき、そうでなければ理を明らかにすることは易しくない。用力の法は、渾噩を要して、絶対的な形式の優劣は存在せず、姿勢の繁簡はなく、ただ精神の支配の大意と意念が全体の内外の働きを導く。動作時は、形式方面においては単出、双回、斉出、独進、横走、豎撞、互斜互争、渾身之節、点、面、線について論じず、一切の法則には微妙な違いや順序はなく、軽重、松緊の違いがあるだけで、形は外に現れず、力は突出せず、断続することなく、軽重方向の感覚を許さず、試力・発力のどちらについても体の松和を保持し、発力は蓄を含み听力を有し、触れるのを待っている。神は内に収まり、骨は棱を収蔵し、三尺の外に人が存在し、網を仕掛けて内に包むのに似て、フォークが勾錯の両方を備え、弓が発せられるのを待つ勢いで、全ての毛髪と筋肉が伸縮、回旋し、全身の内外に軸受の球が通らないところがない感で、虚無が種々の無窮の力を假借するが如くで、説明すれば煩雑になる故に具体的には論ぜず、学者は神に通じればこれを明らかにする。以上の各力を身で覚えたとしても、習拳の道はすでに終えたと思ってはならず、ささやかな資本を得たのみで、拳学を学ぶ可能性の始まりであり、もし動けば松緊緊松は行きすぎず、虚実実虚は中平を得て、中心を会得し、大敵との長い経験がなく、実戦をつまないなら得ることは難しい。天の資質を極め、人の気を推し量り、功力を純とし、思索を加えず、煩わしく意を模倣せず、時を待たずして至り、知らずして知り、本能の触覚を活用する。具体及び細微の点力は矢を放つ動作でないことを避けねばならない。全体が矢を放つようでなければ、その妙を得ることは難しい。

試声

試声は試力の微細に及ばない部分を補助するもので、その効力は声波を用いて体の細胞を鼓蕩させる作業にある。その本意は威嚇にあらず、しかし聞く者は突然の恐怖を感じることになる。実際には声力が同時に発生するためであり、単に声を上げて威嚇するのとは異なる。試声では口内の気を外に吐き出すことなく、声を内から転じて功夫を運用する。初めは声に有りて、次第に有声から無声へと変化させる。人の声はそれぞれ異なるが、試声の声は世人共通である。その声は幽谷で鐘を撞くような音であり、古人は言う、試声は黄鍾大呂の基であり、筆墨で形容することはできない光彩を放つものだと。学ぶ者はその神を観察し、その理を測り、その声を聞き、その意を揣み、そして試声の情態を試みて、初めて得ることができる。

自衛

自衛は即ち技撃である。大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばないことを知らねばならない。不動は動いて止まない動を生むことを知らねばならない。機械の車輪や子供の捻転のように、快は外の極に到って、不動に似る。動を観るにまさに不動であり、無力の表現である。不動の動は動よりも速く、極まった速さの動は不動の如く、一動一静は互いを根として用いる。その運用の妙は神経支配から来る、意念の領導、呼吸の弾力、中枢の堅固、路線の転移、重心の変化にある。以上の諸法を機を得て適切に用いれば、技撃の基礎は備わる。また随時随所で一挙手、一運足を養成し、機に応じて発する準備があり、虚霊に無窮の意感を含み、方を尊ぶ。然れども学者は打法の一道にこだわり、無足の探求が難しく、必要な過程を経なくてはならず、融通が効かず凝り固まるようであり、時刻が重心の路線部位の所在を表現しており、足の論がない。動作が迅速で、身が無定、猿の如く活発であれば、各功力を備える必要はなく、その運動の速さは一般の能力ではなく、打法に加えて日々研究しなくてはならない。習うときはまず下腹を鍛錬し、臀部を充実させ、頭、手、肘、胯、膝、足に各打法がある。提打、鈎打、按打、掛打、鋸打、鑽打、搓打、払打、畳打、錯打、裏打、践打、截打、堵打、摧打、撥打、滾力打、支力打、滑打、粘力打、圏歩打、引歩打、進歩打、退歩打、順歩打、横歩打、整歩打、半歩打、引歩打、進歩打、退歩打、順歩打、横歩打、整歩打、半歩打、斜面正打、正面斜打、具体之片面打、局部之整体打、上下巻打、左右領打、内外領打、前後旋打である。力を絶っても意は絶たれず、意が立たれても、神はまた連なり、動静は発と未発の機と一切の打法を暗示しない。これらは局部の論ではあれど、練習しなければ得ることは易しくない。小乗の功夫を終われば、聡明な知恵者はこれを習わない。

技撃樁法

技撃樁と基本樁は神形が僅かに異なるが、依然として原則に基づき、歩は八字の形をして、丁八步と呼び、半分は丁で半分は弓矢の八である。両足の重量は前三後七、両腕は撑抱の力があり、内七外三、いつでも発力でき、力の始めは平均で、平衡が後で、火器のバネのようであり、伸縮は不断の意で、両方の手足は距離を変じて、長きは一尺を超えず、短きは一寸を過ぎず、前後左右の互換は無窮であり、訓練が達してくるにつれ、その妙が感じられるようになる。松緊沈実を利用するには、柔静惊弹を吟味し、経路の遠近、構えの配備、発力の虚実、宇宙の力波と時間の機会を利用し、これらを少しずつ検討し、拳学の問題を整理し、平時から虎豹の前にいると想像し、生存をかけた状況でつかみかかりあう勢いでいれば、この技撃を入手する不二法門に初めて入ることができ、これが最初の法則である。後に述べるように神、意、力の運用である。

神意之運用

技撃の站樁は具体、空霊、均整を要し、精神は充実して、神は霧の中の豹のようで、意は霊犀の如く、具体は荒馬が奔放のよう、神は鳴いて噛む勢いがない。頭は頂、項は竪、頂心は按縮、全身が鼓舞され、四外は牽引され、足趾は地をつまみ、両膝の撐撥力は上を向いて提であり、踵は僅かに起で、巨大な風が樹を巻き込むようであり、地を引き抜いて飛ぶ思いで、擰(=捻る)攏(=引き寄せる)横揺の勢いで、具体は撐(=支える)裏(=巻き込む)豎(=垂直)漲(=上がる、増す)があり、毛髪は戟の力があり、上下の中枢は曲折があり、多くを巻いて線を重んじ、抽撥の力を自乗して、天地が相争い、肩は撑、肘は横、裏巻回還、撥旋は止む事がなく、上は兜(=包む)下は附(=くっつく)、推と抱は互いをなし、永久に平衡均整の力を失う事がない。指の端は斜めに挿し、左右は鈎(=引っ掛ける)拧(=捻る)、外は翻、内は裹、山岳地球を推す感があり、筋肉は力を含み、骨の節は稜を生み、具体は収斂し、思動は吞吐を含むことを知り、横滾(=転がる)推錯(=すれ違う)兜巻の力が有り、毛髪は森立し、背は竪、腰は直、小腹は常に圆、胸部は僅かに収め、動は怒った虎が山を捜すようで、山林は崩を望み、全体は霊蛇は驚変の状態で、身が火で焼かれるのに似て、閉じこもっていた龍が稲妻のように真っ直ぐ飛び上がる神気で、筋肉が激しく沸き、力は火薬、手は弾丸の如く、神機は僅かに動けば雀も飛ぶのは難しく、神助の勇に似る。故に一度物に会えば、神意が交わり、天地に網をかけるが如く、無物は逃げることができず、雷鳴が鼓舞するが如く、草木に雪や霜が降り、その発動は神速、この種の神意の運動はこれと比べる物はなく、”超速運動”と命名した。速度の快を言えば、一切の速度を超える。以上で述べたことの多くは抽象で、精神方面では切実で、幻に流されないようにしなければならない。

力之運用

神意の他にも、力の運用は更に欠かすことができず、それは良能の力であって、一面の力ではない。大部分は試力によって求め、習時は偏った面積の部分ではなく力量の均整を求め、次に点の力の均整から虚実の偏りを吟味し、適切な試力と発力をもって偏った松緊を元通りにし、更に適切な発力によって神光の離合と逡巡、波浪の弾力と気勢を利用し、再び渾身の毛髪が道を尋ねる様で、一触即発の効能を期する。時には技撃の要点を備え、全く矢を放てないことがなく、虚を見て実の外を撃たず、実のすぐに虚があることを知り、虚実は中心の外を転移し、もし体験しなければ、永遠に混撃、蛰打が役に立つを知らない。誰と対手してるかを看て、正面から僅かに転じて斜面となり、斜面は正面からの撃を迎えて推すことができ、力の弛んでいるところを探し求め、静かに謹んで意は切にして、思を静かに収める。技撃は一方面から言えば性命の争いで、いわゆる決闘であり、決闘には道義はなく、肯、忍、狠、謹、穏、准の六字の要決を守り、互いに決死の心を持つ。撃の中になかったとしても、撃ができなくては動けば死に到るとなれば、今まさに撃つことができる。このように決心すれば、自ずと勝てないことはない。この勢は力が同等の敵を指し、技能が及ばないなら、譲ることは妨げない。もし同じ道にある者を訪ねて、身手を較べる際は、友情のために較べて性質を検討するのであり、決闘と同じではない。道義を重んじて、相手の能力が何に似ているかを観察し、力量が離れている場合、完全に譲り、畏威懐徳を切に用いる。力を較べる先に相手に礼をもって譲り、互いに穏やかに言葉を交わし、丁寧な態度を心がけ、傲慢になって焦ってはいけない。今後、武徳が少しずつ復活すれば、古い道は長く存続し、拳の道も無比の光栄を得られ、大きな期待を持てるだろう。

論拳套与方法

拳の深淵さは無窮で、たとえ学者が比類ないほど賢く、信じて疑わず行う精神を備え、一生を習得にかけたとしても、極めることは難しく、拳套の方法は人造の拳架である。清の時代から三百年、一般の門外漢が役人に表演して自己満足し、拳を生計の道具としてきた。拳を研究しようとする者はこれを習う暇があるのか? 全く無用なだけでなく、神経、肢体、脳力を妨げ、具体の一切の良能を害し、故にこれを習う者は極めて知識がなく、実用には役に立つことがなく、害が極めて多く、書き尽くすのは難しい。拳の使命からして、衛生の原則から大きくかけ離れ、根本について語らない。技を較べれば、不要な方法や拳套があり、野蛮で混ざり気のある撃でも敗けに到らないかもしれないが、もしこれを用いれば必敗は疑いがない。いわゆる五行生克の論は三尺の自動でも信じられないと思うが、誰が信じるのか? 決闘者にこれを聞いてみれば、自ずと私の言葉に偽りがないことを知るだろう。漢書の範五行識を見ると、政治、人民の需要を指し、金、木、水、火、土を開発して応用している。後に一般の不学の識のない輩が濫用して採用し、妄想で偽造し、いわゆる五行生克の秩序をもたらし、香具師がこれを口伝で言い伝えた。どうして学者がこれを読む価値があるだろうか。おおかた拳套についても、大部分は人が偽造したことが知られ、招勢と方法もまたどうして人が偽造していないだろうか? これらはみな、拳の原則である本能発揮の学ではない。よしんば純粋な功夫を忍耐強く信じ続けたとしても、その成果は残り粕に過ぎない。拳学の根本は無法で、無微無法ともいい、一度方法があれば精神は一致せず、力は篤実にならず、動作は緩慢で速くなく、一才を統一できず、良能から背くことになることを知らねばならない。法とは原理原則の法であり、板に彫った字のような型通りの取るに足らない方法ではない。それは藪医者のようであり、学ぶ者はすべからず方法と処方を患者に準備し、患者は病気を調べる、そこには否定するところがない。拳の拳套の方法はおおよそ、蛇神牛鬼ではなく大道を乱し、みな拳道の罪人である。現在の学者は探求の志があるが、経門に入る余地がない故に、私は強く説破したい。拳套の方法はいささかも無用で有害の長物であり、なぜ伝える者も習う者も気にしていないのだろうか? 知識が薄弱である人が多いために、好奇心や興味ゆえに真実を告げても理解して、行動することが難しく、拳套方法を習う者は世を跨いで人を惑わせ、拳套方法を持って人を欺き、時間を消耗することで生計を立てて、拳が何であるかの根本を理解しているのか? ゆえに止むことがなく誤って人を導き続けており、嘆かわしく、腹立たしい。あぁ、拳の一道はただ、一切の学術を感じ、大部分は奇形に発展して、自分の同類が迷い、救いがたいのを見るのは耐えがたく、故に私は長年の体認の経験を惜しまず、得たもの知ったものを繰り返し論じ、その妄想を正し、同胞を覚醒させ、妄念と不悟から回復させたい。おおよそ天地の間の高深な学術は、みな形は簡易で意は煩雑で、形勢が複雑なものは純粋なものは少なく、いうまでもなく拳の道ではない。これを同志が熟慮することを願う。

論拳与器械之関系

古くから「拳は兵器に成り、刀槍だけを習うなかれ」と言われる。拳中の真理を獲得したなら、各力の能力、面積の屈折、長短、斜正の虚実、三段九節の効用、路線の高低の方向、接触時間の火加減を回復する。意と神を理解したなら、刀槍剣棍など各種兵器に付け加える点はなく、全て精でないところはなく、見聞したことのない兵器に遭遇したとしても、兵器を用いる伝家の手によって、彼は敵ではなく、技師と护士、医者と看護師のように比例することはない。

論点穴

点穴の説は世間の人がみな奇怪に思っているが、点穴道、時間を述べる者があり、その種々の分論は止まない。それを聞けば、人生吐き飽きるが、皆そうであるわけではない。双方の技を比べるとして、敵と力が均しい時、固定の穴を打つことは容易ではない。言うまでもなく撃中はどのような穴も打つのは難しく、さらに時間をかければ敵に撃破される。もし拳道の根本の能力がなければ、たとえ任意の点を突き、その技を無いところに施し、幸いにも中心に当たったとしても、効果はない。もしすでに拳中の真実の理力を得ているなら、両肋前胸の某一部位 一つ打てば即死に至る。故意に点穴を意図するのではなく、至るところにあり、点穴ではないところはない。もし穴の場所を学び、いつでも点穴を付けるようになったとしても、その道はかえって遠いのではないか?

天賦与学術之別

世の人は天賦と学術の違いについて以下のように話す。身長が八尺あり、力は千斤を越え、その勇は覆うことができない。身長八尺で、力が千斤を越えるということは、ただ条件に恵まれているだけで、拳学の代表とはなれない。また拳の一撃で巨磨石を断ち、単掌劈が八つの塊の煉瓦を砕き、前縦一丈、後八尺を跳ぶ。このような能力は、愚人の局部の功夫に過ぎない。必ずこれらの方法は廃れるに違いなく、拳道によって得るところはない。世の多くは特殊な奇士、若遇通家を思うが、まったくもって無能で、飛槍壁剣侠の説の至論であり、これみな小説家の無想仮造であり、ただ一笑に付すのみである。石が刀槍を通って開き、江湖中、吃托の流れの如くである。これらは、一道に値しない。

解除神秘

天資歴が低くかつ、学識の浅い者がいる。人への忠誠があり、すでに師の教えを受け、絶大純篤の功夫の一つを専門に研究している。一部であると言えども、その多くはその言論の玄妙を聴くに及ばない。その効用を見ると、浅い者を識別できる。誰もそれを行うことができず、ことさら神秘の説を知らず神秘を以て視ているために、根本は不条理であり、おおむね知識薄弱で、鑑別力が浅く、体認が精製されておらず、獲得していたとしても偶然の幸福である。拳中の真義に至るなら、無能力に対処し、漠然と見逃してはならない。理を比べる者は、一種の神秘思想が起きやすい。深く習うならば、見聞が広く、処遇があり、自然豁然をはっきり知る。また他にあることを疑わず、全てのことは然るべきところに収まる。どうして一人拳を学ぶのであろうか?

知行解釈

学術の一道は、知ることによって行うことができ、行うことによって知ることができる。そうでなければ、自分を欺くことになり、妄執にとりつかれ、際限なく話すことになる。知行の二字は名前は簡易であるが、実際は煩雑である。世の人は「知ることは難しく行うことは易しい」と言い、一方で「知ることも行うことも難しく、知行合一に易しいところはない」とも言う。以上の話には、各々に理があるが、大雑把で片面の理を集めたもので、徹底的に明らかにするものではない。専門の学問を持つ者は皆、知ることは難しく得ることは易しいと言う。功が深くなるのを識鑑する(=見定める)ように、知るのは易しく行うのは難しい。もし認識はあるが功力がない場合、知るのは易しく行うのは難しく、ただ功力がなく知識もない場合、知行の二字の両方が不可能である。学術の根は無の境地であり、若干の知と若干の行があって、何歩か進んだとして、どこまでが真の知で真の行なのかどうやって知るのだろうか? 私はあえて論結を加えない。知ることができる者は既に行っており、また知ることができる者は既に行っている、いわゆる知行一致を始めることができる。真の知がなければ真の行の日は来ず、また真の行がなければ真の知の時を移すことはない。学術が皆そうであるように、真理はお互いに相成りたつものであり、武徳は甚だそうである。だからこそ二つは道中で絶えず出会わなくてはならず、思考する暇がなく、老夫が常に話していることも認められない。学術の一道はまず理を明らかにし、さらに切実に功を用いる。先に理を明らかにしなければ、功をどのように用いればいいかを知らず、外れた道に容易く入り、功夫は悲惨なものになり、読書と写字やいずれかの芸術を論じるまでもなく、幼年時からそれを原因になり、年長になり功が深くなり、天下に響くものでも耐えないものになるのはこれである。その理由は師の法が良くなく、功が細心ではなく、表面を追求し、人が学べば学び、人が言えば言う、いわゆる盲従である。もし習っても成果が出ないなら、愚昧で永遠に体認しないと言える。茫然とした一生、実際がなく、神秘思想に容易く入り、ついに入り口を見ることも叶わず、最後まで体認することがない、哀れかな! 巧みに知った者は習う門にいるに過ぎず、文いわく「子孫は愚かであり、読書を避けることができず、理を明らかにして、更に実践し、内外を明らかにして、お互いに支え合わなければ、軌に入ることは難しい」。

拳道喪失之原因

習拳には三つの原則がある。一つは健身、一つは自衛、一つは利群である。利群は人のなすべき職務であり、その基本の要点は心身の健康を得ることで完全となることで、不健康では精神を充足することはできず、精神が不足すれば事跡を歌うことも泣くこともできず、必ずしも身を犠牲にせず、身を捨てて義を取り、水域で溺れている人や首をつっているのを見て恐れ、萎縮して、前に進むことができず、いわんや困っている人がいれば刀を抜いて助けることができるだろうか? これに限らず、おおよそ身が弱い者は、気が小さく、情緒が悪となることが多いが、これでは器が伸びやかで、体が健康であることは不可能である。健身は人生の本であり、習拳は健身の基であり、一切の事業はこれに依り、その関係はとても大きく、どうして本物と見間違えて、天下を欺き、これを論じない者にこれを任せるのか? 拳道の最初は最も簡単であり、後に向かうにつれて複雑になり、拳道は生理の工具を改善し、良能の要決を発揮する。簡から繁に入ることができるが、繁から簡に入ることは、生理の原理原則に背き、不可能である。形意拳は当初三拳があり、三拳は一動作であり、いわゆる践、鑽、裹である。馬奔が連環するのは、一気に三種の力が合一した作用である。五行十二形はこの内に包括され、五行は原初の代名詞であり、五種の力の名詞である。十二形は十二種の動物のように各種の特徴を持ち、十二形と各種拳套を単独で集めたものではない。八卦拳もまた最初に単双換掌があり、後に浅識の者がこの真義を理解することができず、六十四掌と七十二腿という偽の方法を偽造したが、無益であり有害である。太極拳の流れもまた弊害が多く、生理方面での害は多くないが、それでも誤っており、一切の姿勢に少しも得るところがない。拳譜が論じているように、文字で正当なものと較べれば、精義は少なく凡庸なものが多く、具体的ではない病が大きく、近代の拳術は総論すれば、根本的に養生と技撃の当否について論じず、生理の要求を満たす一方すら存在しない。私は四十年余り大江南北を歩き、千万の拳家に会ったが、その均衡を得たものを見ず、まして精奥については言うまでもない。拳の本は形は簡で意は繁であり、終生習ってもその要義を明らかにすることはできない者もある。至善の境地に到達し、鳳毛麟角に属しない者は、この道の根本が不足しているのである。これは拳道の原理が難しいからではなく、一般人に平易な思想と屈強な意思が欠乏しているからである。今世は招式の方法が名をつけられないほど多いが、それは美観を得るために演じているからである。習拳がもし人を悦ばせることが目的なら、習拳を捨てて演劇をしてはどうか? 演劇中のなかも少しは本当のところがあり、一般の拳家と比べると高い水準がある。今の習拳者は若干の套と幾多の手が得意であると聞くが、ことさら不知であり、側で笑われ、しきりに嘆息されている。拳道の喪失は、拳套の方法ではなく、三百年来の歴史がすでに当たり前になってしまい、戻すのが難しく、次に習うものがこの波を推し進めている。四象五行の説、九宮八卦の論を演じ、河海の学者に及び、荒唐玄奇の文句を言い、できるだけ取り入れてこじつけ、学者が真実を明らかにできず、出鱈目なことに殺到し、原道の原理がどうして滅んでいないと言えるだろうか? この他にも套、刀、槍、剣、棍などいくつかの学があるが、これを利用して生計を立てようと欲すし、幸いに機会が得てその謀が上手く行く者、あるいは生計を立てれなかった者も機会があれば利用し、効法を争い、社会に広る、このような振る舞いは拳道の真義に背くだけでなく、義侠心も同じように廃止されてしまう。特別秀でた者を許さず、拳中の真奥を窺うことができ、長い間にできた見識とは異なり、精華を人に示そうとせず、江洋の水がなぜ人に危害を及ぼすかを知らず、見識が広がらずに小さいままになっているのはなぜか? もし学術が人類の共有であり、得るところがあれば、当然社会に公にすべきであり、どうして覆い隠して隠してしまえるだろうか? 

近頃、仏門に頼る者が増え、神や霊の話、どのように修道をし、どのように仙人に会うかという荒唐無稽な話や、邪悪で混乱した方法にさらに過激なものまで、本当に驚くべき話をしていると耳にする。実に嘆かわしいことだ。今は科学が進んでいる時代でありながら、このような間違った言説を人々に広め、新聞などに掲載するなど、このような愚かな人々は、真の恥知らずである。仏が実際に霊的な存在であるならば、このような間違った考えが広まっていることにどう思うのだろうか。生計を立てる方法は一つではない。なぜ人々を欺き、社会の弱点を利用して自分も欺くのか。これについて考えると、拳道を悲しむばかりでなく、世の中の道徳や人々の心を嘆くことになる。

拳道の衰退は、確かに罪康や雍の二帝の時代にその技を前面に押し出し、本来の道を踏襲しなかったことが原因である。しかし、同時に仲間たちの知識や認識が不足しており、根本的な性質が悪かったことで、彼らに欺かれてきた。結果として、誤った伝統が今日まで続き、真実の道を見分けることができなくなってしまった。覚醒した者もいるかもしれないが、門派を守る先入観から他者を批判する傾向が強く、拳道はさらに衰退している。拳道を正しく学べば、身心に良い影響をもたらし、一切の仕事にも役立つ。しかし、誤って学べば、品德、神経、身体、性情すべてが異常になり、生命に悪影響を及ぼすことがある。過去には、名高い拳術の達人が筋肉の不調で麻痺や萎縮を引き起こすケースが多かった。拳を習う目的は養生のためだったが、逆に命を縮める結果になることもある。拳道を国の国粹と称える人も多いが、そのような国粹が身体を壊す道具となっているのではないか? 民国十五年以降、各地に国術館が設立され、他の技能は国の一字を称するにふさわしくないとされている。しかし、この価値のない国術は我々の国だけに見られるもので、このような名前をつけるほどの人物はまだ現れていない。私はこれほど大胆な者たちが何を考えているのか、理解できない。また、運動を推進する偉い人たちが日々その利点を叫んでいるが、実際には、そのような健康的な活動をしている人たちは早死に近づいている。あぁ、なぜこんなにも盲目的に追従するのか理解に苦しむ。私は人々に真実を静かに考えるよう願っている。身体は人生で最も価値のあるものであり、盲目的に破壊することは許されるのだろうか? 師に師事して技を学ぶことは慎重に選ばなければならない。私が拳道を学ぶ際には、正しいか間違っているかの判断しかなく、門派や派閥の違いを知らなかった。拳道が再び繁栄するように、私は生涯の知識と経験を後継者に伝えることを願っている。さらに、社会のすべての人々がそれを理解することを願っている。私は、人々を家族のように思っており、師と弟子の関係を持ちたくない。門派の概念を排除することで、拳道が再び繁栄することを願っている。

解除師徒制之商榷

師徒の制度は美徳として称えられるが、しばしば最も美しいことが、我が国で行われると弊害が多く生じ、醜態をさらし、とりわけ拳界ではこれが最も甚だしい。故に社会はそれを軽蔑し、師に拝しないで秘伝を得るのは難しくないと考える者もいれば、師に拝して親を示すことができず、また要訣を授けようとはせず、ましてやその効果を見せようともしない。嗚呼! これは真に粗末なことだ。一旦表面的な流れは論じず、本来技に秘密などなく、たとえあったとしても、その秘密は拳道の真義を絶えず超えてしまうだろう。ましてや門壁の中にも、秘密を伝えないものがあり、私はその理由が理解できない。これは真に下劣なことだ。拳道が隆盛しないには理由がある。今日に至って、異なる拳法の弁証が世界中に広まり、ますます加速することはため息をつくほどだ! 拳道の真義は、人生の大道と同じく平凡であり、また天地の精微と同じく深遠である。道を理解せずに学び、一生を通じて学んでも尽くせない、秘密を追求する暇がどこにあろうか? 人類すべてが民族の情を抱き、飢えと溺れを見る目を持っているべきだ。もし本当にそうであれば、世界は安定する。さもなければ、たとえ世界の人類が全て死に絶え、あなただけが残っていても、自己中心的な希望が極まれば、それからどうするつもりなのか? 私は人類の幸福が永遠に絶えることを恐れる。国民が弱まり、あらゆる事で他人より劣っており、病はここにある。学術は千代にわたって人類共通のものであり、根本的には境界分けるべきではない。一国内であっても、同族の中で異なり見るべきではないし、国境があっても、我々は皆晴天の下で生まれ、何を秘密にする必要があるだろうか? その作用は低俗で、一文の価値もない。だから私は拳法を伝える際、来る者を拒まず、同好の人々がいれば教え、尽力して教え、尋ねる者がいれば告げ、尽義して告げる。常に人々が理解できないこと、または得る手段がないことを恐れている。故に教える際、聞いても悟らない者や、悟っても実践に移せない者には、しばしば遺憾の念を抱く。しかし、知って実行でき、さらに進歩する者を見ると、また満足の念に浸る。この心は、他人を慰めることによってのみ自己を慰めるものであり、決して師として自称することはない。人と人との交わりは、精神を大切にし、感情を重んじるべきであり、形式の称号にあらず。もし本当に学術を人に授けるならば、私は師として自称しなくても、その恩恵を受ける者は誰でも感謝と義理を持って師とするだろう。そうすれば、師の名は失われても、実は存続する。偽りの拳法で世を欺く者は、たとえ師に拝して弟子を称しても、明らかにその虚無を悟り、嫌悪して学ぶことをやめるだろう。これはどんなに師の名があっても、実は失われている。師徒の名分が定まっても、尊卑の観念が生じ、徒が師に向かって話すときに不適切なことを感じ、しばしば師の尊厳を侵すことを恐れて背けない。たとえ背けても、師は自らの尊厳を守るために厳しく非難するが、反省しない。これではどんなに学術の道義があると言えようか? 師徒の制度が拳道に利益をもたらさないことは、これで明らかである。それに加えて、門派の争いは師徒の制度の流行によって激化し、主従の関係が紛糾し、師から継いだ門派によって派閥が形成され、さらに派閥の分裂によって学理が複雑になり、これでは拳道の真義は永遠に明るい日を見ることはないだろう。また、学問に精通して初めて師がいる。もし三千回頭を下げて、八百回師を呼んでも、学術の根本を全く理解していなければ、師がどこにいるのか全く分からない。学術こそが宇宙の神聖であり、師は尊い。これが私が師徒の制度を解除すべきだと強く主張する理由である。それにもかかわらず、これは私個人の見解であり、拳界では師徒の制度が長年の慣習となっており、一時にして撤廃することはない。しかし、両者の学識と品徳が真に理解し合った後に実行することで、盲目的な追従の弊害を避けることが、より妥当であるように思われる。

結論

拳の修行は年月の長短、功力の深浅、体や年齢の高低にあるのではなく、また方法の多寡、動作の快慢、世代の高低にもあるのではない。要は学問の原則原理が通じているか否かにかかっている。特に天賦の精神が真の力を持っているかどうか、そして才志がどのようなものかを再度測って、その造詣の深浅を定め、将来どのような境地に達するかを予測するのである。拳を習うには最も大切なのは理を明らかにし、精神が力強いことである。言い換えれば、獣性のような篤い力があるか無いかである。そういった力が篤ければ、さらに修養を加えて、神志が清逸で大勇を鍛え上げれば、法海に入るのは難しくなく、道要を博し、通家に至り、神化の境地に達することもできるだろう。いわゆる通家とは、一つの分野に精通しているだけでなく、多種多様な学術において、その言葉を聞けばその程度がどのようなものか、正規であるかどうか、実際があるかどうかを知り、その方法を見れば、その底蕴が具体的か、局部的か、微に入り細を穿つか、どのような方法で補うかを一目で知り、一言で道を穿つことができ、いわゆる環中の得を以て無窮に応じることができる。教授する者は、人に規矩を語り、巧を示すことはできず、ましてや人工を為すことはできない。学者は精心模倣し、体験操存し、その後でその功夫と精神がどのように巧妙に協働しているかを観察する。以上で述べたのは拳道であり、それは拳拳服膺を拳とし、心領神会し、体認操存するという意味であり、世に見る一般の拳とは異なる。