意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

答疑(3)(『走進王薌齋』より)

問:大成拳は中国武術各門派の長所を集めたものでしょうか?

答:そうではない。私も大成拳に初めて触れた時はそう聞いていた。1980年代、常志郎先生に系統的に大成拳を学んだ時、私も無意識に「大成拳は中国武術各門派の長所を集めたもの」と言ったが、後に常先生に訂正された。王老先生は「大成拳は天下の大成を集めたもの」と言った。天下の大成を集めるとは何か? 第一に、中国の人類誕生以来の真の格闘経験、王老先生の言う「一拳一脚一刀一槍の時代」。第二に、禽獣の長所を吸収した時代。第三に、筋骨を鍛錬した時代、これ以降中国武術は成熟し、練法、用法が形成された。前の二段階は中国のもので、後の筋骨鍛錬段階は外国のものである。一、三段階は人間のもの、第二段階は動物のもの、故に天下の大成を集めたと称する。この言葉も薌齋老先生の言葉ではなく、代々口伝心授されてきたものである。

中国武術の全盛期は明朝で、明朝以前の武術は派に分かれておらず、全て一派で、少林拳と呼ばれていた。明朝滅亡後、清朝政府は中国武術を発展させず、中国の武術家も清朝政府に中国武術を理解・把握させたくなかった。大部分の武術家は伝承しない方法を採り、中国武術が失われても清朝政府の手に落ちるのを望まなかった。少数の武術家は、この武術を失わせないために、密かに中原人(彼らは清朝を外国人と見なした)に伝えた。そのため形意、太極、少林拳の各派が現れ、後に八卦掌も出現した。

民間伝承のため、経済、人的資源等の保障が得られず、西洋文化の影響もあり、中国武術套路、招式を発展させ始め、表演に有利になった。薌齋先生はこれを「生計を立てられない者」と呼んだ。この意味で、中国武術各門派の本来の意図は明朝以前の武術であり、全て天下の大成を集めた拳術で、各門派の長所を集めた一門の拳術など存在せず、各門派の原始は全て一派であった。

王薌齋先生は生涯、中国明朝以前の武術の伝承を提唱し、彼の言葉で言えば「志を立てて拳学を唱導し、元始に復古する」であった。中国武術の発展は三段階を経て成熟した。この三段階は多くの武術の大家に天下の大成を集めたと呼ばれ、王薌齋は「大成」の二字を用いた。その心は、彼の拳が明朝以前の武術であることを示すためであった。王薌齋の拳は理論から実際の練法まで代々伝わってきたもので、大成の二字さえも王薌齋自身の創作ではなく、多くの先人の意図であり、彼がこの二字で拳を命名しただけである。王薌齋によると、形意拳も姫際可の創作ではなく、このような深遠な拳術は一人の姫際可では創り出せず、千人万人の姫際可でも創り出せない。彼も継承したものであり、ただ記録がなかっただけである。中国武術の各門各派は誰か一人が創り出したものではなく、中国五千年、千千万万の能人が共同で創造したものである。王薌齋老先生はよく言っていた、一人で創れる拳は価値がなく、価値のある拳は一人では創れないと。

問:技撃を練習したくなく、養生だけを練習したいです。大成拳の站樁は養生価値が高いと聞いたが、養生面の知識をもう少し詳しく話してもらえないでしょうか?

答:まず肯定すべきは、あなたの心構えが特に良く、大成拳を練習する上でこのような心構えを持つべきで、大成拳の規律にも合っている。大成拳の練習は本来養生から入るべきで、多くの人が最初から技撃を学ぼうとするが、結果として急ぐと達成できない。中国には多くの武術の大家がいるが、彼らが拳を練習した当初の目的は身体を鍛錬することで、武術家になろうとは全く考えていなかった。結果として後に大武術家、技撃の高手となった。王薌齋老先生もそうだった。

大成拳の核心は筋骨の鍛錬で、骨を鍛えることは気を養うことであり、気は骨から生じ、気が十分に養われれば身体は自然と良くなり、抵抗力も強くなる。筋を鍛えることは気を全身に送ることで、気が四梢に貫く。気が十分で上昇下達し、陰陽の平衡が取れれば、自然と百病は生じず、たとえ病気になっても治りやすい。人が病気になるのは全て気血不足か、経絡が通じないことが原因だ。正常な人は、気が経脈を通じて全身に運ばれるが、経脈に一旦問題が生じると、気血がある経脈で通じなくなり、疾病を引き起こす。筋骨を鍛錬することは、経脈を良い状態に保ち働かせるだけでなく、筋も鍛え、筋も気を送る通路となる。南水北調工事のように、南方は水が多く北方は水が少なく問題が生じやすいので、人為的に南方の水を北方に送り、北方に二つの管路で給水し、北方の用水を確保する。筋を鍛えるのもこの理屈で、経脈で気を運ぶのは生まれつきのもので、親からもらったもの。後天的な鍛錬で筋を鍛え出し、気を運ぶ通路をもう一つ増やし、我々の身体に問題が出ないようにする。これは薬ではできず、自分で練習するしかない。

大成拳の練習において養生と技撃は切り離せない。養生は技撃の基礎で、養生がうまくいけば技撃を練習したくなくても難しい。もちろん技撃を練るからといって、必ずしも技撃という競技に参加するわけではないが、よく練れば必ず養生と技撃を同時に備える。王薌齋には多くの弟子がいて、技撃能力は皆優れていたが、彼らは政治家、軍事家、芸術家などで、具体的な状況により、技撃という競技に参加することはできなかったが、それは彼らが高い技撃能力を持っていないということではない。養生から大成拳の練習に入るのは非常に良い考えで、大成拳を練習する自然な規律に合っており、このように練習すればかえってうまくいく可能性がある。養生が最も重要で、人は中高年になってこそ、この点を深く理解できる。体調が良いことが人生最大の幸福だ。この意味で、大成拳の練習は一生人に奉仕でき、生涯享受できる。

問:含蓄とは何でしょうか?

答:「含蓄」は薌齋老先生がよく言及する概念で、含蓄は拳を練習してかなり高い境地に達した時に身体に現れる一種の状態で、弓に矢をつがえた状態のようで、手を離せば矢が飛んでいく。この状態は生理学的に言えば、身体の力を使うべき場所で力を使え、力を使う必要のない場所で完全に放松できる状態だ。つまり、緊張すべき場所で緊張でき、緊張する必要のない場所で放松でき、松緊が同時に存在する。また、「力を発しようとして発していない」状態が含蓄とも言える。筋骨の鍛錬は人の生理を改造することで、含蓄状態は筋骨の鍛錬がある程度に達した時に身体に必然的に現れる一種の状態だ。

意念から言えば、先人は含蓄を一般に「烈馬が手綱を噛むように」や「鷹が鶏舎に下りる用に」と形容した。意念は生理改造の過程で現れる一種の像で、まず生理的な変化があり、何かに似ている状態が現れる。この何かに似ているのが意念だ。意念は空想で考え出すものではない。もし筋骨の鍛錬を行わず、生理的な変化が起きず、松緊が同時に存在できない状態で、単に「烈馬が手綱を噛む」「鷹が鶏舎に下りる」を想像させても、身体のその状態を想像できるだろうか? たとえ想像できても、身体が含蓄の状態にあり、一触即発、感じたらすぐ反応できるだろうか? 含蓄はこのようなもので、他の拳学の概念も同様で、全て筋骨を鍛錬して練り出したもので、空想で考え出したものではない。正しい形を通して筋骨を鍛錬し、生理が変化すれば、意念が現れる。意念が来たら意念を留めて意で拳を練習できる。

含蓄状態は技撃において非常に大きな作用がある。技撃時に一旦二つの力が接すると、すぐに発力することができ、動作の調整をする必要がない。含蓄状態に達することができれば、筋骨はかなり高い程度まで鍛錬されたことを示し、この時気血は充足し、上下が通じ、気も基本的に四梢に貫くことができ、これは養生に非常に良い。

李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より